イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

アングロサクソンの有名な甲冑 サットン・フーは誰の持ち物だったのか?

f:id:t-akr125:20191207172557p:plain


イギリスの大英博物館に所蔵されている有名な、「サットン・フー」の冑とは何でしょうか?

 また、歴史上の誰の冑だったのでしょうか?

 

👉おすすめ記事:イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要  

 

サットン・フーとは

 

サットン・フー(Sutton Hoo)はイングランド東部のイースト・アングリアで発見された、アングロ・サクソン王の墓(船葬墓:船を棺にしたり、副葬品としたもの)です。

 

サットン・フーが発見された一帯は、中世イースト・アングリア王国の墓地などの遺跡が多く見つかっています。

その中で1号墓地と呼ばれる地域から発見された船葬墓の事を、サットン・フーと呼んでいます。

 

サットン・フーからは、全長27mの木製の船をはじめ、有名な戦士の甲冑(かぶと)や剣・盾、豪華な装飾品など(ブローチ、皿、角杯など)が見つかり、 現在は大英博物館に展示されています。


サットン・フーの埋葬品の画像など(大英博物館)

 

サットン・フーの埋蔵品は大英博物館に展示されており、甲冑の面、装飾品などの所蔵品の写真が、ホームページに載っています。 

大英博物館にある埋蔵品写真、船墓の発掘模様

 


サットン・フーは誰の墓?

f:id:t-akr125:20191207173404p:image

赤い領域がイースト・アングリア(ウィキペディアより)

 

サットン・フーの副葬品の中には、西暦 625 年と刻まれた金貨が含まれており、 7世紀の初め頃の船葬墓ではないか?と推定されています。

 

サットン・フーはイースト・アングリアの王の墓と仮定しますと、7世紀初め頃の王は、レッドウォールド、エアルプワルド、シゲベルドとなります。

この3人のうちの誰かの墓ではないかと考えられます。

623年頃になくなったイースト・ アングリア王レッドウォールドの墓という説が有力です。

 

f:id:t-akr125:20191207180025p:plain

 

 

サットン・フーの時代の歴史背景

イースト・アングリア王国(The kingdom of East Anglia)は、アングロ・サクソン七王国の1つです。

👉イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要 

 

レッドウォールド(Rædwald)はアングロサクソンの王国、イーストアングリアの王で599年~623年頃(624年や627年の説も)年まで統治していました。

 

レッドウォールドの時代はとても困難な時期でした。

・ヴァイキング達がイーストアングリアに侵略して、修道院を次々に破壊していました。

・アングロサクソンの国同士でも争いが続いていました。レッドウォールドはケント

王国のエゼルベルト王の支配下にありました。

 

レッドウォールドは、ノーサンブリア王国を追放されたエドウィンを保護し、ノーサンブリア王国のエゼルヴリス王を616年に倒しました。

 

また、ケント王国のエゼルベルト王も616年頃に亡くなり、レッドウォールドは勢力を広げて、もっとも強力な王の1人となりました。

 

レッドウォールドは最も勢力のある王の称号である「ブレトワルダ」の1人とされ、この偉大な王を葬った墓が、サットン・フーと考えられます。

 

👉おすすめ記事:イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要  

ヴィンランド・サガ シーズン1 第2話「剣」の歴史上の出来事

f:id:t-akr125:20191204230412p:plain


西ヨーロッパに出現して略奪行為を繰り返した最強の戦士軍団「ヴァイキング」。

ヴィンランド・サガは10世紀に最強の戦士といわれたトールズの息子トルフィンは幼いころからヴァイキング達の戦場を生き抜いていました。その中で生き方に目覚め理想の地ヴィンランドを目指すストーリです。

ヴィンランド・サガのそれぞれの話には、実際の歴史上の出来事が含まれています。

今回は、シーズン1 第2話「剣」の歴史上の出来事についてご紹介します。

 

 👉おすすめ記事

・ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? 

・ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた

・これがヴァイキング漫画、ヴィンランド・サガの歴史背景だ! 

 

イングランド軍によるヴァイキング虐殺(1002年)

 

f:id:t-akr125:20191204231819p:plain
エゼルレッド2世

 

<アニメの場面>

イングランド北部ノーサンブリア伯領内のヴァイキング拠点で、 土曜日にヴァイキングが入浴している時を狙って、 イングランド軍がヴァイキングたちを襲い、 大量虐殺をした場面です。

 

<歴史上の内容>

ヴァイキングたちは980年頃から、 イングランドを襲うようになっていました。その都度、 平和的に解決するためイングランドはヴァイキングに退去料を支払 っていました。

しかし、ヴァイキングの襲撃は頻繁に起こり、 当時のイングランド王エゼルレッド2世は、 財政負担に悩まされていました。

 

そこで、1002年にエゼルレッド2世(無思慮王)は、 イングランド在住のデーン人(デンマーク人のこと) を虐殺したのでした。

 

ヨーム戦士団のイングランド侵攻開始(1003年)

 

f:id:t-akr125:20191204231652p:plain
スヴェン1世


<アニメの場面>
 

ヨーム戦士団のフローキがトールズにヨーム戦士団に戻るよう説得する場面がありました。

話の中で、シグヴァルディを首領とするヨーム戦士団はデンマーク軍と連携し 、イングランド侵攻が始まる場面です。

デンマークのスヴェン王は、 ヴァイキングたちがイングランド兵に虐殺されたことが、 イングンランド侵攻への口実になる、との発言もありました。

 

<歴史上の内容>
当時、デンマークはノルウェーからの支配を嫌い、 ヨーム戦士団と手を組んでいました。デンマーク王のスヴェン1世 は、1002年に起こったイングランド軍によるデーン人虐殺の報 復をするため、1003年から北欧各国からも兵を集めてイングラ ンドへ攻撃を始めました。

スヴェン1世はエゼルレッド2世を破り、イングランド王の位まで奪いました。エゼルレッド2世のヴァイキング虐殺は大きな裏目に出たのです。(無思慮王)

 

ヨーム騎士団について

f:id:t-akr125:20191204231541p:plain


<歴史上の解説> 

ヨーム戦士団は、実際にはヨムスヴァイキング( またはヨームのヴァイキング、Jomsvikings)は、10世紀~11世紀にかけて戦闘で活躍した軍団です。

 

デンマークのハーラル1世がヨムスボルグに城塞を作り( 場所は不詳)、パルナトキが首領となり作った軍団が、 ヨムスヴァイキングと言われています。

パルナトキを後継した首領がシグヴァルディで、兄弟の「 のっぽのトルケル」も加わりました。

 

シグヴァルディはスヴェン王と手を組んで、 ノルウェーを攻撃してハーコン王を倒そうと約束をしました。 このため、第1話の初めに登場する、986年のヒョルンガヴァー グの戦いが起こりました。

 

※詳細は不明ですが、トルフィンの父トールズ・スノーレソンは実在人物です 

 👉おすすめ記事

・ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? 

 

 👉こちらもどうぞ!

・ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた

・これがヴァイキング漫画、ヴィンランド・サガの歴史背景だ! 

 

www.rekishiwales.com

「スター・ウォーズ」とイギリスのウェールズとのつながり

f:id:t-akr125:20180609132848p:plain

 

ジョージ・ルーカスの構想をもとに造られている「スターウォーズ」シリーズは、1977年に最初の映画が公開されてから40年以上がたち、2019年12月20日に「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」が公開されます。 

 

 

スターウォーズを振り返ってみると、イギリス(特にウェールズ)とスターウォーズには幾つものつながりがあったのです。それらをご紹介します。

 

👉ウェールズで設立されたジェダイ教
スター・ウォーズ ジェダイの教えとは?
 

 

イギリスに根付くジェダイ教

ジェダイ(Jedi)とは、銀河をつかさどるエネルギー「フォース」と光刃を形成する剣「ライトセイバー」を用いて戦う、銀河系の自由と正義の守護者のことです。

2007年に「ジェダイ教」という、宗教的な教会がウェールズのアングルシー島に、ダニエル・M・ジョーンズ氏によって設立されました。

 

ジェダイ教(ジェダイイズム)とは、スターウォーズに描かれているジェダイの哲学的で精神的な考えが元になっています。

 

この組織は世界中に多くのメンバーがおり、イングランドやウェールズでは「最も代用の教義」と言われています。

※ジェダイ教は正式な宗教ではないそうです

 

2011年の調査でジェダイ教を信じる人たちの内訳は下記で、イングランドとウェールズにとても多くの信者がいます

イングランド及びウェールズ:17万6千人
オーストラリア:6万5千人
カナダ:9千人
チェコ共和国:1万5千人

 

👉スター・ウォーズ ジェダイの教えとは?

ウェールズに存在するスター・ウォーズ

スターウォーズに登場する宇宙船の中で最も有名なのは、光の1.5倍もの高速力を持つミレニアム・ファルコン(Millennium Falcon)です。このファルコン号がウェールズに多数出現しているのです。

実物大モデル

ファルコン号のフルスケールのモデルが、ウェールズのペンブロークに作られていたのです。

f:id:t-akr125:20180609132433p:plain

f:id:t-akr125:20180609131712p:plain
when Pembroke Dock made the Millennium Falconより

 

首都カーディフの上空に出現

f:id:t-akr125:20180609144600p:plain 

 ウェールズの首都カーディフの、ミレニアム・スタジアムを飛ぶ、ミレニアム・ファルコン

The Welsh town where the Millennium Falcon was built celebrates its Star Wars heritageより

 

 

住宅街がミレニアム・ファルコンに

ウェールズのケアフェリーに現れた、ミレニアム・ファルコンにそっくりな住宅街です。

f:id:t-akr125:20180609132848p:plain

www.walesonline.co.uk

 

 

こちらはイングランドのサリー州に現れた、ミレニアム・ファルコンに似た住宅です。

f:id:t-akr125:20180609135301p:plain

Star Wars Millennium Falcon spacecraft spotted on Google Earth by eagle-eyed fans - Mirror Onlineより

 

これらは、ジェダイ教の影響でしょうか? 

 

スターウォーズに関わったウェールズ人

 

・「ジェダイの帰還」の監督を務めた、リチャード・マーカンドはウェールズ人で、ウェールズのカーディフで生まれました。

リチャード・マーカンド - Wikipedia

スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還

 

・「ファントム・メナス」と「クローンの攻撃」に登場し、コンピューターで作られた奴隷のオーナー、ワトー(Watto)の声優アンディー・セクームは、ウェールズ生まれのウェールズ人です。 

スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス(字幕版)

スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃(字幕版)

 

 👉ウェールズで設立されたジェダイ教
スター・ウォーズ ジェダイの教えとは?
 

 

スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還 リミテッド・エディション [DVD]

スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還 リミテッド・エディション [DVD]

 

 

テューダー朝の「エドワード6世」はどんな人物だったのか?

f:id:t-akr125:20191201123809p:plain


エドワード6世は、男子を熱望したヘンリー8世の待望の世継ぎでした。

ヘンリー7世からテューダー朝となり君主制を強めていた時代で、エドワード6世は弱冠9歳でイングランド王となりました。

エドワード6世はどんな人物でどのような政治をしたのでしょうか?

 

 👉おススメ記事です

・テューダー家の歴史 起源〜テューダー朝の始まりまで

・テューダー家の歴史 6代続いたテューダー朝の概要

・イングランド王 ヘンリー8世 6人の妻たちへの悪事と功績や教養あふれる魅力

 

 

エドワード6世の家系(テューダー朝)

 

エドワード6世は、ヘンリー8世の唯一の息子で、ジェーン・ シーモアとの間に、1537年10月12日に生まれました。

しかし、母親のジェーンは、出産後12日で亡くなりました。 ジェーンは物静かで心地の良いカリスマ的な人物でした。(ヘンリー8世の6人中3人目の王妃)

 

テューダー朝の簡単な家系図を記します。

f:id:t-akr125:20191124163103p:plain

 

エドワード6世はテューダー朝の中では3番目の君主で、メアリー1世、エリザべス1世とは母親違いの異母兄弟です。

 

教養が深いエドワード6世

 

テューダー家の人々は皆教養が深く、知性が高かったようです。エドワード6世も同じでした。

 

エドワード6世は、 ひ弱で不健康な少年と一般的には考えられていますが、 実際はとても健康的でがっしりとし、運動も得意でした。そして、 ギリシャ語、ラテン語、フランス語、 神学に興味を持っていました。

そして、この教育(学問)は、 若くしてプロテスタントの学問への熱意に変化していきました。

 

またエドワード6世は、歌やリュートの吹き方を習うなど、 音楽の勉強に没頭をしていました。

ヘンリー8世がフランドル人の音楽家フィリップ・ヴァン・ ウィルダー(Philip van Wilder)を雇ったときに、ヘンリー8世は,エドワードに音 楽を鑑賞して欲しいと思い、 エドワードに作曲の仕方を学ぶように仕向けた程です。

 

しかし、エドワード6世はギャンブル好きな面もありました。 家庭教師のロジャー・アーカム(Roger Ascham)が何度も厳しく叱り、禁止するまでギャンブルに興じていたようです。

 

政治に興味がなく摂政に操られるエドワード6世

ヘンリー8世が1547年に亡くなったため、エドワード6世が後 継しました。

しかし、エドワード6世は弱冠9歳だったため、 エドワード6世の義兄である、エドワード・シーモア( サマセット公)が護国卿(摂政)となり、 実際の権力を握りました。

 

ヘンリー8世の宗教改革を引き続き行い、 プロテスタント化政策を進めた時代で、イギリス議会では「一般祈祷書」が制定され、イギリス国教会の信仰基準が定められました。

 

 

しかし、エドワード6世は、政治には意欲的ではありませんでした。摂政たちが政治問題に取り組んでい る間、エドワード6世は、テニス、バックギャモン、チェス、 カード、武術に励み、政治は任せっきりでした。

 

 

このため、自分たちの好む変化を導入したいと政治的な野心を持った人物の操り人形でした。

 

エドワード6世の性格

 

エドワード6世は若くして亡くなったため、 どんな性格をしていたのか将来どんな人物になりえたのか、 は良く分かっていません。

しかし、エドワード6世の性格や外見は魅力的ではな く、将来も有望と思われてなかったようです。.

 

エドワード6世は、他のテューダー朝の君主と似ており、傲慢で横柄な性格だったようです。また、独りよがりで、思いやりの欠けた冷淡な心の持ち主でした。

 

自己中心的で、粗悪になりやすく、 簡単にずるい男たちに揺れ動く性格。エドワード6世は、 ひどい政治や政治家たちに対しても、 何の影響力をも与えませんでした

 

テューダー朝の混乱へ

 

摂政として実権を握っていたサマセット公は、ノーサンバランド公ジョン・ ダトリーとの争いに敗れて1549年に逮捕され、 大逆罪で有罪判決を受け、1552年に処刑されました。

サマセット公に変わりノーザンバランド公が実権を握ると、ノーザンバランド公の企みが始まりました。 ノーザンバランド公は自分の血筋に王位を入れようと企みます。

 

エドワード6世が病身となり後先が短いと知ると、エドワード6世の従姉妹の娘であるジェーン・グレイの血筋に注目し、 息子ギルフォード・ダドリーとジェーンを結婚させました。

そして、死の床にあるエドワード6世を説得し、 後継者をジェーン・グレイにと迫り、了承を得ました。そして、 1153年7月6日にエドワード6世がわずか15歳で死去しました。

 

 

※プロテスタントの拡大を進めるエドワード6世は、 カトリックのメアリーに改宗を迫るも失敗しており、 プロテスタントのジェーンを後継にと迫りました

 

思うつぼのノーサンバランド公は、7月10日にジェーン・ グレイの即位を宣言しました。しかし、 エドワード6世の異母姉メアリーは逃亡して身柄を拘束できず、また世論はヘンリー8世の 直系で正統な後継を求める声が上がっていた。

ノーサンバランド公の企みを知ったイングランド議会は、1553 年7月19日にメアリーの即位を宣言しました。(メアリー1世)

ジェーン・グレイはイングランド史上初の女王となりましたが、在位わずか 9日間で廃位されました。

 

ノーザンバランド公と息子ギルフォード、ジェーン・ グレイは逮捕され、反逆罪で斬首刑となりました。

👉9日間の女王 レディ・ジェーン・グレイの悲劇の原因 

 

 👉おススメ記事です

・テューダー家の歴史 起源〜テューダー朝の始まりまで

・テューダー家の歴史 6代続いたテューダー朝の概要

・イングランド王 ヘンリー8世 6人の妻たちへの悪事と功績や教養あふれる魅力

 

※エドワード6世を主人公として、マーク・トウェーンが描いた物語が「王子と乞食」です。 

王子と乞食 (岩波文庫 赤 311-2)

王子と乞食 (岩波文庫 赤 311-2)

 
トウェイン完訳コレクション 王子と乞食 (角川文庫)

トウェイン完訳コレクション 王子と乞食 (角川文庫)

 

 

 

ヴィンランド・サガ シーズン1 第1話の歴史上の出来事

f:id:t-akr125:20191130181259p:plain


西ヨーロッパに出現して略奪行為を繰り返した最強の戦士軍団「ヴァイキング」。

ヴィンランド・サガは10世紀に最強の戦士といわれたトールズの息子トルフィンは幼いころからヴァイキング達の戦場を生き抜いていました。その中で生き方に目覚め理想の地ヴィンランドを目指すストーリです。

ヴィンランド・サガのそれぞれの話には、実際の歴史上の出来事が含まれています。

今回は、シーズン1 第1話「ここではないどこか」の歴史上の出来事についてご紹介します。

 

 👉おすすめ記事

・ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? 

・ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた

・これがヴァイキング漫画、ヴィンランド・サガの歴史背景だ! 

 

ヒョルンガバーグの戦い(987年)

f:id:t-akr125:20191130162853p:plain

アニメでは、ヨームのヴァイキングであるのっぼのトルケルとトールズの2人が、船を飛び移りながら大勢の敵と戦っている場面です。

 

ヒョルンガバーグの戦いは、デンマーク王の依頼を受けたシグヴァルディが率いるヨームのヴァイキング(ヨムス・ヴァイキング)と、ノルウェー王ハーコン・シグルザソンとの戦いでした。

デンマークは北欧で支配力を持っていましたが、この戦いに勝利したハーコンは、ノルウェーへのデンマークの支配力を断ち切りました。 

ヨムスヴァイキング - Wikipedia

 

レイフのヴィンランドへの到着について

 

f:id:t-akr125:20191130165313p:plain

 

レイフが子供たちに熱くヴィンランドへ上陸した話をしていますが、子供たちには信じてもらえない場面があります。

 

レイフはレイフ・エリクソンのことで、グリーンランドを発見したエイリークの長男です。

997年にグリーンランドから西に航海に出て、カナダのパフィン島にたどり着き、さらに南下して大陸に上陸しました。(1000年)

 

※現在のカナダにあるラブラドル半島と考えられています。

f:id:t-akr125:20191130164608p:plain

 

レイフたちはこの地をヴィンランドと名付けてグリーンランドに戻り、入植者を連れて再びヴィンランドに定住を試みました。(先住民との関係が保てず、定住は長続きせず)

 

トルフィン家族のアイスランドへの移住について

 

f:id:t-akr125:20191130174641p:plain

 

トルフィンはレイフから、ハーラル王の権力に負けてノルウェーからアイスランドに逃げた先祖の話を聞き、うそだ!と言った場面があります。

 

ハーラル1世(HaraldⅠ、ハーラル美髪王)は、スウェーデン各地の王を破り、872年頃にスウェーデンの全土を統一しました。ノルウェーで最初の統一王権を作ったとされています。

ハーラル1世による支配を逃れようと、ノルウェーの豪族や農民たちは、アイスランドに移住したとされています。

 

トルフィン(ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン)の家族も、曽祖父スノッリ(Snorri)の時代に、アイスランドに逃れたと考えられます。

 

 👉おすすめ記事

・ヴィンランド・サガ、登場人物達は実在したの? 

・ヴィンランド・サガはなぜ面白いのか。その理由を分析してみた

・これがヴァイキング漫画、ヴィンランド・サガの歴史背景だ! 

 

www.rekishiwales.com

ガレス卿、ガヘレス卿、アグラヴァイン卿の実在したモデル人物を考えた

f:id:t-akr125:20191126231759p:plain

ガレス卿(Sir Gareth)、ガヘリス卿(Sir Gaheris)、アグラヴェイン卿(Sir Agravain)はアーサー王の甥にあたり、オークニーのロット王とモルゴースの息子です。

他の兄弟には、ガウェイン卿やモルゴースと異父弟にモルドレッド卿がいます。

ガレス卿、ガヘレス卿、アグラヴェイン卿にも実在したモデル人物がいるとされています。 

今回は簡潔にモデル人物をご紹介いたしまします。

 

👉こちらもどうぞ!

・「円卓の騎士」の一覧。25人の「円卓の騎士」とは? 

・円卓の騎士ガウェイン。現実と伝説が混ざり合った騎士 

 

ウェールズの伝承によるモデル人物


ウェールズの伝承によると、 現在のスコットランドに位置する国のなかで、ゴドッディン(Goddodin)と呼ばれる国がありました。5~6世紀にゴドッディンを治めていた王がルッズ王(Lludd、ロット王のモデル)でした。

ルッズ王の息子にはサーヴァン(Serwan、ガウェインのモデル)やグワルヒアヴェッド( Gwalchafed)と呼ばれる人物がいました。

グワルヒアヴェッドとは、「夏のハヤブサ」という意味です。

 

母親は、 アーサー王の姉アンナ(Anna、モルゴースのモデル)なので、 グワルヒアヴェッド王子はアーサー王の甥となります。

グワルヒアヴェッドはサーヴァンとともに宮殿で叔父アーサー王に仕えました 。


このグワルヒアヴェッドが、ガレス、ガヘリス、アグラヴェインのモデル人物になったと言われています。 残念ながら、グワルヒアヴェッドに関することは、殆ど分かっていません。

また、3人の中で誰がグワルヒアヴォッドをモデルとしたのかは分かって いません。

 

 

あえて特定する必要なないかもしれませんが、考えてみました。

グワルヒアヴェッドの「夏のハヤブサ」という意味を考えると、誰がモデルと思われるでしょうか?

ハヤブサは精悍な顔つきで、空からすごい速度で急降下して獲物を獲る、すごい能力を持っています。しかし、調教はとても難しいという面もあります。

 

ガレス、ガヘリス、アグラヴェイン3人ともハンサムであり、武勇にも優れていました。しかし、性格は異なっており、ガレスは優しく戦いを嫌い、ガヘリスは優しさと獰猛さを兼ね備え、アグラヴェインは傲慢・横柄で悪意に満ちた性格でした。

 

3人ともにグワルヒアヴォッドをモデルにしている可能性があるかもしれませんが、これを考えると、ガヘリスが近いのかもしれませんね。

 

👉ロット王の一族のモデル人物
父ロット王に関する記事

・アーサー王の義兄 「オークニーのロット王」はどんな人物なのか?

母モルゴースに関する記事

・アーサー王の姉「モルゴース」の名前の意味と時代による変化 

ガウェインに関する記事
・円卓の騎士ガウェイン。現実と伝説が混ざり合った騎士

モルドレッドに関する記事

・円卓の騎士 モルドレッドのアーサー王への陰謀は作り話?

 

 

テューダー家の歴史 6代続いたテューダー朝の概要

f:id:t-akr125:20191119214401p:plain

 

イングランド君主において、16世紀にヘンリー7世がテューダー朝を始めました。

テューダー朝の家系(テューダー家)は、 それまでのノルマン朝とは、血筋が大きく異なっていることは、前回の記事でご紹介しました。

今回は、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、ジェーン・グレイ、メアリー1世、エリザベス1世と6代に渡った、テューダー朝の概要をご紹介します。

 

👉テューダー家の歴史

テューダー家の歴史 起源〜テューダー朝の始まりまで 

 

テューダー朝の家系図

簡単にテューダー朝の家系図を記しました。

①~⑤の君主について順に説明していきます。

 

f:id:t-akr125:20191124163103p:plain

テューダー朝の始まり(ヘンリー7世)

f:id:t-akr125:20191124133819p:plain


1485年にヘンリー・テューダー(1457-1509)は、薔薇戦争の最期の戦いであるボズワースの戦いでリチャード3世を破り、イングランド王ヘンリー7世として戴冠しました。(テューダー朝の始まり)

ヘンリー7世は薔薇戦争で乱れたイングランドを立て直そうと、君主制を強め経済の立て直し、外交も安定させました。

 

・ヘンリー7世はリチャード3世の姪であるエリザベス・オブ・ヨークと結婚をし、ヨーク家とランカスター家を統合した

・貴族や富裕層からの徴税を重くし、毛織物工業を盛んにするなど、破たんしていた財政を立て直した

・フランスやスペインと同盟し、外交の安定化を図った

 

ヘンリー7世とエリザベスとの間には、アーサー、マーガレット、ヘンリー(ヘンリー8世)、メアリーが産まれました。

マーガレットはスコットランド王ジェームス4世と結婚し、メアリーはフランス国王ルイ12世と結婚し、後にイングランドのサフォーク公チャールズ・ブランドンと再婚しました。

ヘンリー7世の長男アーサーは、スペイン王の娘キャサリン・オブ・アラゴンと結婚しますが、虚弱体質のため翌年の1502年に15歳の若さで亡くなります。

このため、ヘンリー7世の後継は次男のヘンリーとなりました。

 

👉ヘンリー7世に関する記事

ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

テューダー朝の情事と国教会設立(ヘンリー8世)

f:id:t-akr125:20191124133130p:plain


 

ヘンリー7世が亡くなると次男のヘンリー(1491-1547)が後継し、1509年にヘンリー8世となりました。

 

ヘンリー8世の時代には、政治的にはイングランドの国力の強化がなされました。

・王立海軍を創立し、イングランド海軍を強化
・絶対王政の確立(ウェールズ、スコットランド、アイルランドの統治権の強化)
・宗教改革(ローマカトリックから離れて、イングランド国教会を設立)

 

しかし、無慈悲で利己的な考えを押し通し、テューダー朝だけでなく政治にも混乱と影響を及ぼしました。

 

ヘンリー8世は、未亡人となっていたキャサリン・オブ・アラゴンと結婚し、長女メアリーが誕生しましたが(後のメアリー1世)、ヘンリー8世はテューダー朝の王権を固め強いイングランドするためには、長男の世継ぎが必要と考えました。

 

・男子が産まれないキャサリンと離婚し、関係を持っていた侍女アン・ブーリンと結婚しようと企みました。

・ローマ・カトリック教会が受け入れず対立したため、ヘンリー8世はカトリックと決別し、イングランド国教会(プロテスタント)を設立しました。

 

ヘンリー8世はキャサリンと離婚し、アン・ブーリンと結婚したものの、男子は生まれずアンとの関係も悪化し、処刑するにいたってしまいました。その後は離婚・結婚を続けていきます。

以下が、ヘンリー8世の王妃となった6人の女性たちの概要です。

 

1.キャサリン・オブ・アラゴン
24年間の結婚生活をつづけ、メアリー(のちのメアリー1世)を生みますが、男子に恵まれず離婚させられました。

2.アン・ブーリン
エリザベスを産みますが(のちのエリザベス1世)、姦通罪と近親相姦の罪を着せられ処刑されました。 

 

3.ジェーン・シーモア
エドワード6世を出産しますが、出産後に亡くなります。

4.アン・オブ・グレーヴィス
肖像画と実物はかけ離れ、初対面でヘンリー8世は激怒し直ぐに離婚となりました。

5.キャサリン・ハワード
アン・ブーリンの姉妹。元恋人との関係を疑われ反逆罪で処刑されました。

6.キャサリン・パー
ヘンリー8世の子(メアリー、エリザベス、エドワード)とも良い関係を築き、メアリーとエリザベスの王位継承権を復活させます。ヘンリー8世の最後も看取りました。

ヘンリー8世の後は、唯一の息子であるエドワードが後継しました。

 

👉ヘンリー8世に関する記事

イングランド王 ヘンリー8世 6人の妻たちへの悪事と功績や教養あふれる魅力

 

摂政に操られるテューダー朝(エドワード6世)

 

f:id:t-akr125:20191124134111p:plain

 

エドワード6世(1537-1553)は若干9歳の時にイングランド王となりました(15歳まで統治)

 

エドワード6世は、国政を行うには幼すぎたため、 叔父であるサマセット卿が摂政となり実権を握りました。

その後、敵対していたノーサンバランド卿がサマセット公を失脚させて権力をふるいました。

エドワードは政治には興味を示さず、政治問題に取り組んでい る間、テニス、バックギャモン、チェス、 カード、武術、スポーツや音楽に励んでいました。

 

 

野心を持つノーサンバランド公ジョン・ダトリーは自分の血筋に王位を入れようと企みます。エドワード6世が病身となり後先が短いと知ると、エドワード6世の従妹の娘であるジェーン・グレイと息子ギルフォード・ダドリーを結婚させました。

そして、死の床にあるエドワード6世を説得し、 後継者をジェーン・グレイにと迫り、了承を得ました。

 

9日間の女王 ジェーン・グレイ

f:id:t-akr125:20191124134217p:plain

 

1153年にエドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーン・グレイの

ーサンバランド公はジェーンの即位を宣言しました。

 

ジェーンはイングランドで初めての女王となりましたが、世論はヘンリー8世の直系で正統な後継を求める声が上がり、ジョン・ダトリーの企みを知ったイングランド議会も、1553年7月19日にメアリーの即位を宣言しました。

 ※メアリーはヘンリー8世と最初の妻キャサリンとの娘

 

ノーサンバランド公は処刑され、ジェーン・グレイも捕らえられ夫と共に1554年に処刑されました。わずか9日間の女王でした。

 

👉ジェーン・グレイに関する記事

9日間の女王 レディ・ジェーン・グレイの悲劇の原因

 

 

テューダー家に続く混乱(メアリー1世)

f:id:t-akr125:20191124134303p:plain

 

こうしてメアリー37歳でイングランド女王となりました。

 ヘンリー8世とエドワード6世の時代にはプロテスタントの国としての強化が進んでいました。

しかし、メアリー1世はローマ・カトリック信者でありカトリックの復興を進めたため、反感と混乱を招きました。


メアリーはカトリックのスペイン王フィリペ2世との結婚を決意しましたが、イングランド議会から反対され、1554年にトーマス・ワットをリーダーとするプロテスタントの反乱が起きました。


メアリー1世は反乱を鎮圧し、反乱を起こした処刑者を絞首台にさらし、異端者は厳しく処罰され約300人が火あぶりの刑にするなど、残忍さをあらわにしました。

 

このため、メアリー1世はブラディー・メアリーとして嫌われ、そして夫フィリペ2世からも不信感を抱かれ、子供が生まれないまま別居状態となりました。

 

メアリー1世は、丈夫な体ではなく生涯病気に悩まされ1158年に世を去りました。

メアリー1世は、母を陥れたアン・ブーリンの娘として嫌っていたエリザベスを、しぶしぶ後継者に指名しました。

 

テューダー朝の黄金期(エリザベス1世)

f:id:t-akr125:20191124133718p:plain


 

エリザベス1世は1558年から1603年まで約45年にわたってイングランンド君主を務め、強いイングランドを作りました。

 

①イギリス国教会の確立

カトリックでも極端なプロテスタントでもない、イングランド独自の英国国教会を構築し、国王至上法を定めて国王の権力を強めました。

②国際的地位の向上

アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破り、国際的評価だけでなくエリザベスの評価も上がりました。

③経済力の向上
羊毛産業を基礎とした毛織物工業が発達させ、1600年にイギリス東インド会社を設立し積極的な発展策をとりました。

 

エリザベス1世は1588年のスペイン無敵艦隊を破ったことで英国史上もっとも偉大な勝利者として知られています。

在任時は、あまり人気がなかったようですが、没後20年ほどすると状況は変化し、イングランド黄金時代の統治者として称えられるようになりました。

 

多くの恋愛話、結婚話もあり、嫉妬深く男性との恋愛心を持ち続けた人物でもありましたが、生涯独身を貫き、処女王と呼ばれました。

 
👉エリザベス1世についての記事

エリザベス女王1世の功績と結婚・恋愛話 

 

テューダー朝の終わり(ステュアート朝へ)

 

エリザベス1世だけでなく、エドワード6世、ジェーン・グレイ、メアリー1世も、みな子孫を残せませんでした。このため、テューダー朝はエリザベス1世の時代で幕を閉じました。

その後のイングランド王室は、ヘンリー7世の娘でスコットランド王室に嫁いだメアリー・テューダーの血筋へと移りました(ステュアート朝)

 

www.rekishiwales.com

 

取材、記事のご依頼、お問い合わせはこちらまで t.akr125@gmail.com