イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

中世ウェールズで唯一全国統一を成し遂げた王 ミートボールの逸話

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こんにちは、たなかあきらです。

長い中世ウェールズの歴史を見渡しても、ウェールズの全土をほぼ治めることができた人物は、数名程度しかいません。

さらに、全国を完全に統一できた人物はと言いますと・・・・

紀元前から、ウェールズがイングランドに征服される13世紀末まで見ても、わずか1人しかいません。

 

その一人とは、グリフィズ・アプ・ラウェリンという人物です。しかし、グリフィズの若い頃は、でくの棒のようで無用に生きていました。

 

今回は、戦乱時代のウェールズに生きたグリフィズの生涯について簡単にお話を致します。

 

目の覚めた虚け者と言われたプリンス 


11世紀のウェールズは、ウェールズ北部(グウィネズ)とウェールズ西部(デハイバース)、ウェールズ南部(モルガンウィグ)に分かれており、ウェールズ北部とウェールズ西部では、主導権を握る王室の家系や人物がコロコロ変わっていました。

 

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この戦国の様なウェールズ北部に、グリフィズと呼ばれる少年がいました(Gruffydd ap Llywelyn)

グリフィズの父ラウェリンはウェールズ北部のグウィネズを統治していましたが、グリフィズが16歳頃の時に父が亡くなり、領土は別のウェールズ王室のイアゴに奪われてしまいました。

領土を奪われたグリフィズの家族は、母の祖国である隣国のポウィスに逃れて暮らしました。

 

※グリフィズはハウェル・ザ・グッドの子孫であるウェールズ王室の家系
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※イアゴは、イドワル・ヴォエルの子孫であるウェールズ王室の家系

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※この時代の詳細はこちらの記事をご覧ください
👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです

 

 

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なるほど~。母の祖国に逃れて援軍を集め、報復攻撃をする狙いですね

  

 

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やられたらやり返す、奪われたら奪い返すのが、戦乱時代の常識。しかし、グリフィズには国を取り返そうという意気込みは全くありませんでした。
僕は争いはまっぴらごめんと、無能で怠惰な青年期をダラダラと送っていました。

 

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むむむ、これじゃあグリフィズの親類もフラストレーションが溜まりますよね。

 

 

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何度言っても動こうとしない「ウェールズのうつけ者」
に、姉からとうとう愛想を尽かせてしまいました。

将来、国をしょって歩むどころか、グリフィスはポウィスの家から追い出され、勘当されてしまいました。

  

 

 

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行くあてもないグリフィズ
は、流浪生活を送らざるを得ませんでした。お腹もすいて途方に暮れたグリフィズは、ある日とある村を歩いていたときに、料理の良い匂いがしてきました。

お腹を空かせたグリフィズはその匂いにつられて行きました。

 

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まさかプリンスが、村民の料理をつまみ食い?? 

 

 

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グリフィズは料理をしている村人の家の中をのぞき込みました。そこで村人は、なべを使って肉団子をぐつぐつと煮ており、何やら文句を言っていました

 

「やっかいな肉団子だ!この1つのミートボールだけ何度鍋に入れても、飛び出してきやがる!!」

その飛び出るミートボールを見てグリフィズは、はっと我に返りました。

 

 

 

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何か悟ってしまったのでしょうか?

 

 

「俺は底に沈んだ肉団子になってはダメだ。あの飛び出してくる肉団子の様に、やられてもやられても、敵に抵抗して父の国を取り戻さないと・・・煮え切らない生活を送っていてはだめだ・・・・

 

 

 

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この肉団子鍋が転機となって、グリフィズはぐうたら生活をやめ、ポウィス国に戻り兵力を蓄え反撃のチャンスをうかがったのです

そしてチャンスは訪れました。グリフィズが32歳ごろの時に(1139年)、宿敵のイアゴが部下に暗殺された隙を突いて、グウィネズ国を奪回しました

 

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ついにやりましたね、グリフィズ。

※ここまでの年表
・1007年頃:グリフィズが産まれる
・1023年:父ラウェリンが没し、イアゴに国を奪われて国外へ脱出する
・1039年:アベルファラウ家で統治者のイアゴが内乱で暗殺された隙を突いて、グウィネズを奪った。グウィネズの支配下にあったポウィスも治めた

 

勢いに乗り領土の拡大を狙うも・・・

 

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ウェールズの北部を奪回したグリフィズは、今度は南西部に勢力を広げようともくろみました。

ウェールズの南西部はデハイバース(DEHEUBARTH)と呼ばれる国がありました。1043年に、勢いに乗るグリフィズはデハイバースを攻撃し、統治者のハウェルを追い出して、デハイバースとハウェルの妻を奪い取りました。

 

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妻まで奪われたハウェルは黙っていませんでした。1044年にデンマークのヴァイキング(デーン人)の助けを借り船団で反撃に出たのです。

 

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恐ろしい~ヴァイキング・・・

 

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当時のヴァイキングは最盛期だったと思います。デンマークのヴァイキング、クヌート大王などがイングランドを征服していた時期です。

しかし、グリフィズはヴァイキングの助けを借りたハウェル軍を打ち破りました。ハウェルは戦死し、グリフィズはデハイバースの領土を守ったのでした。

 

 

 

 

 

新たな敵の出現~全国統一へ

 

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南部のウェールズでも情勢は大きく変わろうとしていました。

従来の南東部は小さな国々に分かれていましたが、リデルヒが出現してからは統合されてモルガンウィグになりました(Morgannwg)。

リデルヒは勢力を拡大しようと考え、息子のグリフィズが西部のデハイバース(Deheubarth)に攻め混んできたのです。

 

※モルガンウィグは地図中南部の海に面した国 

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グリフィズはリデルヒの息子に攻められ敗北し、デハイバースから追いだされてしまいました。翌年の1048年、グリフィズはデハイバースを奪回しようと何度も反撃を試みるましたが、失敗に終わってしまいました。

 

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新たな敵の出現!それも手ごわし!グリフィズの気も休まりませんね~ 
グリフィズはどんな手段に出たのでしょうか?

 

 

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敗れたグリフィズはあきらめませんでした。虚けと言われた若いころとは大違いです。グリフィズはウェールズ国内の協力ではなく、国外に目を向けました。

 

1055年にイングランドのマーシア伯エルファガーの協力を得て、リデルヒの息子に攻撃を加え、ついにデハイバースを取り戻しました。

勢いに乗ったグリフィズは軍を東方に進め、1058年に宿敵リデルヒの地であるモルガンウィグなどを奪い去ったのでした。

 

こうしてグリフィズ・アプ・ラウェリンは、長いウェールズ中世の歴史において、ウェールズ全域を支配した唯一の人物となりました。

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グリフィズ・アプ・ラウェリンのウェールズ統一(1039年~1058年)

 

 

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グリフィズの活躍を振り返ると、「肉団子(ミートボール)さまさま」ってことですね

 

最後に:グリフィズの年表と功績

・1007年頃:グリフィズが産まれる
・1023年:父ラウェリンが没し、イアゴに国を奪われて国外へ脱出する
・1039年:アベルファラウ家で統治者のイアゴが内乱で暗殺された隙を突いて、グウィネズを奪った。グウィネズの支配下にあったポウィスも治めた

・1043年:デハイバースのハウェルを攻めて追い出して、デハイバースを奪い取った。

しかし、妻まで奪われたハウェルはデンマークのヴァイキングの助けを借り船団で反撃に出た。

・1044年:ラウェリンはハウェルを撃破して殺害し、デハイバースの領土を再び奪い取った


・1047年:モルガンウィグのリデルヒの息子にデハイバースを奪われる
・1048年:何度もモルガンウィグに対抗するもデハイバースを奪回できず

・1058年:イングランドの協力を得てモルガンウィグを破り、ウェールズを統一
・1063年:グリフィズ没

 

1062年に同盟を結んでいたマーシア伯のエルファガーが亡くなると、翌年の1063年にイングランド王ハロルド2世は弟トスティグとウェールズに侵略を開始しました。

グリフィズは北ウェールズのスノードニア山脈に逃亡しましたが、一説によると1039年にグリフィズが雪辱を晴らしたイアゴの息子コナンに殺害されたそうです。

 

グリフィズは「ウェールズ全土を支配した唯一のウェールズ王」でした。グリフィズが全国を統治したわずかな期間は、争いもなくウェールズに平和がもたされました。

 

1066年にハロルド2世は、フランスのノルマン人ギョーム2世に攻撃されて戦死し、イングランドもギョーム2世に征服されたのでした(ノルマン征服)。

その後、ウェールズもノルマン人の侵略を受けるようになったのです。

 

今回とその後の時代の流れ:
👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです

👉<改訂版>第6章 プリンス・オブ・ウェールズの登場とノルマン・イングランドとの激しい戦いの結末

 

ウェールズについて

👉ウェールズの歴史が面白いと言われている4つの理由!

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

ヴィンランド・サガ TVアニメ化はいつから? 情報を纏めました

こんにちは、たなかあきらです。

漫画「ヴィンランド・サガ」が2019年にTVでアニメ化されます(19.1.6時点では詳細不詳)

ヴィンランド・サガのファンにとってワクワクしますし、とても待ち遠しいです。

今回は、テレビアニメ放送についての事前情報について纏めました。

※おすすめ記事
👉ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた
👉ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? ヴァイキングとアーサー王との関係の謎を追跡!
👉ヴィンランド・サガ カテゴリーの記事一覧

 

TVアニメの紹介文と動画 

 公式ホームページに載っている紹介文章です。この文章を見るだけでワクワクしてきます。トルフィンの活躍が目に浮かんできますね。

TVアニメ「ヴィンランド・サガ」公式サイト

 

 

youtu.be

千年期の終わり頃、 あらゆる地に現れ暴虐の限りを尽くした 最強の民族、ヴァイキング。

最強と謳われた戦士の息子トルフィンは、 幼くして戦場を生き場所とし、 幻の大陸"ヴィンランド"を目指す――

激動の時代で巻き起こる、 本当の戦士の物語サガ。

 

登場人物の絵

登場人物やシーンのいくつかがTwitterで公開されていましたので、集めてリンクを張りました。 

トルフィンの絵

めちゃめちゃカッコいい! トルフィンの素早い動きで相手をバタバタ倒すシーンを早く見てみたい!

 

トルフィンvsアシェラッド

これは第1巻の印象的な場面です(第2話)。漫画を読んでいても手に汗握る場面でした。2人の動きはどのようにアニメで表現されているのでしょうか?
因縁の激突を早く見たいです!

 

フランク王国へ侵略 

これも第1巻の場面ですね(第1話)。11世紀にフランク王国にトルフィンとアシェラッドが攻め入る場面です。ヴァイキングの圧倒的な強さに釘付けになったシーンでした。

 

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンコミックス)

 

その他のアニメレポート

◆その他場面のアニメレポート(公式ツイートより)

TVアニメ「ヴィンランド・サガ」公式 on Twitter: "【アニメ現場レポート5】
さて今回はトルフィン一家が暮らした家です!!

TVアニメ「ヴィンランド・サガ」公式 on Twitter: "【アニメ現場レポート4】
トルフィンが生きた時代、人々は船を使って海を渡りました🌊というわけで今回は船をチラみせ

TVアニメ「ヴィンランド・サガ」公式 on Twitter: "【アニメ現場レポート3】
今回は、トルフィンが家族と過ごしたアイスランドの美しい景色を大公開

 

楽しみで、待ち遠しくてたまりませんね。

 

※こちらは最新刊

※おすすめ記事
👉ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた
👉ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? ヴァイキングとアーサー王との関係の謎を追跡!
👉ヴィンランド・サガ カテゴリーの記事一覧

 

アーサー王が活躍した「ベイドン山の戦い」の場所 実在の候補地を集めました

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こんにちは、たなかあきらです。

「ベイドン山の戦い」
はケルト系のブリトン族とアングロ・サクソン族との戦いで、5世紀の終わりから6世紀の初めにかけて起こったと考えられています。


ブレトワルダ(最も勢力の強かった王の称号)のアエラ王が率いるサクソン軍に対しブリトン族は大勝利し、アングロ・サクソンの王国が拡大するのを阻止しました。

ブリトン軍を率いて活躍したリーダーは誰でしょうか?

 

今日では、アーサー王が「ベイドン山の戦い」に勝利したと考えられています。
・歴史書には「ベイドン山の戦い」はどのように記述されているのか?
・かっこたる証拠はないものの、「ベイドン山の戦い」は現在のどの場所で行われたのか?

 

定説ではバースと言われていますが、7か所の候補地についてお話を致します。

 

おすすめ:👉分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ

歴史書に見る「ベイドン山の戦い」

「ブリトン人の没落」


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6世紀にイギリスにいたキリスト教司祭ギルダスが書いたとされる『ブリトン人の没落』と言われています。しかしアーサー王という名前は直接は出ておらず、アングロサクソン人と戦ったケルト人指揮官がいたことが、記述されています。

 

「ブリトン人の歴史」

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9世紀にネンニウスによって書かれた『ブリトン人の歴史』(828年頃)では、アーサー王に関する具体的な記述がある初めての歴史書です。
アーサー王は単なる軍の指揮官または戦士として登場し、12の会戦が記録されており、一人で960人のサクソン敵兵を倒したと記述があります。この戦いが「ベイドン山の戦い」と考えられています。

 

「カンブリア年代記」

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11世紀に書かれた『カンブリア年代記』では、ベイドン山の戦いは516~518年とされています。アーサーは三日三晩の間十字架を両肩で担ぎ、ブリトン人が516~518年の戦いに勝利(おそらくアングロサクソン族との戦い)したとされています。

 

参考:
👉アーサー王伝説 アーサー王は実在したのか?歴史書にみるアーサー王と先祖

 

「ベイドン山の戦い」の実在の場所

 

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ベイドン山の戦いは、現在のどこに位置するのでしょうか?

明らかな証拠は見つかっていませんが、幾つか候補地を挙げます。

 

リディントン城の説

 


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イングランドのウィルトシャーにある、リディントン城が「ベイドン山の戦い」が行われた場所の候補地です。

リディントン城は鉄器時代(紀元前800年~紀元100年頃)に造られた要塞であり、バドベリー城(Badbury Castle)とも呼ばれています。その要塞または要塞跡が、ベイドン山の戦場となったのでしょう。

BadonとBadburyの名前も似ていますし、リディントン城の場所はアエラ王の領土(South Seaxe)からも近い事から、リディントン城の可能性もあるでしょうね。

 

・リディントン城(ウィルトシャー)の場所

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Badbury, Wiltshire - Wikipedia


※アエラ王の領土(赤く囲った付近が、South Seaxe)

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500~550年ごろのブリテン島の勢力範囲

The Anglo-Saxon Conquest in Mapsより

 

バドベリー・リングスの説

 


youtu.be

 

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イングランド南西部のドーセット州にあるバドベリー・リングス(も候補地として挙げられています。

バドベリー・リングスも鉄器時代に造られた要塞で、名前もベイドンに似てますし、場所もアエラ王の領土(South Seaxe)からも近い事から、リディントン城と同じ理由で「ベイドン山」の候補地と考えられます。

 

※バドベリー・リングス(ドーセット)の場所
Badbury Rings is located in Dorset

Badbury Rings - Wikipedia

 

 

有力なバース(Bath)の説

youtu.be

 

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最も有力な説は、ベイドン(Badon)はイングランド南部のサマーセット州にある現在のバース(Bath)であるという説です。

バースの近郊には、リトル・ソルスベリー丘とバサンプトン・ダウン丘があり鉄器時代の要塞であった場所です。

先に説明しましたリディントン城やバドベリー・リングスとも場所的に近く、アエラ王の領土の近郊に位置しており、ベイドン山の有力な候補地です。

 

 ・リトル・ソルスベリー(Little Solsbury)
 Solsbury Hill - Wikipedia
・バサンプトン・ダウン(Bathampton Down)
 Bathampton Down - Wikipedia

  

バースには有名なローマ風呂があり、ローマ人たちはバースの事をスリスの水( Aquae Sulis、the waters of Sul)と呼んでいました、と考えられています。

バース (イングランド) - Wikipedia

 

※リトル・ソルスベリーとバサンプトン・ダウンがあるサマーセット州

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2つの丘の中でもリトル・ソルスベリーが有力な説であり、バースから2km離れた場所にあり、バースの市街や周辺が良く見渡せます。

 

バースは領土拡大の絶好の場所で、サクソン軍はターゲットとして狙い577年に奪ったとされています。 

 

ボウデン丘の説

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ボウデンの丘(Bowden Hill)はスコットランドのエジンバラの近く、リンリスゴー(Linlithgow)にあります。

Bowdenの名前もBadonに似てますし、円卓の騎士たちの多くのモデル人物はスコットランド付近の統治者が多く、アーサー王はブリタニアの北部の王であったという説から来ています。

参考記事:例えば👉実在人物のアーサー王とパーシヴァルの関係

 

※場所

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Linlithgow - Wikipedia

 

映画キング・アーサーでも「ベイドン山」の戦いは描かれており、場所はハドリアヌスの長城のすぐそばの、スコットランドになっています。 

キング・アーサー [DVD]

キング・アーサー [DVD]

 

参考: イギリスの世界遺産 「ハドリアヌスの長城」の歴史 


その他の候補地

・バドベリー・キャンプ(Badbury Camp)

 場所:オックスフォード州
 Badbury Hill - Wikipedia

 

・マイネッズ・バーダン(Mynydd Baedan)
 場所:ウェールズ南部
 Mynydd Baedan Map - Wales


・ダンバートン(Dumbarton)
 場所:南部のスコットランドにあります。
 Dumbarton Castle - Wikipedia 

 

最後に

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「ベイドン山」の戦いの実際の場所の詳細は、今までの所良く分かっていません。しかし、いずれの場所も可能性はあり、それぞれの場所でのベイドン山の戦いを想像してみるのも、興味深いのではないでしょうか。

新たなアーサー王の像が見えてくるかもしれません。

 

おすすめ:👉分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ
アヴァロンの場所:👉アーサー王の墓 アヴァロンはどこにあるのか?

キャメロットの場所:👉アーサー王の城 キャメロットはどこだ? 6つの候補地を紹介

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

アーサー王について良く分かるおすすめの本

 

ランスロットの名前を持つ人は世界にどのくらいいるの?

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こんにちは、たなかあきらです。

ランスロット(Lancelot)は、アーサー王物語などに登場する伝説の人物で、円卓の騎士の中では最強と言われています。

このランスロットの名前の人は、これまでに何人くらいいるのか、面白いデータを見つけたので紹介いたします。

👉「円卓の騎士」の一覧。25人の「円卓の騎士」とは?

 

ランスロットの概要

ランスロット(Sir Lancelot、ラーンスロット、ランスロ、ランスローとも呼ばれる)はアーサー王の円卓の騎士の中では最強で最も活躍した人物です。

アーサー王に忠誠は誓っているものの、王妃グィネヴィアとの不義の恋となり、円卓の騎士たちが分裂する原因を作ってしまいました。

ランスロットが初めて登場するのは、クレチアン・ド・トロワの「ランスロまたは荷車の騎士」であり、この話がアーサー王物語(トマス・マロリー著の「アーサー王の死」)に取り入れられた、と言われています。

 

👉最強の円卓の騎士、湖の騎士ランスロットの生い立ちから女性関係まで 

 

ランスロットの名前の意味

LancelotはLance+lotに分けられ、lanceは槍という意味で、lotはそのままの意味では、「くじ、運命、地区、一束の」などの意味です。

「槍の使い手」そんな意味になるのでしょうか。

 

ランスロットという名前を持つ人たち

 地域別のランスロット

ランスロット(Lancelot)は過去からこれまでに、

・フランス・・・1万人以上
・イギリス・・・約2000人
・アメリカ・・・約900人
・オーストラリア・・・約900人

いたという調査内容があります。

(なぜか日本において1500年までに北海道室蘭付近に7人いたということになっています)

 

地域で見ますと、ランスロットの出身地といわれているブルターニュ地方が半数近くをしめており、フランス西部~ベルギー、フランス南部と、中世にガリアと呼ばれていた地域に集中しています。

次いで、アーサー王物語の地であるイングランド、スコットランドが多いです。

アメリカではバージニア州、オーストラリアでは南西部が多いです。

人々の移住の歴史を見ると、ランスロットの名前の広がりについて何か分かるかもしれませんね。

 

時代別のランスロット

1600年以降でみますと、1600年代前半に多く見られましたが、その後は全くすたれて、1980年代から再びつける人が多くなり、1990年以降は急増しています。

 

1600年代は、アーサー王物語やランスロットの話が広がったためでしょうか。

1990年以降は映画やゲームなどの影響があるのかもしれません。

 

2000年~2019年までには

全世界で約250人、ランスロットと名付けられたという調査内容です。(190人と大部分がフランスです)

 

 ※参考サイト
このサイトで調べてみました。遊んでみるのも楽しいです。

Ieyasu(家康)、Nobunaga(信長)と打ち込んでも出てきます

https://en.geneanet.org/

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

👉円卓の騎士、ランスロット卿の家系図を描いてみた

👉ランスロットのモデル人物を探る その1:ランスロットの父バン王の実在人物を調べた 

👉「円卓の騎士」の一覧。25人の「円卓の騎士」とは?

 

 

<改訂版>第8章 テューダーの発祥とは? イングランド王室に影響力を及ぼしたウェールズの血筋

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5世紀初めに設立されたウェールズ王室が、北部を中心にウェールズを統治していましたが、13世末にイングランドによって征服されました。

その後、各地で独立の反乱は起きましたが、15世紀の初めに起きた英雄オウァイン・グリンドゥールの反乱も鎮められイングランドの支配力が強まりました。

ウェールズの王室も途絶えてしまったかの様に思えますが、細々と生き残り結果的にイングランドの王室や歴史に大きな影響を与えたのです。

その発端は、逆玉の輿に乗った、一人のウェールズ人でありました。

 

連載の中世ウェールズの歴史番外編です。

👉改訂版 中世ウェールズの歴史 カテゴリーの記事一覧 

 

※時代の区切りや呼び方は筆者が独自に表現しているものです
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逆玉の輿に乗ったウェールズ人 


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オウァイン・グリンドゥールの反乱が終わった15世紀の話だよ。

反乱の影響でウェールズに対するイングランドの圧力は強く、ウェールズ人というだけで逮捕されたり危険人物視されていたんだ。

 

※参考に
👉<改訂版>第7章 英雄プリンス・オブ・ウェールズの逆襲! イングランドから独立をかけた戦い

 

 

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ウェールズ人にとっては住みにくい時代ですね。
 

 

 

 

 

 

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15世紀の初め頃、イングランドにオーウェン・テューダーと呼ばれるウェールズ人がイングランド王室で使用人として働いていた。

 ※オーウェン・テューダー(Owen Tudur)はイングランド名で、ウェールズ語では、オウァイン・アプ・マレディズ・アプ・テューダー(Owain ap Maredudd ap Tudur)と呼ぶ。テューダーの息子マレディズの息子オウァイン、の意味。

  
オーウェンはイングランドでは使用人の暮らしではあったが、ウェールズ王室のラウェリン大王に仕えた執事の直系で、母方はウェールズ王室の血筋という、ウェールズ名門の家系であった。

しかし、時代はイングランドに対するウェールズの反乱が終わり、ウェールズ人は犯罪者扱いの時であった。

 

オーウェンはイングランド王ヘンリー5世の王妃キャサリンの衣装係として何とか職を得て、下っ端使用人の肩身の狭い生活をしていた。

しかし、ある時オーウェンの人生を大きく変える出来事が起きたのだ。

  

イングランド王妃との駆け落ち?

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イングランド王ヘンリー5世は早世し、キャサリン王妃は未亡人となっていた。キャサリンはまだ若く、名ある伯爵とスキャンダラスな噂が流れるなどの日々を送っていた。

実はオーウェンは美男子であった。


ある日、王室で舞踏会が開かれた時のことだった。恐らくオーウェンはキャサリン王妃の前で踊っていたのであろう。オーウェンはつまずくなどして、キャサリン王妃が座っている膝の上に倒れ込んでしまった。

 

何とキャサリン王妃は、オーウェンに恋をしまったのだ。この舞踏会のエピソードの他にも、プールで泳いでいるオーウェンの姿を見たキャサリン王妃が一目惚れした、という説もある。 

こうして、二人は人の目を避けて密会するようになった。

 

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えっ、使用人のオーウェンに恋ですか。王妃と使用人じゃダメなんじゃないですか?
ましてや、イングランドに反乱を起こしたウェールズ王室の血を引くオーウェンとの恋は、もってのほかじゃないですか。

  


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そうなんだ。未亡人となった王妃キャサリンの再婚相手には、国王に近いほどの高い身分の人物が必要で、キャサリンと関係があったといわれる名のある伯爵でさえ、身分が不足していたんだ。

 

 

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間違っても結婚はできない二人が選んだ道とは、法を破り駆け落ちをして密かに結婚することだったんだ。

 


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王妃と使用人が駆け落ち!そりゃ、前代未聞! 王室の名誉にもかかわるので、王室の人々はやっきになって探すでしょう。

 

 

 

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駆け落ちをして隠れた生活を続け、心労が重なったのだろうか。キャサリンは6年後に36歳の若さで世を去ってしまった。そして、イングランド役人に見つかったオーウェンは捕らえられ、法を破った罪で投獄された。

 

オーウェンとキャサリン王妃の間には二人の息子、エドムンドとジャスパーが生まれていた。

キャサリン王妃にはヘンリー5世との間に生まれた息子がおり、ヘンリー5世の跡を継いで、イングランド王ヘンリー6世となっていた。

つまり、オーウェンの息子エドムンドとジャスパーは、ヘンリー6世とは異父兄弟なのである。

 

ヘンリー6世は、まだまだ遊びたい盛りの少年であった。ヘンリー6世は、同じ年頃のオーウェンの息子エドムンドとジャスパーと会うことになり、3人はとても仲良くなった。

3人が仲良くなったおかげで、幸運にもオーウェンは解放されることになった。オーウェンはヘンリー6世に仕えることとなり、王宮庭園の管理人として年金をもらいながら自適の生活をすることが出来たのだ。

 

 

 

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オーウェン、良かったですね。ここに来て、逆玉の輿の効果で人生再逆転ですね。

 

イングランド王室の薔薇戦争を終わらせたウェールズ

 

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ヘンリー6世(ウィキペディアより)

 

 

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ところが、時代は薔薇戦争に突入して行ったんだ。

オーウェンもヘンリー6世のランカスター家(赤薔薇)に加わり、ヨーク家(白薔薇)と戦ったんだよ。

 

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オーウェンは活躍したのですか?

 

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残念ながら1461年のモーティマークロスの戦いでランカスター軍が敗れた時、オーウェンは捕らえられ処刑されたんだ。

しかし、この薔薇戦争はその先、オーウェンの血筋が大きく関わってくるんだ。

 

薔薇戦争の原因は気がふれたイングランド王 

 

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薔薇戦争とは、15世紀に起きたイングランド王室の後継・権力争いで、赤薔薇のランカスター家の血筋と白薔薇のヨーク家の血筋が戦ったんだ。

  

 


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オーウェンが結婚したキャサリン王妃の息子ヘンリー6世は、フランスとの100年戦争に敗れ、100年戦争はイングランドの敗北で終結した。

そしてイングランドのフランス領土は失う結果となった。

 ヘンリー6世は精神的に弱く、敗北のプレッシャーが原因なのか、気が狂ってしまった。

 

この状況の中、自分が正統なイングランド王である、とヨーク公リチャード(白薔薇、ヨーク家)がイングランドの王位を狙ってきた。

これに対し、気が狂ったヘンリー6世の王妃マーガレットは、息子エドワードを擁立して立ち向かった。これが薔薇戦争の始まりである。

(薔薇戦争は1455年に始まり約30年間続いた)

 

※ヨーク家:ヘンリー3世の次男、ヨーク公エドムンドから始まった。ヨーク公リチャードはエドムンドの孫

※ランカスター家:ヘンリー3世の四男、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから始まった。ジョンの息子がヘンリー4世となり、ヘンリー5世、ヘンリー6世と息子がイングランド王を後継していた

   

ヨーク公リチャードとヘンリー6世との争いは、ヨーク公の息子エドワードが、ヘンリー6世側のランカスター軍を破り、イングランド王エドワード4世となった。

 

その後はエドワード4世、エドワード5世、悪王と言われたリチャード3世と、白薔薇のヨーク家がランカスター家を抑えて、三代続けてイングランド王を継承した。

 

※参考記事
👉リチャード3世の悪事と哀歌 本当に悪王だったのか?
👉薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ

 

立ち上がるランカスター家の秘密兵器

 
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ヘンリー6世の家系ランカスターの赤薔薇は、反撃しなかったのですか?

 
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白薔薇のヨーク家リチャード3世は反対派を排除し過ぎ、不満を持った貴族たちが赤薔薇のランカスター家を復活させようとしたんだ。

そして、ランカスター家の秘密兵器と呼ばれたヘンリー・テューダーと呼ばれる人物を擁立したんだ。

  
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そのテューダーって、ヘンリー6世の母、さっきまで話していたオーウェン・テューダーのテューダーですか?

 

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その通り!ウェールズ王室の血をひくオーウェン・テューダーとキャサリン王妃の息子エドムンドは男の子をもうけ、ヘンリーと名付けたんだ。

  

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と言うことは、ヘンリー・テューダーは、ウェールズ王室の血とイングランド王室の血を両方引くわけですよね。

 
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イングランド王室の血は母系からで直系ではないけど、ランカスター家の血を引く数少ない生き残りだったんだ。

 

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薔薇戦争の最後の戦い:イギリス版の天下分け目の戦い 

 

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ヘンリー・テューダーはウェールズの南部、ペンブロークで生まれた。しかし、ヨーク家から命を狙われる危険性があったので、フランスに逃れて暮らしていた。

ランカスター家の復活を願う人々の協力により、ヘンリー・テューダーはフランスで挙兵しイングランドに乗り込み、リチャード3世と戦ったのである。

これがイングランド版の天下分け目の戦い「ボースワース野の戦い」である。


この戦いで、ヘンリー・テューダーはリチャード3世に勝利し、事実上、薔薇戦争も終結した。

そして、ヘンリー・テューダーはヘンリー7世としてイングランド王になり、テューダー朝をスタートさせたのである。

  ※参考
👉ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

 

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なるほど。イングランド王室のテューダー朝は、ヘンリー・テューダーの祖父オーウェン・テューダーから来たんだ。

 

※テューダーの名前は、オーウェン・テューダーの祖父の祖父で、ウェールズ王室の血をひく14世紀の貴族、テューダー・アプ・ゴロンウィ(Tudur ap Goronwy)が始まりである

 

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この天下分け目戦いは、薔薇戦争を単に終わらせるだけではなく、イングランドとウェールズ、さらにはスコットランドの歴史にまで、大きな影響を及ぼしたんだよ。

 

薔薇戦争の最後の戦いがイギリスの歴史を変えた3つのポイント

 

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この戦いの終結によって、イギリスの歴史に与えた大きな意味を、3点にまとめて簡単に説明しよう。

まず一つ目だ。

①ヘンリー7世の父系はウェールズ王室につながっていて、とても由緒ある血筋なんだよ。

つまり、ヘンリー7世がイングランド王になりテューダー朝を始めるということは、ウェールズとイングランドの繋がりが強まる、ということなんだ。

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(テューダー朝のイングランド王)

 ウィキペディアより

テューダー朝 - Wikipedia

 


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次に二つ目だ。

②ランカスター家のヘンリー7世は、ヨーク家エドワード4世の娘、エリザベスと結婚したんだ。

つまり、再び争いが起きないように、ランカスター家とヨーク家が手を結んだってことだ。

これでランカスター家とヨーク家は統一され、イングランドは一つに纏まったんだよ。

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ランカスター家のヘンリー7世とヨーク家のエリザベス

 

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次に3つ目だ。

③ヘンリー7世の娘のひ孫は、ジェームズ6世としてスコットランド王になったんだ。

テューダー朝最後のエリザベス1世は子供を残さず、イングランド王室の後継者が途絶えそうになったため、ジェームズ1世としてイングランド王にもなったんだ。

つまり、ウェールズ王室の血筋と、イングランド王室とスコットランドの王家の血筋がつながったってわけだ。

ジェームズ1世 (イングランド王) - Wikipedia

 


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すごい、イギリスの三国は血筋で繋がったのですね。

 
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今回の内容をまとめると、ボーズワース野の戦いは、イングランドの統一だけでなく、将来イングランドとウェールズ、スコットランドと血の繋がりを作るきっかけとなった重要な戦いと言えるんだよ。

 

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天下分け目の戦いというより、未来への「王室つなぎ目の戦い」と言えますね。

   

参考記事:

参考記事:
👉薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ
👉ウェールズの歴史が面白いと言われている4つの理由!

www.rekishiwales.com

 

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最後までお読みいただき、有難うございました。

<改訂版>第7章 英雄プリンス・オブ・ウェールズの逆襲! イングランドから独立をかけた戦い

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13世紀の終わり、1282~3年にウェールズ人のプリンス・オブ・ウェールズはイングランドに倒されて、ウェールズはイングランドに征服されてしまいました。

今回は、ウェールズ人たちが独立の奪回をかけてイングランドに反乱を起こした、13世紀後半~15世紀初めまでの時代についてお話しいたします。

  

👉改訂版 中世ウェールズの歴史 カテゴリーの記事一覧 

※時代の区切りや呼び方は筆者が独自に表現しているものです

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ウェールズ反乱と自称プリンス・オブ・ウェールズ

 

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1282年にラウェリン・ザ・ラストがイングランドのエドワード1世に敗れて戦死し、ウェールズは事実上イングランドに征服されてしまったよ。プリンス・オブ・ウェールズの王冠も称号も取られてしまったんだ。

 

※前回の内容
👉<改訂版>第6章 プリンス・オブ・ウェールズの登場とノルマン・イングランドとの激しい戦いの結末

 

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ウェールズの人々や貴族・領主たちは、イングランドに抵抗はしなかったのですか?

 


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プリンス・オブ・ウェールズはウェールズの人々にとって誇りある称号で、魂を取られたのも同然だ。自分がプリンス・オブ・ウェールズだ!と非公式にも宣言し、イングランドに反乱を起こした人物もいるんだ。

 

ウェールズの大規模反乱を起こしたマドック

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1282年にウェールズがイングランドに征服されてから、しばらく経った1294年~1295年、ウェールズの国中に反乱が広かった。

反乱のリーダーはウェールズ王室の血を引くマドック・アプ・ラウェリン(Madog ap Lywelyn)で、自らプリンス・オブ・ウェールズ(公でなく自称)を名乗って、ウェールズ独立を試みたのだ。

 

マドック率いるウェールズ反乱軍はエドワード1世が率いるイングランド軍を打ち破った。そして後退してコンウィ城に立てこもったイングランド軍を包囲したのだ。

 

しかし、1295年にイングランドのウォリック伯が援軍として駆けつけ、マドックを急襲した。これにより、立て直したイングランド軍に形勢を逆転され、マエス・モイドッグの戦い(the battle of Maes Moydog)で敗戦し、マドックは捕らえられ投獄されてしまった。

 

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マドックもう一歩でしたね、残念 !

 

フランスで活躍したオウァイン

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ラウェリン大王の曾孫にオウァイン・ラウゴッホ(Owain Lawgoch、赤い手のオウァイン)と呼ばれる人物がいた。

ラウゴッホはフリーカンパニーと呼ばれる政府から独立運営していた傭兵団のリーダーであった。

 

オウァインは自称プリンス・オブ・ウェールズを名乗り、14世紀のイングランドとイギリスの100年戦争では、フランス側に加担してイングランドと戦った(ポアティエの戦いなど)。

 

 

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イングランドじゃなく、フランス側についたんですか?

 


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フランスに金で雇われたんだろうね。直接ウェールズとイングランドの戦いじゃなく、間接的にイングランドに挑んだ形だね。

だからと思うが、ウェールズに戻る前にイングランド軍によってフランスで殺されたんだ。

最後の英雄、プリンス・オブ・ウェールズが現る

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オウァイン・グリンドゥール像

 


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その後、14世紀のウェールズは暫くの間はイングランドに平定されていた。しかし、疫病のペストが流行し不安な世の中の上、イングランドとフランスとの100年戦争の戦費を得るために、ウェールズに重税をかけたことから、ウェールズの人々のイングランド支配に対する不満がたまってきた。

 


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また、だれか救世主みたいな人物がウェールズに登場するといいですね。

 

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その期待に応えて、14世紀末にウェールズの支配を取り戻そうと期待がかかったウェールズ貴族がいたんだ。オウァイン・グリンドゥール(Owain Glyndwr)だよ。

※正式名はオウァイン・アプ・グリフィズ(Owain ap Gruffydd) 

 


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オウァインはウェールズの中の国、ポウィスの統治者の息子で、母親からはグウィネズとデハイバースの統治者の血筋を受け継いでいた。

つまり、オウァインはほとんど全てのウェールズ王室の血筋を受け継いでいたことになる。それが、一層ウェールズの人々にとって、希望の星となった。

 

しかし、オウァインには、イングランドと戦う理由もなく人々の期待に答えようとしなかった。

というのも、オウァインは少年時代に父親を亡くし、イングランドの貴族に引き取られて、法律家になるよう英才教育を受けていたのだ。イングランド王に仕えて忠誠を誓い、ウェールズ人にも拘わらずイングランド法廷へも出入りを許され、優遇を受けていた。

 

そんな中、ウェールズの人々はヘンリー4世のウェールズに対する圧政に不満を感じ、オウァインにイングランドに対抗するように懇願した。

オウァインはイングランドで何の不自由もない恵まれた暮らしをしていたし、戦いも好まなかった。 

イングランドで法律家になる事が夢であるオウァインにとって、イングランドと戦うことは、全く意味がなかったのだ。だから、オウァインは人々の懇願を断り続けたのだ。

今度は隣国のイングランド侯爵が、オウァインの領土を奪い始めた。しかし、領土にも執着を持たなかったオウァインは、気にもかけず静かに状況をみているだけで動こうとしなかった。

 

 

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自分の領土が奪われているのに、オウァインは何という楽天家なのですか!

 


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オウァインは法律家になりたかったので、少々土地を奪われても興味なかったようだ。争いを起こすより仲間と楽しく過ごす方が良かったようだね。

 

 

 

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しかし、ウェールズの事態はどんどん悪くなっていった。イングランドのウェールズでの非道ぶりに耐えきれず、司教たちがイングランド議会に訴えるが、申し入れは無視されてしまった。 

そして、イングランドに仕えウェールズの懇願に目もくれなかったとは言え、日ごとにウェールズの注目が集まっているオウァインを、イングランドも無視するわけには行かなくなってきた。

 

ついにヘンリー4世は、オウァインは反逆者だとレッテルをはり、討伐令を下したのだ。

 

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ハーレック城


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さすがに、オウァインもこれには黙っている訳には行かなかった。1401年、世界遺産のハーレック城を拠点に、オウァインは自らプリンス・オブ・ウェールズを名乗り、イングランドに反乱を起こしたのだ。

  

 

 

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とうとう、ウェールズを率いてオウァインがイングランドに立ち向かった。どうなるか、期待と不安でワクワクしますね。 

 


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オウァインは持ち前の優しく温かな魅力を発揮して、イングランド王に不満を持つ諸侯を仲間に取り込んでいくんだ。

 


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これ、ひょっとしてウェールズの大逆転ですか??

 


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オウァインは次々とイングランド軍を破り、飛ぶ鳥の勢いで勢力を広げていくんだ。そして、フランス王の協力まで得ることができたんだよ。

 

 

 

 

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以下にオウァインの反乱の様子を年表にまとめた 

1400年:オウァイン・グリンドゥールの反乱が始まる
1401年:反乱は広がりイングランド軍に初めて勝利(Mynydd Hyddgenの戦い)
1402年:イングランドは法律を作り( Penal Laws against Wales)、ウェールズ討伐にのりだす

 

1402年:ブリン・グラスの戦いで(the Battle of Bryn Glas,)、エドムンド・モーティマー率いるイングランド軍に大勝利。フランスなどもオウァインの反乱を支持


1403年:本格的に反乱はウェールズ全体に広がる
1404年:ハーレックに拠点を置き、プリンス・オブ・ウェールズを宣言。議会を置き法律も見直す


1404年:ヘンリー4世に反逆した、エドムンド・モーティマー(マーチ卿)、ヘンリー・パーシー(ノーサンバーランド伯)とイングランドとウェールズの領土分割計画を立てる

1405年:フランスと協定を結びイングランド王打倒に乗り出す。フランス軍はイングランドに上陸

 

 

 

 

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すごい。オウァイン、この勢いならひょっとして・・・

 

1405年:フランスの方針が変わり、フランス軍は撤退。イングランド軍の反撃が始まる
1407年:アベリストウィス城がイングランド軍に降伏

1408年:ヘンリー・パーシーはグラムハム・モールの戦いで戦死(Battle of Bramham Moor)

1409年:エドムンド・モーティマーがハーレック城で戦死
1415年:反乱軍は自然消滅し、この頃グリンドゥールは亡くなったとされる

 

 

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ああ~残念

 


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一時は、ほぼウェールズ全域を掌握したんだけど、フランス軍が事情により本国に帰ってしまい、もうあと一歩というところでイングランド打倒計画は流れてしまったんだ。

これによりイングランド軍は立ち直り、ウェールズ軍を崩し始めたんだ。オウァインもついにイングランド軍に大敗北し、反乱軍の勢いは急速に衰え始めたんだ。

1415年頃までに反乱軍は自然消滅し、最後のプリンス・オブ・ウェールズ、オウァイン・グリンドゥールも亡くなったと言われているんだ。

 

その後のウェールズ 

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最後のプリンス・オブ・ウェールズも消えちゃった・・・。もうこれで完全にウェールズはイングランドに征服されたんですね。

 


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ウェールズがイングランドの一部になるのは16世紀だ。実はウェールズの勢いが復活した時期があったんだ。

 


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ウェールズがイングランドに吸収されたのに? なぜ、ウェールズに何が起きたのですか?

 

 


イングランド王室の権力争いである「ばら戦争」の最後の戦いとなったボースワース野の戦いが1458年に起こった。

ウェールズ王室の血を引き継ぐヘンリー・テューダーは赤薔薇のランカスター軍を率い、白薔薇のヨーク軍のリチャード3世を破った。

そしてヘンリーは、ヘンリー7世としてイングランド王となったのである。

こうしてウェールズ王室の血はイングランド王室に受け継がれることになり、多くのウェールズ貴族がイングランドの要職についたのだ。

 

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番外編へつづく

 

※オウァイン・グリンドゥールに関する記事

www.rekishiwales.com

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最後まで読んでくださり有難うございました。

<改訂版>第6章 プリンス・オブ・ウェールズの登場とノルマン・イングランドとの激しい戦いの結末

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プリンス・オブ・ウェールズとはもともと、ウェールズの統治者の中で大きな支配力を及ぼした統治者が宣言し、イングランド王に地位を認めさせたタイトルです。

13世紀のウェールズでは、プリンス・オブ・ウェールズを宣言した統治者が初めて登場しました。

プリンス・オブ・ウェールズ率いるウェールズが、イングランドを征服したノルマン人(ノルマン朝イングランド)との戦いを繰り広げた、11世紀後半~13世紀末までの時代について、お話しいたします。

 

👉改訂版 中世ウェールズの歴史 カテゴリーの記事一覧 

 

※時代の区切りや呼び方は筆者が独自に表現しているものです

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中世ウェールズの黄金期

 

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12世紀のウェールズは、グリフィズ・アプ・コナンがグウィネズの統治を巡る内乱を終わらせ(南北朝時代)、さらにノルマン人イングランドの侵略を防ぎ、新たなウェールズの歴史を始めたんだ。(前回の内容)

 

※参考に👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです

 

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これまで、ウェールズの平和がしばらく続いたのは、ロドリ大王、ハウェル・ザ・グッドくらいと、数えるほどしかないんですよね。今回のグリフィズ時代の平和は、どのくらい続いたのですか?

 

 

グリフィズはグウィネズの統治者を56年ほど務めた(ノルマン朝・イングランドから国を取り戻してから約35年)。さらに息子の時代も含めてウェールズは比較的平和で、黄金期と言われる時代となった。

グリフィズの後は、息子のオウァイン・アプ・グリフィズ(Owain ap Gruffydd)が後継した。オウァインは軍事にも力を注ぎ、父から譲り受けたグウィネズにとどまらず影響力を広げて、ウェールズ南東部を除くほぼ全域に支配力を及ぼした。

 

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オウァインは、同盟関係にあったデハイバースの統治者アナラウドが、自分の弟に殺されたと知ると、即座に軍を送り弟を追放してデハイバースを占領し、グウィネズに統合して領土を広げた。

ウェールズの北部から南西部まで支配をしたオウァインは、今度はウェールズの東方面に勢力を伸ばそうとした。

ウェールズの東部はイングランドと国境をなして、常にイングランドの侵略にさらされていた。

しかし、1135年にイングランド王ヘンリー1世が亡くなると、ヘンリー1世の甥スティーブンと娘マティルダとの後継争いが勃発して、イングランド自体が内乱状態となった。

オウァインはその隙をついて、イングランドに侵略を許した土地を取り戻すだけでなく、ウェールズ国境を東に広げて行った。

 

当然、イングランドもずっと黙っているはずはなかった。内乱が終わったイングランドでは、1154年にヘンリー1世の息子、ヘンリー2世がイングランド王となった。ヘンリー2世は勢いを増していたオウァインを叩こうと、何度もウェールズに侵略をしかけてきたのだ。

ヘンリー2世はイングランドだけでなくフランスの大部分も所有し、巨大な勢力を誇っていた(アンジュー帝国と言われた)。

 

※参考👉名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景

  

 

1157年、ヘンリー2世は自らイングランド大軍を率いてウェールズに攻め入った。各地を破壊していくイングランド軍に対しオウァイン軍は、じっと山林で待ち伏せをして時機を待っていた。

イングランド軍が、身動きが取りにくい狭い場所を通りががった時に、オウァインはここぞ!とイングランド軍に襲い掛かった。

不意を突かれたイングランド軍は総崩れになり、ヘンリー2世も危うく捕虜になる危機に直面し、命からがら逃げ帰った。

 

この敗戦の屈辱を晴らそうと、諦めないヘンリー2世は、1165年に再びウェールズに攻め込んだ。これに対し、オウァインはウェールズ中の統治者の協力を得た連合軍を形成して応戦した。

この動きを見て、今度はヘンリー2世のイングランド軍が奇襲作戦に出た。しかし、オウァイン連合軍に見つかり撃退され、更に豪雨にも遭遇したイングランド軍は、散り散りになり逃げ帰ってしまった。

これらの敗戦に懲りたヘンリー2世は、その後は二度とウェールズに攻撃をすることはなかった。

  

 

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イングランドのヘンリー2世を、2度も打ち負かすとは凄い!オウァインはウェールズの英雄ですね。

  

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オウァインは国の名前が付いた、オウァイン・グウィネズ(Owain Gwynedd)やオウァイン大王(オウァイン・ザ・グレート、Owain the Great)と呼ばれたんだ。

オウァインは自らをプリンス・オブ・グウィネズ(Prince of Gwynedd)と呼び、これがプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)のスタイルの始まりとなったんだ

ウェールズの危機を救った父グリフィズと、イングランドを打ち破ったオウァインの活躍により、2人の統治時代を合わせると約70年ほどになるんだ。

その間は中世ウェールズの黄金時代であり、ウェールズの統一と独立を確保した時代だったんだよ。

 

オウァイン大王の失敗

 

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オウァインは中世ウェールズの英雄だったけど、「英雄好色」というように、オウァインも女性が大好きだったようだ。

分かっているだけで妻と妾は最低6人以上、子供は男子は18人以上、女子は4名以上いたと言われるんだ。中世ウェールズの統治者の子だくさんは、問題を引き起こす事もあったんだ。オウァインの場合、ウェールズを危機に陥れてしまうんだよ。

 

 

「全体の統治者は1人であるが、正室、側室、妾の子に関わらず全ての息子には、均等に分けた財産を相続する権利がある」というのが、当時のウェールズ法である。

子供に男子が多くいると、それぞれが相続する分も少なくなってしまう。相続争いが起きかねない状況だ。

オウァインの場合は、溺愛した長男は戦死してしまったので、片腕として活躍した次男ハウェル(Hywel)を後継者に指名し、財産は多くの兄弟で相続する事になった。

 

※ウェールズ法について👉中世ヨーロッパで最も進化した法律 ウェールズ法はどんな内容なのか

 

オウァインが1170年に亡くなると、ハウェルがグウィネズを後継して統治者となった。

ところが、これらを喜ばしく思わない人物がいた。オウァインの妾(側室)である。

 

その妾とはオウァインの従妹クリスティン(Cristin)であった。ウェールズ教会では従妹との結婚は禁止していたが、オウァインは破門されてまでも結婚していたのだ。

後継となっていたハウェルから統治者の地位を奪い取ろうと、クリスティンが産んだ3人の息子が反逆を起こしたのだ。ハウェルを殺し、六男のダヴィッズ(Dafydd)が統治者の座を奪ってしまった。

一説によると、オウァインが生きている時からクリスティンが狙って準備をしていた、とも言われている。

👉日本の子だくさん将軍、ウェールズの子だくさん王(オウァイン)

 

 

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恐ろしいですね。さらに争いが続きそうですけど、後継争いは収拾したんですか?

 

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実はこれからが、ウェールズ王室始まって以来の地獄となったんだ。

 

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さらに、統治者となったダヴィッズは恐ろしい手段に出た。

1170年 半兄ハウェル(Hywel)を殺害
1173年 半兄マエルグゥイン(Maelgwin)を国外追放
1174年 マエルグゥインを投獄(獄死)
1174年 実弟ロドリ(Rhodri)を投獄
1174年 半兄イオルウェルス(Iorwerth)戦死(ダヴィッズの指金か)
1174年 実弟コナン(Cynan)没(暗殺か)

 
ダヴィッズは弟たちの遺産をも狙ったのだろうか。それとも、今度は自分も狙われると思ったのだろうか。ダヴィッズは残った兄弟たちを、殺すか投獄するかの残忍な行為におよび、父オウァインの領土や遺産を独り占めしたのであった。

ダヴィッズはウェールズ史上でも類を見ないほど、身内を殺害しまくった極悪の人物となった。

 

更にダヴィッズは自分の身を守るのと地位を固めるために、1174年にイングランド王ヘンリー2世の妹エンメと結婚したのだ。

 

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恐らくイングランドの力をバックに利用して、皆を黙らせたんですね。何とも卑怯な奴だなあ。グウィネズやウェールズ内で、ダヴィッズを倒そうと内乱は起きなかったのですか?

 

※ダヴィッズに関する記事

👉史上例を見ない暴君を倒したウェールズの王子


 

ウェールズに希望の星が登場

 

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そこに一筋の光が差し込んできたんだ。それは人々の唯一の希望でもあった。極悪非道を続けたダヴィッズの打倒計画があり、ウェールズの人々が注目したのは、オウァイン大王の孫だよ。

 

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そうか、孫が残っていたんだ!

 


ウェールズの人々が注目したのは、ラウェリン(Lywelyn)、グリフィズ(Gruffydd)、マレディズ(Maredudd)の3人の孫であった。特にラウェリンは、オウァイン大王と正妻の間に生まれた三男イウォルウェルスの息子で、正当なる後継の権利を持っていた。

三人はラウェリンを中心に密かに打倒ダヴィッズの準備を始め、機会をうかがった。グウィネズの人々も、教会もラウェリンたちを支持し、皆がダヴィッズを倒す事を待ち望んだ。

チャンスを待つこと6年。1194年、ラウェリンら3人は協力してダヴィッズに戦いを挑み、両軍は現在の北ウェールズにあるアバコンウィー(Aberconwy)で激突した。

 

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勢いに勝るラウェリン軍はダヴィッズ軍を打ち負かし、ダヴィッズを捕らえて投獄したんだ。 

 

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やりましたね。これで少しはグウィネズの人々も安心ですね。

 

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ラウェリンはようやくグウィネズの統治者になったんだが、周りには手強い敵がいたんだよ。ラウェリンもグウィネズの人々も気が休まらないよなあ。

 

希望の星と脅威との争い

 

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まずライバルとして現れたのが、ウェールズ内の隣国ポウィスの統治者、グウェンウィンウィン(Gwenwynwyn)だ。

ウェールズに領土を持つイングランド公爵たちを追い払い、ウェールズのリーダーになろうと狙っており、勢力を伸ばすラウェリンが気に入らなかったんだ。

 

 

 

そしてついに、1202年にラウェリンとグウェンウィンウィンの間で戦争が勃発した。この時はラウェリンが勝利し、ラウェリンはウェールズのリーダー的な統治者となった。

 

ラウェリンにとってグウェンウィンウィン以上の脅威は、イングランドであった。ラウェリンの時代のイングランド王は、ヘンリー2世の息子ジョン王であった。

このジョン王およびグウェンウィンウィンとの関係に 、ラウェリンは悩まされ続けるのである。

 

※参考👉名前の永久欠番 イングランド国王のジョン王


 

まず、ウェールズの平和を守るために、ラウェリンはイングランドとの親しい関係を作ろうとした。

ラウェリンはジョン王に忠誠を誓うだけでなく、ジョン王の娘ジョアンと結婚したのだ。イングランドとの争いを避け関係を良くするだけでなく、ラウェリンの地位を固めることも目的だったのだろう。

さらにラウェリンは、国境付近で争っていたイングランド伯爵ウィリアム・デ・ブロース(William de Braose)とも同盟を結んで、平和的に解決しようと考えた。しかし、この同盟がいけなかった。

  

  

その頃、ジョン王はウィリアム公爵と対立状態にあり、ラウェリンとウィリアム公爵の同盟に激怒したのだ。

ジョン王は、かつてラウェリンに敗れ去ったグウェンウィンウィンと同盟を結び、ラウェリンに攻撃を仕掛けてきた。この動きを見て、ウェールズ各地の統治者たちもジョン王側についてしまったのだ。

 

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ラウェリン、孤立状態になって大ピンチじゃないですか。さすがのラウェリンでも、これはお手上げでしょ。

 

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1212年、多数のウェールズ軍を率いたジョン王に対しラウェリンは完敗し、所有していた殆んどの領土を没収されてしまったんだ。

 

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ウェールズの同胞からも裏切られてしまっては、ラウェリンも万事休すですね。

 

希望の星、大王になる

 

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ところが、ジョン王は稀代まれなる悪王。無駄な戦いばかり起こし、そのたびに課せられる重い税金。ジョン王に味方した諸侯や統治者たちからは、次第に不満の声が上がったんだ。

 

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これは、ラウェリンにとって復活の助けとなるのでしょうか。

 


一時はジョン王に味方したものの、ウェールズの統治者たちはジョン王を見限り、再びラウェリンに味方するようになった。その中には、グウェンウィンウィンも含まれていた。

さらに、ジョン王に不満を持つイングランドの諸侯たちも、ラウェリンを支持するようになった。 

失政続きだったジョン王に対して、ついにイングランドやウェールズの貴族や国民たちの不満が爆発し、今度はジョン王は廃位のピンチに立たされたのである。

 

1215年、ジョン王は事態を収めるためにやむを得ず、国王の権限を減らした民主的な内容である、マグナカルタを制定した。

ジョン王によって奪われたウェールズの領土はラウェリンに戻り、統治権も認められた。人質として連れ去られていた長男グリフィズを含む人たちも返ってきた。

👉マグナカルタ ジョン王が作りたくなかった大憲章

 

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よかった。これで元に戻りましたね。ラウェリン、よかったですね〜

 

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しかし、ジョン王はこのまま黙ってはいなかったんだよ。しぶといジョン王は、再びグウェンウィンウィンと同盟を結び、ラウェリンに攻撃を仕掛けてきたんだ。でもここまでだった。

 

 

ジョン王は、翌年フランスの支援を受けたイングランド貴族たちとの戦いの最中に赤痢で病死したのである。また、グウェンウィンウィンも時を同じく亡くなった。

1216年、ラウェリンは勢力を増して本拠地グウィネズだけでなく、グウェンウィンウィンのポウィスも直接支配し、広範囲のウェールズを治めるようになった。

こうして、ラウェリンはラウェリン大王と呼ばれるようになり(Llywelyn the Great)、1240年に亡くなるまでウェールズの偉大な統治者として君臨したのである。

 

👉ジョン失地王と渡り合ったウェールズ王の活躍

 

  

※ラウェリンは灰色と黄色の領土を治めた。グリーンの部分はイングランドの勢力範囲

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ラウェリンとジョン王との関係のまとめ

1197年:ウェールズのリーダ的存在となる
1201年:イングランドのジョン王と同盟
1205年:ジョン王の娘ジョアンと結婚
1208年:ジョン王と対立したウェールズ首長のグウェンウィンウィンを破り領土拡大1210年:ジョン王と仲の悪いウィリアム卿と同盟
1210年:グウェンウィンウィンと仲直りしたジョン王に攻撃を受ける
1212年:ウェールズ諸侯を味方にしたジョン王に大敗し領土の大部分を失う。
1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質がラウェリンに返却
1216年:ジョン王、グウェンウィンウィンが亡くなり、ラウェリンがウェールズでの地位を確立する
1240年:ラウェリン没(1172年生まれ)

 

再び後継問題で乱れた大王 

 

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12世紀に活躍したラウェリンの祖父オウァイン大王は、子だくさんや教会から破門されるまでして従妹と結婚した結果、子供たちが骨肉の後継争いをしたよな。

実は、ラウェリン大王も後継者問題で大きく乱れたんだ。これがラウェリン大王の最大の汚点だと思うよ。

 

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ラウェリン大王も、何かしでかしたのですか?!

 

 

ラウェリン大王には、長男のグリフィズ(Gruffydd)と次男のダヴィッズ(Dafydd)の2人の息子がいた。長男のグリフィズはウェールズ人の正妻との息子で、ウェールズ法ではグリフィズが後継者としての資格があった。

ところがラウェリン大王は、ウェールズ法では非嫡出子のダヴィッズを溺愛して後継者にしようと考えた。

 

実際にラウェリン大王は何度も人質としてグリフィズをイングランドに送り付け、その間にダヴィッズを後継者にしようと、強引にも手はずを整えたである。

 

・ローマ法皇ホノリウス三世に、ダヴィッズが後継者になれるように説得を続けた
・後継者は長男がなる、という当時のウェールズ法を一部を改定した。
・イングランド王ヘンリー3世を説得し、ダヴィッズの後継を認めさせようとした
・ウェールズの諸侯たちに圧力をかけ、ダヴィッズに忠誠を誓わせた

 

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なぜここまでして、ラウェリン大王がダヴィッズを後継にしようと、考えたのでしょう。理由はあるのですか?

  

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理由は2つ考えられるな。一つ目は、グリフィズは気性が激しく、ラウェリン大王も手を焼いていたようだ。ラウェリン大王が領土を分け与えると、グリフィズは圧政を繰り返し、不評を買っていたんだ。

もう一つの理由は、ダヴィッズは非嫡子(側室の子供)の扱いだけれど、母ジョアンはイングランドのジョン王の娘なんだ。イングランドとの良好な関係を築くためにも、ダヴィッズが後継者になった方が、ラウェリンにとっても都合が良かったかも知れないね。

 

  

あれこれと策略を巡らした甲斐あって、ついにラウェリンはダヴィッズが自分の後継者になることを、世に認めさせたのだ。

ウェールズの統治者となったダヴィッズは、偉大なタイトルを宣言しイングランドにも認めさせた。公式にダヴィッズは初代のプリンス・オブ・ウェールズになったのだ。

 
しかし、ラウェリン大王が1240年に亡くなると状況は変わってきた。本来のウェールズ法で正当な後継者であるグリフィズを支持する人々が立ち上がり、ダヴィッズに反乱を起こした。(イングランドにかぶれたダヴィッズに反対したのであろう)

兄弟間の争いが起こったのである。反乱軍に怒ったダヴィッズは、グリフィズの領土を攻撃して略奪をはたらき、領土を奪った。

 
この動きを見て、イングランドへ差し出された人質の身で、ロンドン塔に軟禁されてたグリフィズは反撃を企てた。ロンドン塔から脱出し反乱軍に加わろうと図ったのだ。

しかし、ロンドン塔から脱出する際に巨漢が仇となり、不運にも転落死してしまった。

※グリフィズの事故死の記事 

👉ウェールズの王さまがロンドン塔から落っこちてしまった理由


この一連の動きをしたたかな目で見ていた人物がいた。イングランド王ヘンリー3世だである。一度はダヴィッズを支持したけど、態度を急変させたのである。


ヘンリー3世はダヴィッズの地位を認めたことを白紙にしただけでなく、ダヴィッズに攻撃を仕掛けてきのだ。ダヴィッズはヘンリー3世と反乱に対抗しようと挙兵するが、病気で急死してしまった。

ウェールズは、イングランドに攻められて混乱に陥り、さらに弱体化が進んでいくのであった。

 

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じゃあ、ウェールズはどうなってしまうんですか? まさか、イングランドに乗っ取られてしまうんですか?

  

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そこで、ウェールズ王室「最後の砦」が登場するんだよ。彼がダヴィッズの後を継いで、イングランドに対抗したんだ。

 

ウェールズ最後の砦

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※ラウェリン・アプ・グリフィズ像

 
ウェールズにとっての「最後の砦」はラウェリン・アプ・グリフィズである。彼の事を人々は、「ラウェリン・ザ・ラスト」と呼んでいる。

ラウェリン・ザ・ラストはラウェリン大王に嫌われたグリフィズの息子で、1246年にダヴィッズの後を受けてグウィネズを後継した。

ラウェリンはウェールズの独立にこだわり、イングランド王ヘンリー3世への忠誠を拒否し、1257年に反対する兄弟を投獄して自分に従わせた。

隣国のポウィスやデハイバースに対しては武力を使って領土を奪い、ウェールズ諸侯たちに忠誠を誓わせ、ウェールズの大部分を支配下に置いた。

そして、1258年にヘンリー3世と協定を結び、プリンス・オブ・ウェールズを認めさせたのだ。

 

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ラウェリン・ザ・ラスト!やりましたね!

 

 

しかし、ラウェリンのウェールズに対する愛国心は強かったと思われるが、ラウェリンはこれまでのウェールズ支配者とは異なり力づくで奪った権力であったため、ウェールズの諸侯たちに人望が無かったことが問題であった。

 

ヘンリー3世の後、1272年にエドワード1世がイングランド王になると、ラウェリンは窮地に立たされてしまう。

ラウェリンに領土を奪われたイングランドの公爵達が反撃を始め、多くのウェールズ諸侯達までもが、ラウェリンから寝返ってイングランドと平和協定を結んでしまうのである。

 

そして1277年にエドワード1世に攻撃され、孤立状態になったラウェリンは成す術べなく敗れた。イングランドに有利なアバコンウィー協定を結び、ラウェリンの領土は大幅に縮小されてしまったのである。

1277年以降、諸侯たちの多くはエドワード1世に味方し、ウェールズはイングランドに占領されたかの様になってしまった。

 

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ラウェリンの立場も、ウェールズもドンドン劣勢になってますよね。イングランドに降伏してしまうのでしょうか?

  


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ところが、イングランドの権力の押し付けや、ウェールズに不利なイングランド法を強要される様になり、イングランドに対してウェールズの人々から大きな反感が募っていったんだ。やはり、イングランドじゃなくウェールズの王に従おうってね。

そしてついに、イングランドに対してウェールズの戦いが起きたんだ。

 

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ラウェリンの復活ですか!

 


1282年にラウェリンの弟ダヴィッズが起こした反乱は、ウェールズ中に広がりを見せた。これに乗るかのようにラウェリンも反乱に参加した。

しかし、準備不足と弱体化したウェールズ軍は、何れもイングランド軍に敗北してしまった。

 

ウェールズ独立にこだわっていたラウェリンではあるが、やむを得ずイングランドに降伏してエドワード1世と協定を結ぶことを計画した。

 

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しかし、今度は弟ダヴィッズが、停戦を拒否して戦いを止めなかったのだ。

 

弟に引きずられるように、仕方なくラウェリンも戦いを続けた。

しかし、既に対抗する力を失っていたウェールズ軍ではイングランド軍には歯が立たなかった。

オレウィン橋の戦いでイングランド軍に敗れ、ラウェリンは川沿いで捕らえられ戦死してしまうのだ。

ダヴィッズはラウェリンのあとを継ぎ、戦い続けるがダヴィッズも捕らえられ処刑されてしまった。

 

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オレウィン橋の戦いで捕らえられ殺されるラウェリン

 

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この敗北により遂に、ウェールズは事実上イングランドの支配下に置かれてしまったんだ。

 

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あああ、本当にウェールズは終わってしまったのですね。

 

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1282年に、ウェールズ人によるウェールズ統治が終わったんだ。それもあって、ラウェリンは、ラウェリン・ザ・ラストと呼ばれているんだ。

 

※ダヴィッズはラウェリンの後を継ぐ形で、プリンス・オブ・ウェールズを宣言して戦いを続けたが、1283年に捕らえられて処刑された。

 

まとめ:この時代の年表 

 

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以下に、この時代の出来事を年表にまとめた

 

11世紀後半~12世紀前半:グリフィズ・アプ・コナンがイングランドからウェールズを奪回し独立を確保する
1137年:オウァイン・グウィネズが統治者となる。グリフィズの時代から約70年の黄金時代を形成する
1170年:オウァイン没。ダヴィッズがハウェルを殺害し統治者の座を奪い、兄弟を次々と殺害する
1194年:ラウェリン・アプ・イウォルワルスがダヴィッズを破り、統治者となる
1205年:ラウェリン、ジョン王の娘ジョアンと結婚
1210年:ラウェリン、ジョン王と決裂し、以後争いが続く
1215年:ジョン王がマグナカルタを制定。奪われた領土と人質がラウェリンに返還
1216年:ジョン王、宿敵グウェンウィンウィンが亡くなり、ラウェリンがウェールズでの地位を確立する
1240年:ラウェリン没し、非嫡子ダヴィッズが後継する。正統なグリフィズ派とダヴィッズ派とが対立する
1246年:ダヴィッズ没。グリフィズの息子、ラウェリン・アプ・グリフィズが後継する
1258年:ラウェリンはイングランド王ヘンリー3世と平和協定を結ぶ
1277年:ラウェリンはイングランドに有利なアバコンウィー協定を結び、勢力を縮小する
1282年:ラウェリンの弟ダヴィッズが、イングランドへ反乱を起こす。ラウェリンはオレウィン橋の戦いで戦死
1283年:ダヴィッズもイングランドに捕らえられ処刑

  

プリンス・オブ・ウェールズの行方

 
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ウェールズ人による支配は終わってしまったのに、ウェールズの統治者の称号である、プリンス・オブ・ウェールズは現在まで続いてますよね。これは、何故ですか?

 

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ラウェリンが戦死した時に、イングランド軍によってプリンス・オブ・ウェールズの王冠も奪われイングランドに持ち去られたんだ。

 

 

この出来事に、ウェールズ内では反乱が頻発した。イングランドはウェールズを抑えるために、エドワード1世は王子をウェールズのお城で産ませて、ウェールズの環境で育てた。

ウェールズで生まれ育ち、ウェールズ語を話す王子(後のエドワード2世)を、プリンス・オブ・ウェールズにして、ウェールズ人の反感を抑え込んだ。

以後、プリンス・オブ・ウェールズはイングランド王の皇太子が務める慣わしになったのである。

参考:👉真のプリンス・オブ・ウェールズとは?

 

 

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更に最後の反乱の後、エドワード1世はウェールズを監視するために北ウェールズにコンウィ城、ビューマリス城、カナーヴォン城、ハーレック城など強大な要塞城を築くんだ。

 

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それもあって、ウェールズにはとても多くのお城が残っているんですね。

 

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ウェールズでウェールズ人が作ったお城ではなく、イングランドが作ったお城が主だけどね。これら一連の城はアイアンリングとも呼ばれ、現在は世界遺産として登録されているよ。

お城に訪れたときに、これまで語ってきたウェールズの歴史を思い出していただけると、感慨深く楽しめると思うよ。 

 

※エドワード2世が産まれたお城は、カナーヴォン城で、天空の城ラピュタの一場面のモデルとなっている。また、カナーヴォン城はチャールズ皇太子のプリンスオブウェールズ戴冠式にも使用された。

参考記事:
👉行ってみたいウェールズのお城・・アイアンリング!!
👉厳選:是非行きたいウェールズのお城22選! 

www.rekishiwales.com

 

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