ウィリアム・アダムス(三浦按針)の謎 なぜ大量の武器を積んで日本にやって来たのか?

イギリスの歴史
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こんにちは。たなかあきらです。(19.12.15更新)

今回は、イングランド人として初めて日本に来日しサムライとなった、ウィリアム・アダムス(三浦按針)についてのおはなしです。

ウィリアム・アダムスは日本に漂流した時に大量の武器を積んでいたそうです。これの事が、関ヶ原の戦いにも影響を与えたとも言われています。

そもそも何故、ウィリアム・アダムスは武器を積んで、日本に向かったのでしょうか?

実は、当時のイングランド女王エリザベス1世の思惑があったのでは?と考えられます。

関ヶ原の戦いで東軍の所持品に疑問が・・・

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1600年、関ヶ原の戦い。東軍7万5千、西軍8万2千の総勢16万の戦いは三ヶ月以上の長期戦が予想された。しかし、わずか7時間で家康が勝利した。通説では小早川秀秋の寝返りが原因と言われている。

しかし、それ以外の原因も示唆されている。

家康を祭っている日光東照宮には、家康が関ヶ原の戦いで着用していた甲冑がある。その甲冑の形は、戦国武将が着用していたものとは形が異なっている。

甲冑は南蛮胴具足と言い、当時ヨーロッパからもたらされた甲冑と、日本古来の甲冑と組み合わせた和洋折衷のものである。特に胴の部分は西洋甲冑にそっくりで、銃弾をはじきやすい作りになっている。

なぜ家康は、南蛮胴具足を身に着けていたのだろうか?

※日光東照宮にある重要文化財の南蛮胴具足

日光東照宮ホームページ|日光東照宮宝物館

さらに、関ヶ原の戦いは弓矢や刀を使った戦いと思われがちだが、大砲や銃砲を用いた重火器戦だったようだ。西軍は5砲、徳川東軍は30砲で戦い、武器装備の差が出た、と指摘されているのである。

徳川側はなぜ、多くの西洋武器を持っていたのだろうか?

ウィリアム・アダムス漂着の影響ではないか?

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その時代に日本に現れ、徳川家康に重用された、三浦按針という人物がいる。三浦按針は、イングランド人でウィリアム・アダムスというのが本名である。イングランドでは造船業に携わり、軍役の後は航海士として経験を深めた。

ウィリアム・アダムスは航海士として仕事する中でオランダ人船員たちと交流を深め、ロッテルダムから極東を目指す航海の噂を聞きつけ、弟らと共に参加した。

航海は5隻からなる船団で行われ、ロッテルダムを出港した。しかし、2隻はスペインやポルトガルに捕らえられ1隻は引き返し、2隻が太平洋に出たものの1隻は沈没し、ウィリアム・アダムスが乗るリーフデ号のみが極東に向かった。

悪天候などにより110名の乗員中、24名のみ(3名は上陸後死亡)が大分県に漂流したと言われている。

ウィリアム・アダムスらは捕らえられ、大量の武器を積んでいることもあり、イエズス会の宣教師らに海賊として死刑を要求される。
しかし、家康と面会し海賊である疑いが晴れて、釈放された。

ウィリアム・アダムスとは (ウィリアムアダムス)

この家康との面会から約半年後に関ヶ原の戦いが起こったのである。この時に、リーフデ号に積まれていた、大砲や火薬も使われたという。

つまり、ウィリアム・アダムスらによってもたらされた武器のおかげで、家康は関ヶ原の戦いで勝利できたのではないか、と考えられるのである。

国会図書館に残されている当時の宣教師の記述によると、リーフデ号には驚くほど大量の武器が積まれていたのだ。

大型大砲19門 
小型大砲12門 
銃500丁 
砲弾5000発 
火薬2500kg 
鋼鉄製の甲冑

なぜ、ウィリアム・アダムスらはリーフデ号に大量の武器を載せていたのであろうか?

戦争のためであろうか?

大量武器の目的

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リーフデ号は漂流して偶然に日本に漂着した、というのが定説である。しかし、初めから日本を目指して航海をしたのでは、と言う見方もあるのだ。

大英図書館にウィリアム・アダムスが当時イングランドの東インド会社にあてた手紙が残っていた。そこには、文章には「我々は日本を目指した」と書かれているのだ。偶然日本に漂着したのではなく、最初から日本を目指していた可能性がある。

当時、エリザベス1世はフランシス・ドレークの世界一周を皮切りに、世界航海に進出を狙い、アジア圏の貿易を独占しようとしていた。

羊毛産業を基礎とした毛織物工業の発達を利用して貿易に力を入れ重商主義を掲げて、関ケ原の戦いが起きた1600年に東インド会社を設立していた。

重商主義:貿易などを通して貴金属や貨幣を蓄積し国富を増やす

しかし、当時はスペインやポルトガルの勢力が強く、宗教的にもイングランドは対立をしていた。そして、1588年にはエリザベス1世のイングランド(+オランダ)と、フィリペ2世のスペイン(+ポルトガル)がアルマダの海戦で戦ったのである。

・イングランド側:プロテスタント、スペイン側:カトリック

アルマダの海戦

当時の日本においては、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルが1549年に来日し、カトリックを伝えて以来、貿易はスペインとポルトガルが独占していた。

日本にトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、スイカなどの農作物や、火縄銃、メガネ、タバコ、薬品などを輸出し、銀を輸入していた。(南蛮貿易)

このスペインやポルトガルとの南蛮貿易は、信長の時に始まり豊臣家側(西軍)が受け継いでいた。

日本の貿易史 – Wikipedia

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南蛮貿易でスペインとポルトガルが独占している状況に、エリザベス1世は面白くないと考え、家康と手を組んで日本との貿易を奪おうと考えたのではないだろうか?

このため、ウィリアム・アダムスらが乗るリーフデ号を日本に送り、家康側に武器を供給して、勝たせようともくろんだのではないか?

真実かどうかは分からないが、当時の情勢を考えると、可能性はあるのではないかと思う。 

※家康は貿易に力を入れ、ウィリアム・アダムスらの協力もあり、朱印船貿易を始めた

朱印船貿易

※最終的にはオランダと日本の貿易となったが、それまではイングランドも日本との貿易を行った

オランダは、ポルトガルが日本との貿易で利益を得ていることを知り、銀を得るために進出を計画してスペイン・ポルトガルと紛争を起こした

オランダのリーフデ号が日本に漂着した際に、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)も乗り込んでおり、日本に来た初のイギリス人となった。家康はオランダとの貿易を望み、ヤックス・スペックスが平戸に来航する。

スペックスは家康の外交顧問となったアダムスを通じて朱印状を得た。同年にはオランダ東インド会社が日本の緑茶平戸から運び、フランスやイギリスで飲茶が広まるきっかけとなった。(ウィキペディアより)

備考)その後のウィリアム・アダムス

ウィリアム・アダムスは、造船の深い知識を買われて、家康に重宝された。西洋式の帆船の建造を家康から依頼され、80トン、120トンもの大型船を建造した。

この功績により、ウィリアムは家康に相模国三浦郡の土地250石を与えられ、旗本の地位も得た。更に、三浦按針の名前も授けられたが、家康に引き留められ、生涯イングランドに帰ることはなかった。

※三浦:地名 按針:水先案内人 を意味する

👉参考:エリザベス1世に関する記事
エリザベス女王1世の功績と結婚・恋愛話 

👉フランシス・ドレークに関する記事

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歴史ミステリー 関ヶ原の戦いの黒幕はエリザベス女王だった?

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