イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、ウェールズとの関わりが深いアーサー王などを中心に記事を書いています。

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<改訂版>戦国化するウェールズと、アングロ・サクソンの国マーシアが勢力拡大していく時代

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今回お話しするのは「戦乱時代」と呼んでいる時代です。後継争いの内乱とアングロ・サクソンからの侵略の2つの戦乱で、ウェールズ内が混乱した時代です。

この時期に、ウェールズイングランドスコットランドの国境が、ほぼ現在と同じ付近に形成されました。

 

※簡単なウェールズ歴史年表。今回の話は7世紀後半~9世紀前半になります
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※全体の記事 

www.rekishiwales.com

 

内からも外からも、ウェールズで戦乱が続いた時代

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ウェールズ版の戦乱時代は、日本の戦国時代の様に、領土の奪い合いや下剋上などが起きた感じだったのでしょうか?

 

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戦国時代とは異なる外国からの侵略と、戦国時代に似た後継争いの内乱だな。7世紀後半は比較的安泰だったけど、8世紀に入ると状況は争いが深刻になっていくんだ。 

アングロ・サクソンの強国、マーシアからの脅威にさらされて、ブリタニア時代の時よりもさらに領土を狭めていくウェールズ(外敵から攻められる)

指導力をもった統治者が不在で、後継争いや権力争い下剋上も起きて、国が乱れたウェールズ(内乱で乱れる)

という感じだな。

 

 

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内からも外からも攻められ、ウェールズの人々にとっては大変不安な時代だったんですね。

  

押し寄せるアングロ・サクソンの国マーシア、退くウェールズ 


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アングロ・サクソン族の一国、マーシアのオッファ王

  

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アングロ・サクソン族の領土拡大を見てみよう。

 

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400年中頃から西岸よりアングロ・サクソン族の侵入が始まり、西方や北方に領土を広げていった(緑色の部分)。

600年頃になるとブリトン人の国々は西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を占領するようになる。650年~700年になると更に西へ国境を広げていく。この頃は、北部のノーサンブリア王国が最も勢力を広げた。

700年を過ぎると、中央部のマーシア王国が幾つかの国を吸収し、西へと領土と勢力を広げた。

 

ウェールズ東部の国ポウィスはマーシアからの圧力を受け、650~700年の間に東半分パングェン(Pangwern)を取られ、領土は縮小していった。

 

※地図の9、10、14、19、20、21などの国境付近のウェールズの領土は、マーシアに占領されていった。

Map of Later Cymru (Wales)より
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8世紀の中頃、マーシアの王はオッファ(Offa)と呼ばれる強力な王が登場し、さらにマーシアは勢いを増した。領土を拡大し、アングロ・サクソン七国のなかでマーシアが最大勢力を誇るようになった。 

 

占領した領土を守るためなのか、さらにウェールズに攻撃を仕掛けるためなのか、オッファ王はウェールズとの戦いに備えて、全長283㎞にも及ぶ土塁を建築したのだ。

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この土塁は、オッファの土塁(オッファの防塁、Offa's Dyke)と呼ばれ、現在も残っているよ。

 オッファの土塁のラインは、現在のウェールズイングランドの国境におおよそ一致しており、オッファの土塁によって、ウェールズイングランドの国境はほぼ形成された、と言っても過言では無いだろう。

  

戦乱時代のウェールズへ 

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世紀末ウェールズ

 

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マーシアからの侵略に苦しんでいたウェールズだけど、国内はどんな状況だったんですか?

 

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残念ながら、マーシアの攻撃だけでなく、ウェールズ国内の出来事でも苦しみは倍増していたんだ。   

・オッファの土塁を越えてマーシアに攻め込まれる不安な社会

・牛の伝染病が流行し、家畜はどんどん死んでいく

ウェールズの最強国グウィネズ王宮に雷が落ち焼失

それに追い打ちをかけるように、下剋上や後継争いの激しい内乱が起きてしまったんだ。

 

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外敵に伝染病、食糧不足、不吉なできごとに内乱。ウェールズの世は、まさに末ですね。アーサー王のような救世主が出てきてほしいですね。

  

下剋上と権力争いの内乱

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下剋上が起こる

 

ウェールズで最大勢力を誇るグウィネズ国では、5世紀の中ほどにキネダ・アプ・エダンが王室を作ってから、基本的にはその血筋が国を統治していた。

しかし、8世紀初め頃、王室の血筋から離れたカラドグ(Caradog ap Meiron)という人物が、統治者になった。

※7世紀途中にも1度、部外者に奪われたことがあった。

 

ウェールズ王室の血筋から外れたカラドグが、なぜ統治者になったのか次の理由が考えられる。 

ウェールズでは王室の血筋であっても、統治者になるためには家臣たちの同意が必要で、無能な人間は統治者になれなかった。王室の血筋では、ふさわしい人物がおらず、カラドグが適任と考えられた。

 

ウェールズでは所有する領土は、息子たちに均等に分けられる風習があった。公平なシステムであるが、代々経ていくと自分の領土がどんどん狭くなるデメリットがある。このため、しだいに領土争いが起こるようになった。カラドグは自分の領土を広げるために、統治者の領土を奪った。

 

どの理由で統治者になったか、分からないが、カラドグは40年以上もグウィネズの統治者を務め、その間、王室の人物からの報復攻撃はなかったようだ。

しかし、カラドグが統治した時代は、アングロ・サクソン族の強力国マーシアのオッファ王の攻撃が最も激しい時期であった。

 

カラドグもアングロサクソンとの戦い、命を落としてしまった。 

そしてカラドグの後、ウェールズ内では後継争いによる内乱が激しく起きるのであった。

  

激しい内乱によるウェールズの荒廃

 

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カラドグがアングロ・サクソンとの戦いで命を落とすと、グウィネズの統治者には王室の人間にもどり、カラドグの前任者の息子、コナン(Cynan ap Rhodri)が後継したんだ。ところが、これに不服を持った人物もいたんだ。 

ウェールズでは、それまで際立った権力争いは、あまり起きていなかったんだ。この時期以降、数百年に及び、権力争い、後継争いによる、内乱が頻発するようになるんだ。

その皮切りがこの争いだ。

コナン 対 ハウェル。 

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第一ラウンド:

7世紀の中頃、ウェールズ最強の国グウィネズの統治者は王室以外のカラドグになった。カラドグがアングロ・サクソン軍との戦いで戦死した後、798年に前任ロドリの息子コナン(コナン・アプ・ロドリ)が後継し、統治者は王室の血筋に戻った。

 

第二ラウンド:

ところが、カラドグの息子と言われるハウェル(ハウェル・アプ・カラドグ)が、812年に統治者の座を奪おうとコナンに戦いを挑んできた。この時は統治者の面目を保ち、コナンがハウェルの挑戦を退けた。

 

第三ラウンド:

しかし、諦めないハウェルは814年に勢いを盛り返し、再びコナンに立ち向かった。今度は、ハウェルがコナンを打ち負かし、統治者の地位を奪取した。一方、敗れたコナンはウェールズを脱出し、娘エリシトの嫁ぎ先で親類のいる北部のマン島に逃れた。

 

第四ラウンド:

マン島で体勢を立て直したコナンはウェールズに戻り、統治者の地位を取り戻すべくハウェルを攻撃した。両者は再び激しく戦い、816年ついにコナンはハウェルに敗れて力尽き、追放された地で亡くなった。ハウェルは奪った統治者の地位を守り、825年までグウィネズを治めた。

※ハウェルはカラドグの息子、またはハウェルの兄弟という説もある

 

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コナンとハウェルの破壊的な争いは812-816までの4年間に及んで続けられ、ウェールズの北部は大きなダメージを受けて荒廃したんだ。 

この内乱の隙をついて、強国マーシアのコエンウルフはグウィネズ中部を占領して要塞を廃墟にし、ますますウェールズは荒れ果てて行ったんだよ。

  

新たな王室の始まり

 

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疫病に自然災害、ウェールズの権力争いによる内乱、強国マーシアの侵略。ウェールズは荒廃し人々は生きる希望を失っていったんだ。コナンとハウェルの権力の奪い合いに、人々は愛想をつかし、これまでのウェールズ王室の血筋では世を立て直す器の人物はいない、そう思うようになったんだ。 

 

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ウェールズなので、アーサー王のような救世主に現れて欲しい。そう思いますよね。

だれかそんな人物は現れたのですか? 

 

 

コナンとハウェルがグウィネズの後継を争い合っているとき、隣国のポウィスも強国マーシアに攻められ続け、苦しい時期を過ごしていた。ポウィスもグウィネズと同じく、新しい指導者を欲していた。

コナンはハウェルとの戦いに敗れた際に、マン島に逃げた時期があった。

マン島に住む人々も、ウェールズと同じくブリトン人で、コナンの娘エシリトはマン島の統治者グワリアドど結婚していたのだ。

 

エリシトとグワリアドの間には息子が産まれ、メルヴァンと名付けられた(Merfyan ap Gwariad、別名でソバカスのメルヴァン(Merfyan Frych)と呼ばれた)。

そして成長したメルヴァンは、ポウィスの王女ネストと結婚したのである。

 

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当時ポウィスの統治者は、メルヴァンの妻ネストの兄、カンゲン(Cyngen)で、マーシアのセオウルフに攻撃を受けて苦戦を強いられていた。 

メルヴァンは義兄を助けるため、マン島から援軍を率いて共に戦い、マーシアを退けポウィスを守ることが出来たのだった。

 

ポウィスをマーシアから守った手腕を買われたのか、メルヴァンは母の故郷であるグウィネズからも声がかかった。

 

ウェールズでは統治者の息子達に国を均一に分割して、その中の一人が全体の統治者として後継することがルールであった。しかし今の王室では後継できる器を持った人物がいない、と方針転換をしたのだ。

 

メルヴァンはウェールズ王室の直系ではなくマン島の人物だが、ウェールズ王室の血を引いているという理由で、825年にウェールズ最強の国グウィネズの統治者になったのであった。

その後、マーシアウェールズに攻めてくることはなくなり、平和な時代がようやく訪れた。  

 

 

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時代が混とんとしてくると現れるのが、アーサー王のような救世主。メルヴァンがその役割だったんですね。

 

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実は、メルヴァンはアーサー王にも影響を及ぼしているらしいんだ。

 

 

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メルヴァンがアーサー王ですか?

  

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メルヴァンは物理的に国を統治しただけでなく、ウェールズの文化にも大きな貢献をしたと言われている。誇り高いブリタニアの文化や歴史を後世に残そうとしたのだ。

 

メルヴァンは歴史家ネンニウスに命じて歴史書「ブリトン人の歴史」(Historia Britonum)を書かせた、言われており、英雄アーサー王に関する具体的な内容の記述がみられる最古の資料とされている。

 

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メルヴァンがアーサー王物語の生みの親かも知れませんね。

ブリトン人の歴史 - Wikipedia

 

まとめ

・682年頃:ブリタニアの終焉

・754年:カラドグがグウィネズの統治者となる(王室外の血筋)

・757年:マーシアでオッファが王となる(~796年)。ウェールズマーシアの国境にオッファの土塁を作る

・798年:カラドグはマーシアのコエンウルフとの戦いで戦死し、コナンがグウィネズの統治者となる

・812年~816年:コナンとハウェルの権力争い。ハウェルがグウィネズの統治者となる

・822-823年:カンゲンとメルヴァンはマーシアのセオウルフの攻撃を撃退する

・825年:メルヴァンがグウィネズの統治者となり新たな王室が始まる

・828年:ネンニウス著のブリトン人の歴史が書かれる

 

※参考資料

メルヴァンに関する記事

 

www.rekishiwales.com

 

マーシアに関する情報

マーシア - Wikipedia

 ※オッファの土塁に関する情報

Offa's Dyke - Wikipedia 

 

参考記事)

※記事一覧 

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ウェールズ創始者キネダに関する記事

 

www.rekishiwales.com

 

 

 

※その他参考記事 

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世界中の人々が嘆いた ゲーム・オブ・スローンズ第三章 あらすじとポイント

ゲーム・オブ・スローンズ 第三章:戦乱の嵐-前編- DVDセット(5枚組)

 

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ゲーム・オブ・スローンズにはまっている、たなかあきらです。

今回は、ゲーム・オブ・スローンズのシーズン3のあらすじを、簡潔にわかりやすくご紹介いたします。シーズン3を見る前に、あらすじを知っておきたい方や、シーズン1を見終わって、振り返りにもご利用ください。
タイトルの通り、僕もぼう然としました

 

※以前の記事

ゲーム・オブ・スローンズ カテゴリーの記事一覧 

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シーズン3 とっても簡潔なあらすじ

 

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同じ季節が何年も続き、長年にわたって夏であったウェスタロスであるが、秋のシーズンが世界に到来し、冬のシーズンが近くにやってきました。ウェスタロスの人々は雪と氷の時代に向けて準備をする必要があった。しかし、ウェスタロス七公国では激しい内乱が続いていたのです。 

 

七王国の地図はこれが分かりやすいです。

http://fanblogs.jp/akkiho/file/20130224202626119.jpg

 

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ウェスタロスの首都、キングズ・ランディングでは、全王ロバートの息子ジョフリーが暴君ぶりを見せますが、ジョフリーの母サーセイ・ラニスターの父タイウィン・ラニスターが事実上の実権を握るようになります。

 

・スタニス・バラシオンは、キングズ・ランディングの戦いでタイウィンに敗れ、本拠地に逃げ帰りますが、反撃のチャンスをうかがいます。

 

・ロブ・スタークは勢力基盤を固めるために、関係が悪かったフレイ家と手を結ぼうと交渉に出かけます。しかし、思わぬ事件に巻き込まれます。

 

・一方、東の地でドラゴンの母となったターガリエン家のデナーリスはさまよい続けますが、ラニスター家と戦い王座を奪い返すために必要な兵力と資金を手に入れていくのです。

 

・また「壁」の向こうの北方では、人間でないホワイト・ウォーカーの出現、野人たちの南下の恐怖が襲ってきて、ウェスタロス七王国に新たな脅威が迫ります。そこに、スターク家の私生児ジョン・スノウは立ちむかっていくのです。

 

スターク家やその他の人々の運命は、七王国のさまざまな関係に、左右されていくのです。

 

生命力に溢れた豊かな大陸に存在する“七王国”の争覇を巡る闘いを、過激な描写満載でダイナミックに描くアクション・スペクタクル巨編“ゲーム・オブ・スローンズ”。第三章においても緊迫した人間関係、試される忠誠心、そして交錯する過酷な運命が描かれてゆく
(アマゾンより)

 
<エピソードリスト>
第1話 新たな時代
第2話 三つ目の鴉
第3話 処罰の道
第4話 穢れなき軍団
第5話 炎の口づけ
第6話 登壁
第7話 女剣士と熊
第8話 次子 - セカンド・サンズ -
第9話 キャスタミアの雨
第10話 次なる戦いへ   

 

シーズン3 各反乱のあらすじ

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ラニスター家の拡大

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王を凌ぐタイウィン

 

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父ロバート・バラシオンの亡き後、ウェスタロスの王座についている、残忍な少年王であるジョフリー・バラシオンは、叔父のスタニス・バラシオン反乱におびえた。

母サーセイ・ラニスターの父タイウィン・ラニスターの援軍で間一髪、窮地を救われ、スタニス軍を破った。各地で反乱がおきるウェスタロスにおいて、ジョフリーは最も巨大な軍を率い、勝利は確実なものとなっていた。

スタニスの反乱の後、サーセイの父タイウィンが、ジョフリーの右腕である王の手に就任し、実質的な権力を握った。そして、サーセイの弟である小人ティリオン・ラニスターは解任され、立場が危うくなってきたのである。

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傲慢なジョフェリー王

バラシオン家の反乱(再び潜伏)

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諦めないスタニス

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スタニス・バラシオンは、強力なラニスター家がバックにつくジョフェリー王に完敗し軍は崩壊した、生き延びた一握りの兵士と共に、故郷ドラゴンストーン諸島に逃げ帰った。スタニスは妖しげな魔女メルサンドラと行動し、まだ諦めていなかった。スタニスは、前王ロバート・バラシオンの正統な後継者として、残忍なジョフェリー王の政権に、依然として影を投げかけていた。スタニスは、七王国の内乱の行方を左右するカギを、まだ持っていたのである。

 

スターク家の反乱(運命の同盟)

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北の王を宣言したロブ・スタークは、勢力を拡大してラニスター家とたたかっていくためには、スターク軍のみでは難しく、軍を増強するためフレイ家との同盟が必要と考えた。

ロブはかつて、フレイ家の娘たちと結婚する約束を交わしていたが、それを破って他の女性と結婚し、両家の関係は悪くなってしまった。フレイ家との良好な関係を、あらためて築きなおす必要があり、スターク家の運命がそこに握られていた。

   

グレイジョイ家の反乱(天と地)

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当主ロブ・スタークの不在時に、ウィンターフェルを奪い取ったシオン・グレイジョイであったが、横柄な態度を取り、ウィンターフェルの人々の恨みを買う。(シオンはスターク家で里子として育てられた)

シオンは部下の裏切りによってラムジーに引き渡され、拷問を受ける。グレイジョイ家の当主である父からも見放される。

 

ターガリエン家の反乱(遠方での激進)

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ドラゴンを操るデナーリス

 

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東のエッソス大陸では、デナーリス・ターガリエンのドラゴンが成長し、名声も広がっていた。

しかし、鉄の王座を取り戻すためには、金の支援者と兵力が必要であった。その両方を手に入れるために、さまよい続けた。

そして、奴隷商人湾の都市アスタポアにたどり着いた。デナーリスはドラゴンを使って、アスタポアを征服し穢れなき軍団を手に入れた。さらに、奴隷を抱える都市ユンカイを進軍し、ユンカイの副長の寝返りもあって陥落させた。そして、奴隷たちを解放したのである。

 

壁の向こうの動乱(新たな脅威拡大)

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迷うジョン・スノウ

 

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「壁」の北側では、ホワイト・ウォーカーが活動を始め、一方ホワイト・ウォーカーの動きが確認された「壁」の奥地では野人の王マンス・レイダーが巨大な軍団を率い、南へ進軍を続けていた。

ホワイト・ウォーカーと野人の到来で、ウェスタロス全土は脅威にさらされていくことになる。

 

北への偵察隊として出かけていたスターク家の私生児ジョン・スノウは、野人に囚われ、マンス・レイダーのもとに連行された。そこで野人の娘と恋に落ち、マンス・レーダーたちと行動を共にする。しかし、恋人か偵察隊(ナイツ・ウォッチ)か、どちらかを選ばなければならなくなる。

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スターク家の反乱の行方(ぼう然)

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スターク家の運命も、七王国のバランスに握られていた。

ロブ・スタークの足が不自由な弟ブラン・スタークは、グレイジョイ家に盗られたウィンターフェルを脱出し彼を守る人たちと、凍りつく北のウェストランドを横切り、「壁」にむかっていた。

妹のアリアは、首都キングスランディングを脱出し、戦争で荒廃したリヴアーランドで、勇敢に母と兄弟を探し歩いていた。

 

長女のサンサは、残忍なジョフェリー王の許嫁であったが、婚約解消されキングスランディングで身の危険を案じていた。そんな時、同じく王の手を解任されて、行く先を案じていた小人、ティリオン・ラニスターとの結婚話が持ち上がったのである。

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サンサ・スターク

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ティリオン・ラニスター

 

 

 

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ロブ・スターク

 

ロブ・スタークはフレイ家と和解しようと、母親キャトリン(タリー家出身)と妻と共に、頑強で策略家のフレイ家の当主を訪れた。

過去を水に流し同盟のしるしに、三人は双子城で行われるフレイ家のタリー家との結婚式に招待された。ところが、祝宴のあとフレイ家の家来に襲われたのであった。そこには、ラニスター家の手が回っていたのである。

世界中の人々が嘆く - YouTube

 

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参考記事です。なるほど。

www.rekishiwales.com

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※こちらが原作

七王国の玉座〔改訂新版〕 (上) (氷と炎の歌1)

七王国の玉座〔改訂新版〕 (下) (氷と炎の歌1)

 

 

 

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

ルール違反から生まれた ラグビーの発祥の歴史

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こんにちは、たなかあきらです。

ラグビーの発祥はご存知でしょうか?

・サッカーとの発祥の違いはご存知でしょうか?

・どちらが先にできたのでしょうか?
という点が、良く分かる内容です。

 

古代と中世に見られる、ラグビーの発祥

古代ローマに見られるharpastum

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ラグビーのルーツの1つとして考えられる(もしくは似ているスポーツ)は約2000年前にさかのぼります。

古代ローマ時代の人々が行なった、「harpastum」と呼ばれるボール競技です。ギリシャ語の「つかむ」の意味で、プレーヤーがボールを手で持ち運ぶことを意味しています。 

かなり、暴力的な激しすぎるスポーツです

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中世イングランドに見られる暴力的なモブ・フットボール

 

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一般的には、ラグビーの起源は中世のイングランドにある、と言われおり8世紀頃が始まりのようです。

中世のイングランドにおいて、若者たちは仕事を早く切り上げ、村や町の間でフットボールを競い合った記録があります。

この激しく、暴力的なフットボールは、モブ・フットボールと呼ばれています。

 

古代のフットボールも含め、このモブ・フットボールは、ラグビーの発祥だけでなくサッカーの発祥と言われています。

参考:世にも危険なイギリスサッカー発祥の歴史 

 

このモブ・フットボールはとても暴力的で危険であったので、「悪魔の遊戯」と呼ばれていました。16世紀のエリザベス1世の時代には、多くの怪我人や犠牲者を出し、モブ・フットボールは禁止されてしまいました。(14世紀に禁止されたこともありました)

 

この悪魔の遊戯に参加する者たちは、こう記録されていました。

「プレーヤーは18-30歳か年長の若者たちで、既婚者も独身者もベテランもフットボールを楽しむ者は時として、とてもヒートアップしたケンカになっていた」

 

中世のイングランドフットボールは、祭りの日の行事として隣り合う街同士でや敵対し合うが街同士で行われました。

 

ルールは殆どなく殺人をしなければ良いという程度で、噛みつきOK、殴り合いOKの大群衆が、街中を戦いながら通り抜ける事もしばしばでした。時にはボールを蹴らず、お互い同士を蹴り合うこともあったそうです。

まるで、戦いのようです。(ベッカム出演)

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この中世のフットボールは、現在でもその様子がうかがえるものがあります。シュローヴタイド・フットボールShrovetide Football)と呼ばれ、イングランドダービーシャー州アッシュボーンで行われている祭りです。中世のような凶暴な事はやりませんが、すごい迫力です。

 

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以上が、古代や中世に見られる、ラグビーとサッカーの発祥と言われているスポーツです。詳しくはこちらの記事をお楽しみください。 

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現代のラグビーの始まり

 

危険な旧ラグビー 

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現代のスタイルのラグビーの始まりは、イングランドのミッドランドにある若い紳士たちの学校にルーツがありました。

 

そのスクールは初め1749年に町の中心にでき、そしてイングランド・ウォリックシャーのラグビーと呼ばれる町の外れに移転しました。

 

新しいラグビー校には、若者たちがトレーニングに必要な宿泊施設があり、8エーカーの校庭もありました。この校庭で、1749年~1823年の間、フットボールの試合が行われていました。

 

その時のフットボールのルールはなく、現在とも違っていました。タッチラインは引かれており、ボールはキャッチしたり手で扱うことは出来ましたが、手でボールを持ったまま走ることは許されていませんでした。

相手サイドのゴールには、通常キックで向かっていたのです。

 

ラグビー校の試合は5日に及び、200人以上が参加して行われました。新しい学生が入ってくると、40人の先輩の学生が100人の新しい学生と相対する試合を、楽しみのために行いました。

先輩学生は、ブーツを町の靴職人に送り、とても厚い靴底を貼り、さらに前面に傾斜をつけ、試合のために準備しました。敵のむこうずねを思い切り蹴れるようにです。(ハッキングと呼ばれる行為です)

まだ、モブ・フットボールの暴力さが残っていました。

 

ルール違反に始まるラグビーの発祥

 

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ウィリアム・エリス・ウェッブ氏

 

このフットボールの試合が、現在の形と理解できるように変化したのは、1823年の秋に行われた試合でした。

 

地元の歴史家はこの歴史的な出来事についてこう、述べています。

「彼のプレーは、その時代の試合のルールを無視した素晴らしいものでした」

ウィリアム・ウェッブ・エリス(William Webb Ellis)は、初めてボールを手に取り抱えて走ったのです。

 

当時のルールでは、ボールをキャッチしたあとが、後ろに後退して、ボールをフィールド上に蹴り上げるか、ゴールめがけて蹴るために地面に置くかするのが通常でした。

そして、ボールをキャッチした地点に進んで来ようとする相手チームから、仲間に守られるはずでした。

 

しかし、エリスはルールを無視しました。

彼はボールをキャッチしてから後退する代わりに、ボールを手に持ち相手ゴールに向かって前に走ったのです。

こうして、ラグビーの独特なプレーのスタイルが始まったのです。

 

新しいプレースタイルのルールブックは1841年に出され、ラグビー校の生徒たちが、まずオックスフォード大やケンブリッジ大などに順調に広げました。すると、そのルールと評判は瞬くまに広がっていったのです。

しかし、事件が起こりました。ラグビーとサッカーが分裂したのです。

 

フットボールの分裂(ラグビーとサッカー)

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 ※1930年ごろのフットボール

 

1863年にイングランドフットボール試合のルールを決めようと議論されました。

しかし、ルールのスタンダード化の合意には至らず、2つの陣営に分かれました。

 

一つが手を使わないケンブリッジ大学のルールを支持する人々で、もう一方が好きにボールを持てるラグビースクールのルールを支持する人々でした。

両者は分裂してそれぞれの教会をつくり、ラグビーフットボールアソシエーションフットボール(サッカー)に分離したのです。

 

世界最古のサッカー協会であるフットボール・アソシエーションFA、日本ではイングランドサッカー協会と呼んでいます)と、後の1871年にラグビーフットボール・ユニオンが結成されました。

 

ラグビーの国際化

ラグビー校を卒業した先生たちは、イングランドウェールズスコットランドの大学へ新しいラグビーを紹介したり、海外の将校などに配属された卒業生たちが、ラグビーが国際的なスポーツに成長するように尽力しました。

そして、1871年イングランドスコットランドの間で初めて試合が行われ、1872年に初めて大学間での大会試合が行われました。

 

1880年代にアイルランドウェールズが加わり「ホーム・インターナショナル・チャンピオンシップス」が造られ、1900年代にフランスも参加し、1910年に初めて「ファイブ・ネイションズ」となりました。

2000年には、イタリアが参加し「シックスネイションズ」となりました。

そのた、1996年に始まった南半球でのラグビー・チャンピオンシップ、欧州、アジアなど、各地で国際大会が開かれています。

 

さらに、1987年にはラグビー・ワールドカップも始まりました。

オリンピック、サッカーワールドカップに次ぎ、世界三大スポーツイベントと呼ばれており、優勝記念カップは、エリスの名にちなんで、「ウェッブ・エリス・カップ(Webb Ellis Cup)」と名づけられています 。

 

 

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※1895年にラグビーフットボール・ユニオンは分裂し、ラグビーユニオンとラグビーリーグに分裂してしまいます。ラグビーユニオンは15人制、ラグビーリーグは13人制で、ワールドカップを含め一般的にラグビーというと、ラグビー・ユニオンを指す場合が多い。

ラグビーユニオン - Wikipedia

ラグビーリーグ - Wikipedia

 

参考記事:

The history of Rugby Football

 

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引き込まれるゲーム・オブ・スローンズ  第二章のあらすじ

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ゲーム・オブ・スローンズにはまっている、たなかあきらです。

今回は、ゲーム・オブ・スローンズのシーズン2のあらすじを、簡潔にわかりやすくご紹介いたします。シーズン2を見る前に、あらすじを知っておきたい方や、シーズン1を見終わって、振り返りにもご利用ください。

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・シーズン1の記事はこちら

ゲーム・オブ・スローン 分かりやすいシーズン1のあらすじ

 

シーズン2 とっても簡潔なあらすじ

 

七王国の地図はこれが分かりやすいです。

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シーズン2も、幾つかの場面を交互に描いています。各地で反乱です。

反逆者として捕らえられたエダート・スタークは、ジョフェリー王に首をはねられ、ウェスタロス七王国に内乱が始まりました。

ウェスタロスの首都、キングズ・ランディングでは、全王ロバートの息子ジョフリーはが権力を握り、ジョフリーの母サーセイ・ラニスターは摂政女王として君臨し、ラニスター家の支配力が強化されていました。

 

スタニス・バラシオンは、自分こそが正統なる後継者と名乗りを上げ、キングズ・ランディングへと大軍を進軍させました。

スタニスの弟レンリーもタイレル家と手を組み、玉座を狙い、また北の王を宣言したロブ・スタークは着々と勢力を増していたのです。

一方、東の地でドラゴンの母となったターガリエン家のデナーリスはドラゴンを手に入れたものの、戦力を強化するために僅かな部下を引き連れ砂漠をさまよっていました。


スタニス、レンリー、ロブ、ジョフリーを擁するラニスター家、さらにの玉座争いの物語が本格的に動き出し、七王国の戦況は混迷を極めていくのです。

 

「戦火の火ぶたが切って落とされる!」 

壮大なる物語の序章は、ドラゴンの誕生によって幕を下ろした。
王位奪還を目指し、激動の<五王の戦い>が今、始まる! 
(アマゾンより)

 
<エピソードリスト>
第1話「王の乱立」
第2話「粛清」
第3話「鉄の決意」
第4話「光と影」
第5話「ハレンの巨城」
第6話「古今の神々」
第7話「義なき男」
第8話「決戦前夜」
第9話「ブラックウォーターの戦い」
第10話「勝者」   

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シーズン2 各反乱のあらすじ

ドラマが始まる前の、ウェスタロス前史をしっておくと、より楽しめますね 

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スターク家の反乱

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ロブ・スターク

 

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殺害された父エダート・スタークに代わり、北の王となったロブ・スタークは自分の領土とリヴァーランドの民の自由を勝ち取るために戦いを始めた。

ロブは、目的を遂げるためには独立心の強い「鉄諸島生まれ」たちの忠誠を得なければならないと考えた。

そこで、「鉄諸島生まれ」の親友のシオン・グレイジョイを送り、彼の父と交渉しようとした。

しかし父の企みにより、シオンはロブに反乱を起こし、スターク家の本拠地ウィンターフェルを奪取してしまった。

 

ラニスター家の浮上

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ジョフリー・バラシオン

 

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ロバート・バラシオンの跡を継ぎ、王となった息子ジョフリーは、母サーセイの家系である強力なラニスター家の後ろ盾を得て、首都キングスランディングの「鉄の玉座」につき、傍若無人な態度をとる。

 

 

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サーセイ・ラニスター

 

小人の叔父、ティリオン・ラニスターは、キングズランディングに戻り、王の手に就任した。内乱が始まったウェスタロスを鎮めようと考えるが、ジョフリー王の母で陰謀家の姉サーセイと対立する。  
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ティリオン・ラニスター

 

 

バラシオン家の反乱

 

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スタニス・バラシオン

 

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ジョフリー王の叔父で、全王の弟であるレンリー・バラシオンは、自分こそが正統だと、大規模な軍を持つタイレル家の支えを得て、王位を要求してきた。 

しかし魔力で殺され、レンリーの兄であるスタニス・バラシオンもまた、「鉄の玉座」の王位を要求して立ち上がった。

スタニスは百戦錬磨の実力のある指揮官で、敵に情け容赦なく攻撃することで恐れられていた。スタニスは謎めいた女祭司メリサンドルと、誠実な部下ダヴォス・シーワースを力を借りて、反乱の準備を始めていた。 

 

ターガリエン家の反乱

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デナーリス・ターガリエン

 

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エッソス大陸に逃れ、ウェスタロスの王座を奪い返そうと野心を抱く、デナーリス・ターガリエンは、大陸エッソスに逃れて、世界にたった三頭しかいないドラゴンをふ化させていた。まだ、生まれたばかりの無力で、成長を待たねばならなかった。

部族国家ドラスクの王でデナーリスの夫、カール・ドロゴが亡くなった後は、部族を失い、デナーリスと少数の臣下たちは、荒地をさまよっていた。

「鉄の玉座」の王位を奪い返すために、必要な船や兵士を提供してくれる協力者を探す必要があった。

そんなか、デナーリスは何者かに、ドラゴンを盗まれてしまった。 

 

 

壁の向こうの動乱

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ジョン・スノウ 

 

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遠くの北側では「冥夜の守人(ナイツ・ウォッチ)」が、行方不明の哨士(レンジャー)を捜索し、山に集まってくる野人たちの噂を調査するために、「壁」の外への遠征を開始した。

人間ではないホワイトウォーカーが再び姿を現し始め、壁を越え始めているとのうわさが届いていた。

ホワイト・ウォーカー 

 

この動きに参加している、スターク家の落とし子であるジョン・スノウではあったが、仲間からはぐれ、野人に捕らえられてしまう。そこで、大きな決断を迫られた。

 

ここがすごい:ラニスター家vsバラシオン家の対立

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タイウィン・ラニスター

 

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着々と反乱の準備をしていたスタニス・バラシオンは、戦艦に大勢の兵隊を乗せて、禁グランディングに攻め込んだ。恐怖におびえる人々、戦いを放棄して逃げ込むジョフリー王。

王の手ティリオン・ラニスターの作戦により、スタニスの多くの艦が爆破で破壊されて戦いの火ぶたは切られた。しかし、スタニスの大軍はびくともせずに、攻め込んでくる。

その時、ティリオンとサーセイの父、タイウィン・ラニスターとタイレル家の援軍が不意をついてやってきたのであった。

 

 

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うわっ 

youtu.be

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

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参考記事です。なるほど。

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<改訂版>第2章 ローマが去りアングロ・サクソンとウェールズ王室がブリタニアにやってきた

 

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今回は、ローマ軍が去った後、ブリトン人自身でウェールズを統治した時代(広くは、ブリトン人自身でブリタニアを統治した時代)について、お話しいたします。

 

※簡単なウェールズ歴史年表、今回の話は5世紀初め~7世紀後半になります
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※全体の記事 

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ローマが去り統治権が回復したウェールズの問題

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ブリタニアの一部であったウェールズは、1世紀中旬から5世紀初めまで約400年近くもローマ帝国支配下にあった。ローマ文化と融合しつつも、ブリトン人独自のケルト文化を守りながら、ローマ支配のもとで自治を続けていた。

ところが4世紀末になると、ローマ帝国は東西に分離したり、バンダル族やゴート族などの外敵に激しく攻め込まれるようになり、ブリタニアにローマ兵を置いておくことが困難となってしまう。

そしてついに410年、ホノリウス帝の時にローマ軍はブリタニアから撤退して、事実上、ローマ帝国支配が終焉した。

  


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ローマ軍がブリタニアから撤退。それは、ブリタニアの独立を意味するのでしょうか?再び外敵から攻められるようになるのでしょうか?

 

 

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ブリタニアを取り巻く外敵について、おさらいをしておこう。

ブリタニアの北にはピクト族、西にはスコット族、さらにはヴァイキングなどの外敵がいて、常にブリタニアは脅威にさらされていたんだ。 

 


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そうでしたね。ブリタニアはある意味、駐在していたローマ軍に外敵から守られていたこと考えると、ローマ軍という防御盾がなくなり、ブリタニアは大変な時代になったのですね。

 


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そうなんだ。ブリタニア統治権は戻り、いわばローマ帝国から独立できたんだけれど、自分の国は自分で守らないといけなくなったんだ。

 

 

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ブリタニアを守るためのリーダーが必要になってきますよね。

 

ブリタニアにリーダー出現

二人の大物

 

ローマ軍が去った後の5世紀初めごろ、ブリタニアは主に4つの地域に分かれており、北部はコエル・ヘン(Coel hen)と呼ばれる首長が、ウェールズを含む南部はヴォーティガン(Vortigern)と呼ばれる首長が実力を持っていた。

※赤い部分がブリタニアで、コエル・ヘンは地図中で北部のNorthern Britain、ヴォーティガンは南西部のPagnsesに拠点をおいていた。

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Roman Britain in Mapsより

 

北のコエル・ヘンは、現在のスコットランド南部(地図中北部の水色の部分)にも影響力を広げて、北からのピクト族や西からのスコット族、ヴァイキングの侵略に備えた。 

南部のヴォーティガンも、当初は西からのスコット族の侵略に対して、戦っていた。

 

 

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ヴォーティガンって、聞いたことありますね。そういえば、キングアーサーの悪役で出てませんでしたか? 

映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?

 

 

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キング・アーサーのヴォーティガンは伝説をもとにした作り話だけどね。実際のヴォーティガンも記述や伝説によると、悪事や失策をするなど、良い噂はないようだ。

 

 

ウェールズ沿岸付近には、西からスコット族が激しく攻めてきて、ヴォーティガンは手を焼いていた。 

たまりかねたヴォーティガンはローマ帝国に援軍を求めるけれど、断られてしまう。

断られた原因の一つに、ヴォーティガンの行為に問題があったようだ。キリスト教に反して近親相姦をしたり、私腹を肥やしたりしているのを、抜き打ち偵察に来ていた聖職者に見つかったそうだ。

 

ローマ軍の援助を得られなかったヴォーティガンは、2つの策を取ったと考えられる。その2つともが、ウェールズだけでなくブリタニアの運命を大きく変えることになる。

 

ヴォーティガンがとった策 その1

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ヒンギストの娘に惚れ、騙されるヴォーティガン(ウィキペディアより)

 


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ヴォーティガンはゲルマン系民族であるジュート人、ヘンギストとホルサ兄弟に目をつけたんだ。

 


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外国から傭兵をやとったと言うことでしょうか?

 

 

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そうだよ。ヴォーティガンはヘンギストとホルサ兄弟を迎え入れたものの、兄弟は実はくせ者だったんだ。ブリタニアから外敵スコット族を追い出すことが目的だったのに、新たな外敵を呼び寄せてしまったんだ。

 

 

ヘンギストとホルサは、ブリタニアに居座り、自分の娘を差し出してヴォーティガンを罠にはめて脅迫し、東岸のケントの領土を奪った。

さらに本国から仲間を連れてきて、居住地区を広げていった。(西暦450年あたり)

ジュート人、アングル人、サクソン人が次々とブリタニアにやって来て侵略をはじめ、領土を拡大していったのだ。

 

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ブリタニアにやってきた、ヒンギストとホルサ(ウィキペディアより) 

イギリスの歴史に絶大な傷跡を残したH兄弟 

 

つまり、ゲルマン系のアングロ・サクソン族のブリタニア侵略が始まったのだ。アングロ・サクソン族の侵略のきっかけを作ったのが、ヴォーティガンとされ、一説では悪者となっている。 

 

ヴォーティガンがとった策 その2

 

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ヘンギストとホルサ兄弟にやられている間も、スコット族は次々とウェールズ付近に攻め込んで来た。何とか手を打たなければならない。そこでヴォーティガンは別の人物に着目したんだ。  

 

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その人物は、大丈夫なんでしょうね?

 

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ヴォーティガンが呼び寄せたと考えられる人物は、キネダ(Cunedda ap Edern、380-445年頃)と呼ばれる男だよ。

 

 

キネダは、ピクト族が住むピクトランド(Pictland)に接する、マナウ・ゴドッディン(地図中ではGoutodin)を統治していた首長で、ピクト族やヴァイキングとの戦いの最前線で活躍していた。

 

キネダは外敵ピクト族やバイキングを玉砕して勢力を広げ、北部ブリタニアの実力者コエル・ヘンの娘婿となり、後継の地位を実力で奪い取った。

キネダはその武力を高く買われ、ウェールズに攻めてくるスコット族の侵略を防いで欲しいと、南部ブリタニアの長官ヴォーティガンから要請を受けた、と考えられる。

そこで、スコットランド付近の自国を離れて、はるばる南部のウェールズまでやってきたのだ。

 

※キネダ一族の大移動(440年あたりと考えられる)
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キネダは大きな決断をし、スコットランドの地を離れ8人の子供と1人の孫を連れてウェールズ北部に移住し、スコット族と戦った。そして、スコット族を完全に追い払ったと歴史書には書かれている。

 

ところで、ヴォーティガンはどうなったのか?

 

ヴォーティガンはヘンゲストとホルサ兄弟にやられて領土を奪われただけでなく、仇討ちにあって失脚したと言われている。

そもそも、ヴォーティガンが南部ブリタニアの長官になったとき、前任のコンスタンス2世を殺害して奪った、という伝説がある。

このため、コンスタンス2世の弟であるアンブロシウスに仇を討たれ、命と引き換えに持っていた領土と長官の位を返上したのだ。

ヴォーティガンは一旦は降参したものの、アンブロシウスに反撃をしようと企んでいたところ、雷に打たれて最期をとげたそうだ。

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ウェールズ王室の設立

 

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スコットランドからはるばるやってきたキネダは、その後どうしたのでしょうか?

 

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キネダはスコットランドから思い切ってウェールズに移住してきたけれど、先見の目があったのかもしれないな。長官ヴォーティガンは評判が悪かったし、ヘンギストとホルサ兄弟やアンブロシウスにやられて勢力が弱まったのを、チャンスと考えたのかも知れない。

 

 

キネダは、北部ウェールズでスコット族を追い払った領土を確保して勢力を広げ、グウィネズ国(Gwynedd)を建国した。

グウィネズは中世ウェールズの原形となった国と言われ、現在でもGwyneddの地名は残されている。

Google マップ

 

キネダは更に勢力を伸ばし、息子たち9人に領土を分け与えた。伝説によると、それぞれの領土は9人の名前に因んだ国名となっているそうだ。その後、長きにわたってグウィネズの統治者の血筋がウェールズ王室を作っていくことのである。

 

 

 

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ということは、キネダはウェールズの開祖で創始者なんですね。 

 

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そうだな。このウェールズ王室の血筋からは、多くの偉大なウェールズの統治者が生まれるんだ。

更に子孫はイングランド王室でテューダー朝の、ヘンリー8世エリザベス1世にまで繋がっていくんだよ。キネダは殆ど知られていない人物だけど、この点では大きな意味を持った人物と思うね。

 

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出稼ぎで名を上げた勇者の話 

 

 

勢力を伸ばすウェールズ

 

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マエルグウィン像(ウィキペディアより)

 

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キネダの息子エイニオン、孫カドワロンやオウァインの時代に着々と勢力を固め、カドワロンの息子マエルグウィンの時には勢力は強大になり、ブリタニア全域に影響力を及ぼすようになったんだ。(事実上のブリタニア長官)

 

 

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マエルグウィンはどんな人物だったのですか?

 

 

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悪魔のような人物だったんだよ。

※マエルグウィン・アプ・カドワロンMaelgwn ap Cadwallon(480-547頃)、中世ウェールズでは苗字がなく、自分の名前の後ろに親の名前を付けて呼ばれた。

悪魔はやはり悪魔であった ~最も嫌われたウェールズ王 

 

マエルグウィンは517年頃、叔父オウァイン・ダントグウィンを殺害して統治者の座を奪った。女癖が悪く甥の嫁を略奪し、甥と自分の妻を殺害したり、司教をだまして財宝を奪ったり、わがままの短気で怒らせると手が付けれなかった。

カリスマ的な支配力があり勢力を拡大したものの、悪魔の様な性格で暴君化し、息子ランに廃位させられた。

※ちなみに、マエルグウィン(Maelgwn)はアーサー王物語のなかで、ウェールズの「100人騎士の王マラグウィン(Malaguin)」として登場している。

 

このように、キネダ、マエルグウィンを初めとする、ウェールズ北部のグウィネズの統治者が勢力を伸ばして行き、ウェールズの国を固めていった。その後は、カドワロン、カドワラドルなど実力を持った人物がウェールズの統治者となり、ブリタニアに大きな影響力を与えた。

 

 

しかしながら、ヴォーティガンの時代にケントに国をつくったアングロ・サクソン族が勢力を広げていき、ブリタニアは圧迫されていく。

  

ウェールズアングロ・サクソンの戦い。ブリタニアの終焉

拡大するアングロ・サクソン

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これが、グレートブリテン島アングロ・サクソン族の勢力が拡大していく様子だよ。ウェールズ創始者のキネダの時代(450年頃)は、ブリタニアが大部分で(水色の部分)まだアングロ・サクソンの領土(緑色の部分)は殆ど見られないけど、時代を追うごとに西岸のケントから西へ北へ急速に拡大していくことが、よく分かるな。

 

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本当ですね。マエルグウィンの後の時代600年頃になると、水色のブリタニアの部分は、スコットランドからウェールズにかけての西岸が残るのみになってますね。

 

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アングロ・サクソン七王国 

 

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ウェールズブリタニアの国々は、アングロ・サクソンの侵略を防ぐために戦ったんですよね。その中で、活躍した人物はいるんでしょうか。

 

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そうだな。まずは、アングロサクソンの国々を見てみよう。赤字で書かれている名前が、アングロサクソン七王国と呼ばれる国々で、ブリタニアウェールズ)とはマーシアノーサンブリアが国境をなして、頻繁に戦いが起きていたんだ。その戦いで、活躍した人物がいたんだ。

 

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アングロサクソン七王国。北から主に、ノーサンブリアマーシアイーストアングリアエセックスウェセックス、ケント、サセックスの国々で構成されていた(Wikipediaより) 

 

アーサー王

 

アングロ・サクソンブリタニアとの戦いについては、ヘンギストとホルサ兄弟がケント王国を作った時代に戻る。アングロ・サクソンの拡大する勢力を止めようと、ヘンギストとホルサ兄弟や後継者に挑んだ人物がいた。アンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus)という人物である。

 

アンブロシウスは、悪王ヴォーティガンを倒した後、ブリタニア長官となり、今度はヘンギストとホルサ兄弟が率いる、アングロ・サクソン族と戦ったのである。

ヘンギストとホルサ兄弟を北へ追いやり、マエスベリの戦いやコインスバラの戦いで撃破し、彼らの息子たちオクタとオスラをヨークで包囲するなど勝利をつづけた。

 

アンブロシウスのアングロ・サクソンに連戦連勝した様子が、アーサー王のモデルになったのではないか、という説もある。

アンブロシウスの活躍は一時的で、アングロ・サクソン族の勢力拡大を止めることはできなかった。

 

ウェールズ王 vs アングロ・サクソン

 

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カドワロン像(ウィキペディアより)

 

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拡大を続けるアングロ・サクソンブリタニアとの争いも起こっていた。その中で、ウェールズにゆかりの深い事件を紹介しよう。

 

 

アングロ・サクソン七王国のひとつ、ノーサンブリア国北部デイラ(Deira)にエドウィン(Edwin)という王子がいた。

6世紀の終わりごろ、エドウィンは南部バーニシア(Bernicia)のエセルフリス(AEthelfrith)に攻められ国を脱出し、放浪の末ウェールズウェールズ北部の国、グウィネズ)にたどり着いた。

当時のグウィネズは、カドヴァン(Cadfan ap Beli)や息子カドワロン(Cadwallon ap Cadfan)という統治者がいて、ブリタニアの小国全体を束ねる王としても支配力を持っていた。

幼くして国を脱出し身寄りのないエドウィンを可哀そうに思ったカドヴァンは、エドウィンを引き取り息子カドワロンと一緒に育てた。

ところが、エドウィンはカドワロンとはそりが合わず、ライバル心を燃やす様になったのだ。

 

成長したエドウィンは自国に戻り、イースト・アングリア国の援助を得て、エセルフリスを倒しノーサンブリア国を奪回した。

そして更に、ノーサンブリアの領土を西に広げ、アングロサクソン一国ケントとも同盟を結んだ。627年頃、エドウィンアングロ・サクソン諸国の中で、最も権力を振るうようになった。

 

ウェールズに恩を感じていたエドウィンは、カドヴァンがいるうちは大人しくしていたが、カドヴァンが亡くなると、後を継いだカドワロンに対するライバル心を再燃させた。

勢いに乗るエドウィンは629年にウェールズに攻め入り、カドワロンを国外に追放し、グウィネズを乗っ取ったのだ。

 

 

これに対しカドワロンは、いったんフランスに逃れて兵を集め、さらもう一つのアングロ・サクソンの強国マーシアのペンダ王(Penda)の助けを借りた。

 

そして、632または633年にカドワロンとペンダ連合軍はエドウィンに戦いを挑んだ。

そして、ハットフィールドの戦いでエドウィンを倒し、カドワロンはウェールズを取り戻したのである。 

 

 

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ウェールズと侵略者のアングロ・サクソンは争いばかりと思ったんですけど、カドワロンとペンダのように手を組むこともあるんですね。

 

 

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アングロ・サクソン諸国の中でも勢力争いはあり、利害関係を同じくする国同士は、カドワロンとペンダの様に同盟することもあったんだよ。  

ペンダ王との同盟でカドワロンは勢いに乗ったけど、乗り過ぎてしまったようだ。

 

 

カドワロンはノーサンブリア国を約1年統治しまいしたが、調子にのって暴君化してしまう。ノーザンブリアの人々が恐れるほど、残忍・残虐な手段で殺戮や略奪をしながら進軍し、アングロサクソンの国々を荒らしていった。

ノーサンブリアは必死になってカドワロンを止めようと総力上げた。しかし、簡単にはカドワロンの勢いを止める事は出来ず、惨敗が続いた。

たまりかねた人々は、エドウィンによってダル・リアダ(現在のスコットランド西部)に追放されていたエセルフリスの息子オスワルドを呼び戻した。

そして、634年のヘヴンスフィールドの戦いで(現在のイングランド北部)、ついにカドワロンはオズワルドに敗れる結末となり、事態は収束したのである。

 

最後のブリタニア長官

最後のブリタニア長官、カドワラドル像(ウィキペディアより)

 

 

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カドワロンが敗れた後、ウェールズはどうなってしまうのでしょうか。

 

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暴君化したカドワロンが戦死すると、ウェールズは混沌としてしまうんだ。これまで、中心的なグウィネズ国はキネダの子孫が統治者を受け継いできたが、隙をついてカドヴァエルという農民男が現れ、統治者の座を奪ってしまったんだ。 

 

 

ウェールズでは国は王室以外の人間に奪われ、疫病がはやり飢饉も起こった。当然、アングロ・サクソンの攻撃にもさらされただろう。

人々は絶望の中を暮らし、アーサー王のような救世主が現れないだろうかと願ったのだろう。

 

 

カドワロンには、息子カドワラドル(Cadwaladr ap Cadwallon)がいた。国を奪われたカドワラドルは海外に脱出し、いつかは宿敵カドヴァエルに復讐してグウィネズを奪回しようと考えていた。

しかし成人したカドワラドルは、我欲のために戦争を起こすと更に国が乱れるだけだ、と考えた。復讐の道を断念して、聖人の道へ進む決意をしたのである。

グウィネズの王族として初めてローマ巡礼をして教皇に会い、ウェールズの平和と復興を願い祈り続けた。

復讐を諦めウェールズの平和を願い日々祈るカドワラドルの姿を見聞きして、ウェールズの人々は大きく心を打たれた。

カドワラドルを救世主と信じて心の支えとし、苦しい生活の中を耐えしのいだのだ。

そして、カドワラドルの息子イドワルは成人になるとウェールズに戻り、655年にイドワルは反逆者カドファエルを倒して、国を取り戻したのである。ウェールズは再び平和を取り戻し、カドワラドルが統治者としてウェールズを治めた。

 

しかし、すでにアングロ・サクソン諸国の勢力が拡大して、かつてブリテン島のほぼ全域を占めていたブリタニアは、西のウェールズや北のスコットランドに残るのみとなってしまった。 

 

ブリタニアの呼び名もこの時期で終わりとなり、カドワラドルが最後のブリタニアの王となった。

 

 

※カドワラドルはウェールズの英雄の一人として語り継がれている。カドワラドルが軍旗に用いたとされるレッドドラゴンが、後にウェールズの国旗として用いられるようになった。

魔法使いの予言を信じ、慕われた王さま

イギリス国旗にないウェールズ国旗 レッドドラゴンの深い歴史 

 

ブリタニア時代のまとめ

・410年:ローマ帝国ブリタニア撤退

・420年頃:ヴォーティガンが南部ブリタニアの長官となる

・440年頃:キネダ一族が北部よりウェールズに移住。キネダがグウィネズを建国

・449年:ヴォーティガンが、ジュート人のヘンギストとホルサ兄弟を呼び寄せる

・455年:ヘンギストがケント王国を建国し、アングロ・サクソン諸国の侵略が始まる

・488年頃:アンブロシウスが活躍し、ヘンギストを破る

・517年頃:マエルグウィンがウェールズの統治者となる

・586年頃:ノーサンブリアエドウィンが、ウェールズのカドヴァンに助けられる

・632~633年:ハットフィールドの戦いで、ウェールズのカドワロンはノーサンブリアエドウィンを破る

・634年:カドワロンはオスワルドに敗れる

・655年:カドワラドルは簒奪者カドヴァエルからウェールズを取り戻す

・664年 or 682年:アングロ・サクソン諸国が強大化し、ブリタニアの終焉

 

参考記事)

※記事一覧 

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※悪王ヴォーティガンに関する記事 

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※ケント王国を作ったヘンギストとホルサ兄弟について

ケント王国 - Wikipedia

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ウェールズ創始者キネダに関する記事

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出稼ぎで名を上げた勇者の話 

 

※悪魔のようなマエルグウィンに関する記事

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※最後のブリタニア王、カドワラドルに関する記事

 

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※その他参考記事 

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「王子と乞食」 マーク・トウェーンが言いたかったこと

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こんにちは、たなかあきらです。

今回はマーク・トウェーンの傑作、「王子と乞食」についてのお話です。

ページをめくってみると、最初に上の絵と

「あらゆる時代の若い人々のための物語 」

と書かれていることに、気がつきます。

これはどんな意味なのでしょうか?

ベニスの商人に隠された、王子と乞食のヒント

 

慈悲の本質には・・・・・・二重の恩恵がある。

慈悲は、これを与える者をも受ける者をも幸福にする。

最も力ある人にあっては更に最高の徳である。

慈悲は君主にとって、その王冠にも数倍にしてふさわしいものである。

ベニスの商人よりー

 

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「王子と乞食」の冒頭にこのような言葉がありました。

ベニスの商人」の言葉ですが、「王子と乞食」の本質を、まさに意味した内容であると思います。

 

それでは、「王子と乞食」の内容に移りましょう。

 

王子と乞食は誰?登場人物について

 

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16世紀半ばのイングランドテューダー朝ヘンリー8世が治める時代でした。

1537年10月12日、イングランドで2人の男の子が生まれました。

一人は、エドワード王子(エドワード・テューダー)で、父ヘンリー8世だけでなく、イングランド全土が待ち焦がれた待望の跡継ぎでした。

将来の王を期待され、誰もが夢見るような豪華な宮殿に住んで、温かい食事や高級な衣服を与えられ、何十人もの家臣や侍女に世話をしてもらい、何の不自由も無く育ちました。

 

エドワード王子は実在人物です。

エドワード王子はのちのエドワード6世
ヘンリー8世は2番目の妃、アン・ブーリンエリザベス1世の母)を処刑し、その後に結婚したのがジェーン・シーモアで、エドワードはようやく生まれた男子でした

ヘンリー8世 イングランド国王の中で最も教養あふれたインテリ 

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もう一人は、ロンドンのもっとも貧困な裏街の貧しい家に生まれたトム・カンティです。酒に溺れ暴力を振るう父親、トムを守ろうとする母親と姉の中で育ち、トムは金も無くパン一つ買う事すら出来ず、常に飢えと寒さに震え、物乞いをする日々でした。

※トム・カンティは物語の中だけの架空人物です

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中身と外見、どちらが大事か?

 

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エドワードは堅苦しい宮廷生活に飽き飽きして、外の自由な暮らしに憧れていました。

一方、トムは貧困生活から抜け、エドワードのような恵まれたリッチな生活を羨んでいました。

  

話し合ううちに2人はお互いがまるで双子のようにそっくりな顔をしている事に気付いた。

今だけ互いの服を交換し、それぞれの人物として過ごすことを提案しましたた。2人は入れ替わりますが、エドワード王子はぼろ服を着ると、門番から乞食と間違われ、で街へ放り出されてしまいます。 

 

 

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外見が同じでも中身が変わってしまった、王子と乞食。

人々は中身ではなく、人々は外見にとらわれてしまうという、痛烈な諷刺(ふうし)が描かれています。しかし、人々はそうであっても、入れ替わった2人は、またとない貴重な経験をします。

 

 

王子と乞食、学んだものは?

 

 

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エドワード王子は、貧しいが自由な暮らしに憧れますが、貧困な者に対する、国法の不条理さを知り、怒りを覚えます。

しかし、気高く堂々とした王子の態度は、毅然として貫き通し、また貧しい人々の温かい心にふれ感動を覚えます。

  

 

 

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一方、トムは憧れの上流階級の暮らしに戸惑うものの、次第に慣れていきます。

ですが、貧しい地区で育った時に培った、やさしさは忘れずに人に接します。しかし、置かれた立場の荷の重さを認識するに従い、恐れを抱くようになります。

 

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その人の苦労は、実際に経験しないと分からない

 

普段のくらしの中では、想像すらすることがない環境に置かれ、二人は、後の人生を変えるほどの、貴重な体験をしたのです。

 

エドワード王子の言葉も、こう記されています。

「そちらが苦痛や迫害について何を知ろうぞ? 世と世の民は知っている。そちは知らぬ」 

 

つまり、マーク・トウェーンは「王子と乞食」の物語の中でで、王子と乞食の位置を換え、それによってその二人のめいめい相手の追っている生活の重荷を理解し、行動することを学ばせようとしたのです。

 

だから、物語の一番最初に

「あらゆる時代の若い人々のための物語 」

と書かれてあったのでしょう。

 

まとめ、ベニスの商人に隠された、王子と乞食のヒント

 

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貧しき人々の立場を知ったエドワード王子は、後にエドワード6世となり、その時の経験を大いに活かしたのでした。  

 

慈悲の本質には・・・・・・二重の恩恵がある。

慈悲は、これを与える者をも受ける者をも幸福にする。

最も力ある人にあっては更に最高の徳である。

慈悲は君主にとって、その王冠にも数倍にしてふさわしいものである。

 

 

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エドワード6世はわずか16歳で早世しましたが、その短い年月はとても生きがいのある生涯でした。

エドワード6世のあまりに寛大な正確に対して、重臣たちは大いに反対したそうです。例えば、人々に対して、大した苦痛を感じさせないような法律であっても、修正を加えようとしたそうです。

重臣が反対すると、若いエドワード6世は愛情にみちあふれた大きな目に、強いうれいをふくませて、こう言ったそうです。

「そちらが苦痛や迫害について何を知ろうぞ? 世と世の民は知っている。そちは知らぬ」 

 

エドワード6世の治世は、残酷な当時の世にあって、めずらしく仁政のおこなわれたときであった。

 

最後に、マーク・トウェーンのこん身の力作

 

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マーク・トウェーンは「王子と乞食」の創作にとても力を入れたようです。トウェーンが友人宛に送った手紙の中に下記の文がありました。

「万一、この書物が唯の一部も売れないようなことがあっても、自分がこれを書いていた間に味わった、芸術的な幸福はいささかも減じない」

「わたしはこれを急いでかき上げてしまおうなどとは毛頭望まないほどに、楽しんでこの著作をしている」

 

マーク・トウェーンは毎夜、その日に書いた原稿を夫人に読み聴かせ、また夫人も王子と乞食の運命に胸をとどろかせながら楽しみ聴いたそうです。さらに、2人の娘も母に劣らぬ「王子と乞食」熱愛家だったそうです。

 

※参考記事

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イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

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こんにちは、たなかあきらです。
イギリスでは主に、イングランドウェールズスコットランド北アイルランドの諸国で成り立っています。

その中の、イングランドの10世紀以前の中世において、アングロ・サクソン人の国々が存在していました。

それらの国々はどのようにして生まれ、イングランドを形成していったのか? お話いたします。

 

参考:

分かりやすいスコットランドの歴史概要 - イギリス・ウェールズの歴史

中世ウェールズの歴史 決定版

アングロ・サクソンとは?

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アングル・サクソン人はゲルマン系の民族で、アングル人、サクソン人、ジュート人のことを指します。もともとアングロ・サクソン人はともにエルベ川下流域のユトランド半島の付け根付近に住んでいました。

ユトランド半島 - Wikipedia

 

※もとの意味は「アングロとサクソン」ではなく、「アングリアのサクソン」であり、大陸のサクソニアと区別する意味で使われたものである。

5世紀半ばに、ゲルマン民族の大移動が行われ、アングロ・サクソン人たちは北海を越えてグレートブリテン島に侵入し、アングロ・サクソン七王国(へプターキー)を作ったのです。

 

アングロ・サクソンブリテン島になぜ来た?


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彼らが移り住むきっかけについての説は次になります。※

紀元前数世紀よりグレートブリテン島ブリタニア)は、ケルト系民族のブリトン人が主に住んでいましたが、紀元43年頃からローマ帝国が侵略して支配下にしていました。
ところが、410年西ローマ皇帝ホノリウスは、ローマ軍を撤退させ、ブリタニア支配を放棄しました。

ローマ軍の駐在により、北からやってくるピクト人(現在のスコットランド北部)、西からやってくるスコット人(現在のアイルランド)などの外敵を防いでいましたが、ローマ軍撤退後はブリトン人みずからの手で防御する必要がありました。

当時のブリタニアの有力者、ヴォーティガンはローマ帝国からの援助を絶たれて困った末に、傭兵としてジュート人のヘンギストとホルサ兄弟を雇います。

 

ヘンギストとホルサ兄弟は、ヴォーティガンに反乱を起こし、ブリテン島東部のケントを奪い取り定住しました。その後、本国からの移住者が増え、領土を拡大していきました。これが、アングロ・サクソン人ブリタニア侵略を始めたきっかけと言われています。

また、アングロ・サクソン人の侵略が加速した理由の一つに、彼らの本拠地にヴァイキングのデーン人が侵略したため、とも言われています。

 

※諸説ある中の「ブリタニア列王史」など

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アングロ・サクソン人ブリテン島征服 


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領土侵略を続けるアングロ・サクソン人に対して、ブリトン人たちも反撃をしました。「バドン山の戦い」と呼ばれる一連の戦いで、アングロ・サクソン人は大敗北し、5世紀終わり頃~6世紀初めにかけ数世代に渡ってその勢いが止められた時期もありました。 
「バドン山の戦い」の詳細は場所は不明ですが、ブリトン人たちを指揮し勝利に導いたとされる人物がモデルとなり、アーサー王伝説がうまれた、と言われています。

このようにブリトン人が勢いづく時期もありましたが、アングロ・サクソン人の侵略がこう着したのは一時的なもので、5世紀中旬~7世紀にかけて領土を着実に広げ、ウェールズスコットランド付近を除く現在のイングランドにあたる領域を支配下におさめました。


アングロ・サクソン人七王国を作り、「アングル人の土地」の意味からイングランドの名前がうまれ、9世紀にイングランド王国に統一されました。

※実際にはアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、小国や群小国が存在しましたが、国同士で覇権を争ったすえ7つの有力な国に代表されるようになりました。

 

アングロ・サクソン七王国(へプターキー)の成り立ち

 

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代表的なアングロ・サクソン人七王国は以下となります。

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8世紀初めのアングロ・サクソン諸国 The Anglo-Saxon Kingdoms AD 700より

 

<アングル人の王国>

ノーサンブリア王国: イングランド北東部を支配した
マーシア王国: 7世紀頃に最大勢力を持ち、イングランド中央部を支配した
イースト・アングリア王: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配した

 

<サクソン人の王国>

エセックス王国: イングランド南東部、現在のエセックスハートフォードシャーミドルセックス周辺を支配した

ウェセックス王国: 当初は北部もイングランド南西部を支配し、イングランドを統一した

サセックス王国: イングランド南部、現在のサリー、イースト・サセックス、ウェスト・サセックス周辺を支配した

<ジュート人の王国>

・ケント王国: 最も早い時期に侵略し、イングランド南東部、現在のケント周辺を支配した



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王国が形成された6~7世紀の早い時期には、アングル人の建てたノーサンブリアマーシアが勢力を持ちました。ノーサンブリア王のエドウィン、オスワルド、オスウィ、そしてマーシア王ペンダなど非常に強力な王が存在しました。


これら王国間での争いもあり、国境や覇権を持つ王国は移り変わりました。七国の中では、ケント・エセックスサセックスは早くに衰え、ノーサンブリアマーシアウェセックスの順番で、覇権を握りました。

 

とてもシンプルなアングロ・サクソン七王国の年表

 

450 - 500年

アングル人、ジュート人、サクソン人が、グレートブリテン島東岸への侵略を開始。西へと侵攻を広げる。

 

477年

アエラ王と息子達が率いるサクソン軍は、新たにブリテン島に到着し、対抗するブリトン人と戦い追い出す。

 

496年?

 「ベイドン山の戦い」がアエラ率いるサクソン軍と、ブリトン軍の間で起きる。アエラブリトン軍に大敗北したと言われる

 

627-632年

ノーサンブリアエドウィンが勢力を持つ。エドウィンは、マーシアのペンダとウェールズケルト人)連合軍に敗れ戦死する

 

7世紀~8世紀

8世紀初めごろまでには、アングロ・サクソン人ケルト人を西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を侵略した

 

※緑色がアングロ・サクソン諸国

 

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<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで

 

ノーサンブリアマーシアが覇権を奪い合い、8世紀にはマーシアが有力となる。マーシアのオッファ王は西のウェールズとの国境付近に「オッファの防塁」を築いた

※参考記事
戦国化するウェールズと、アングロ・サクソンの国マーシアが勢力拡大していく時代

 

825年

ウェセックスのエグバート王がマーシアを撃破し勢力を伸ばし、マーシアは衰退した。
更にエグバート王は、マーシアだけでなくコーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配した。事実上初代のイングランド王とされる。

このイングランドに7つの王国が存在した825年までの約380年間は、アングロ・サクソン七王国時代と呼ばれる。

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※エグバード王 

830年頃~

デンマーク付近に住むノルマン人の一派、デーン人の侵攻が始まった。デーン人はヴァイキングとしてイングランドを荒し、アングロ・サクソンの王国を次々と滅ぼした。

ヴァイキングに関する記事

ヴァイキングの歴史 ヴァイキングはなぜ強かったのか

ヴァイキングのことが良くわかるドラマ ヴァイキング ~海の覇者たち~

 

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※9世紀のイングランド(黄色の部分がデーンロウ、緑色がイングランド

 

878年

ウェセックスのアフルレッド王がデーン人に勝利。デーン人の支配地域を北東部に押しとどめ、そこをデーンローとして制限した区域にデーン人の居住を認めた。

 

927年

ルフレッド大王の孫のアゼルスタン王が、デーンローを奪取。イングランド王国を建国した。「アングル人の土地」を意味していたイングランドは、ウェセックス王家のもとで「イングランド王国」となった。

 

1013年

デンマークのスヴェン王がイングランド王エゼルレッドを破り、イングランド王となる

 

1016年

スヴェンの子クヌートがイングランド王に即位。クヌートは後にデンマーク王、ノルウェーにも即位し、デーン人による北海帝国を築き上げた。

※当時が分かる漫画

ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた

 

1066年

イングランド エドワード懺悔王がなくなると、 ノルマンディー公ギョーム2世がノルマン軍を引き連れ、ハロルド2世をヘイスティングスの戦いで破り、イングランドを征服した。(ノルマン・コンクエスト)

これにより、アングロ・サクソン人によるイングランドの支配は終焉し、ノルマン人によるイングランド支配がはじまった(ノルマン朝

※ノルマンコンクエストに関する記事
イギリスの歴史を変えたノルマンコンクエスト(ノルマン征服)の再現が行われた 

 

 

 

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