イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

アーサー王の都はキャメロットと言うのは本当? 新たな遷都説を提案します

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こんにちは、たなかあきらです。

「アーサー王の都」と言えば、「キャメロット」が通説です。

しかし、キャメロットはどこにあるのだろうか?

キャメロットの候補地はいくつか挙げられますが、人々にとって「キャメロットの場所」は長年の疑問で、いまだ分かっていません。

 

・キャメロットはアーサー王の都なのだろうか?

・アーサー王の都は別の場所なのではないだろうか?

と思うようになりました。

 

・キャメロットは都でないかもしれない理由
・別の場所とはどこなのか
・新たに遷都説

を提案します。

 

アーサー王の都はキャメロットである通説

アーサー王の都や宮廷は「キャメロット」にある、と言うのが通説です。

このため、しばしばキャメロットは何処にあるのか?の議論があります。
現在の幾つかの場所が候補に挙がっています。

 

www.rekishiwales.com

 

しかし、僕は疑問を持ちました。

アーサー王の都は本当にキャメロットなのだろうか?

キャメロットをアーサー王の都である前提はよいのだろうか?

 

今回はアーサー王が描かれている代表的な書物、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」より、アーサー王の都はキャメロットで良いのか?
では何処なのか?考えてみました。

 

「ブリタニア列王史」にみるアーサー王の都

アーサー王物語の原形と言われている書は「ブリタニア列王史」で、11世紀にジェフリー・オヴ・モンマスが書いたとされています。

※本はこちら👉ブリタニア列王史―アーサー王ロマンス原拠の書

 

「ブリタニア列王史」でアーサー王(アルトゥールス)が登場する第7部 アルトゥールス王を見ますと、キャメロットは全く登場しません。

都らしき場所はシルケストリアとカールレオンの二箇所です。

シルケストリアの説

15歳のアルトゥールスは父ウーテル・ペンドラゴン王が亡くなった後、シルケストリアで戴冠しました。

シルケストリアは現在のイングランドのシェルチェスターであり、ローマ帝国が支配した時代に要塞があり、政治的や宗教的にも重要なばしょでした。


カールレオンの説

カールレオンはレギオの首都で、現在の南ウェールズにあるカールレオンです。ここもローマ時代の主要な要塞都市でした。

アルトゥールスは大陸に遠征しガリア全土、ローマ帝国を支配下にした後に、ブリタニアに凱旋帰国しました。

その後、聖霊降臨祭と戴冠式をカールレオンで行っています。


「アーサー王の死」に見るアーサー王の都


15世紀後半にトマス・マロリーが書いた「アーサー王の死」は、アーサー王物語の完成版といわれています。

「アーサー王の死」の中では、何ヶ所かアーサー王の都と考えられる場所が登場してますので、時系列で概要を記します。

これによると、アーサー王の都は時代によって移転したのでは、と推測されます。

※本はこちら👉アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)

初期の頃の都、アーサー王が戴冠した時代

・アーサー王はカールレオンのまちで王の戴冠式をすませたあと、五旬節の日に大宴会を開く

・ベドグレインの戦いの後、敗れた11人の王は仇を打とうと、3年間アーサー王と戦った。その後、アーサー王はカールレオンのまちに戻った

👉アーサー王の都はカールレオンと考えられます

 

中期の頃の都1、ローマ皇帝を倒し繁栄した時代

 

・アーサー王はカメロットで大宴会を開き、アーサー王やグィネヴィア王妃、ラーンスロット、ガラハッドの母エレイン姫も参加

・カメロット(英語で言えばウィンチェスター)の表記が登場。

ラーンスロット、パーシヴァル、エクトル・ド・マリスが旅から戻り、カメロットに到着。アーサー王も騎士たちも大よろこびで迎える。

 

👉アーサー王の都はカメロット(ウィンチェスター)に移ったのではと考えられます

 

中期の頃の都2、ランスロットとグィネヴィアの不倫が疑われる

 

・聖母被昇天祭の当日、カメロットで大馬上槍試合を開催。アーサー王は家臣を連れてウィンチェスターへ旅立つ。

・カメロットでの大馬上槍試合が終わって、アーサー王と側近全部はロンドンへ帰った。

・ラーンスロットは大馬上槍試合の怪我から全快し、ウィンチェスターに向かった。アーサーはラーンスロットが戻ったことを知り、大よろこびした。との記述もある

 

👉アーサー王の都はロンドンに移った、またはロンドンとキャメロットの両方にあったと考えられます

 

後期の都、円卓の騎士が崩壊した時代

当時、宮廷はカーライルにあったとの記述が見られます。

・聖霊君臨祭(大祭典)のために、カーライルに円卓の騎士は集まった

 

ランスロットとグィネヴィアの不倫がアーサー王知るところとなり、グィネヴィアは火あぶりの刑になった時も、カーライルの記述が見られます。

・ラーンスロットがグィネヴィアを救い出し、ガレス、ガヘレスなどが殺された。アーサー王はラーンスロットの喜びの砦を攻め、戦いが始まる。

ロチェスターの司教は、和解させようとのローマ教皇の教書を持って、カーライルのアーサー王に見せた。

 

👉アーサー王の都はカーライルに移ったのでは、と考えられます

 

今回のまとめ

アーサー王の都は「カメロット」が定説ですが、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」からは、別の説が考えられます。

 

「ブリタニア列王史」によるアーサー王の都

・シルチェスターかカールレオン

「アーサー王の死」によるアーサー王の都

・カールレオン

・カメロット(ウィンチェスター)

・ロンドン

・カーライル

に移っていった。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

※参考記事

アーサー王の墓 アヴァロンはどこにあるのか?

分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ 

アーサー王の最期の戦い 「カムランの戦い」の実在の場所は? 

アーサー王が活躍した「ベイドン山の戦い」の場所

アーサー王の円卓(ラウンドテーブル)の場所は?

アーサー王の最期の戦い 「カムランの戦い」の実在の場所は?

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こんにちは、たなかあきらです。

アーサー王が最後に戦ったとされる、「カムランの戦い」はどんな戦いかご存知でしょうか? 
また、アーサー王物語に登場する人物や、場所の多くはモデルが存在します。

では「カムランの戦い」は、現在のどこで行われた戦いなのでしょうか?

アーサー王に興味のある人でしたら、とても気になる内容ですね。

「カムランの戦い」の概略 

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アーサー王と円卓の騎士たちは、ローマ帝国のルキウス皇帝との戦いまたは、ランスロットとの戦いのために、ヨーロッパ大陸に遠征していました。

アーサー王が遠征をしている間、留守を預かっていたモルドレッドが王妃グィネヴィアを奪って反乱を起こし、アーサー王は戦死したと言いふらして諸侯たちを取り込み、王の座を簒奪しました。

この知らせを聞き、アーサー王は急きょブリタニアへ帰還します。

そして、アーサー王とモルドレッドは「カムランの戦い」で激突しました。
※カンブリア年代記によると537年とされています

「カムラン」の傍には曲がった川が流れており、Camlannのcamには湾曲した(crooked)という意味があるそうです。


「カムランの戦い」はアーサー王にとって最期の戦いとなり、アーサー側が勝利したものの、両者とも致命傷を負いました。そして、アーサー王はアヴァロンの地に流されていきました。

参考記事👉アーサー王の墓 アヴァロンはどこにあるのか?

 

「カムランの戦い」の場所とは?

 

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カムラン(Camlann)の戦いが行われた場所はどこでしょうか?
カムランの場所には諸説あり、どこも興味深い場所です
それぞれを簡単にご紹介します。


コーンウォールにあるスローター・ブリッジ(Slaughter Bridge)

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スローター・ブリッジはコーンウォールのキャメルフォードの街の北部にあります。 

スローター・ブリッジの戦場にあるキャメル川の土手には、「アーサー・ストーン」と書かれた「アーサーの墓石」があります。

キャメルフォードはアーサー王の都であるキャメロットではないか?という説があります。

またアーサー王はモルドレットと、ドーヴァー、ウィンチェスターで戦い、その後モルドレッドはコーンウォール方面に逃れていき、最後にカムランで戦った、という記述もあります。

これらから、スローター・ブリッジがカムランの戦いの場所である信ぴょう性はありますね。 

Slaughterbridge - Wikipedia

Camelford - Wikipedia


イングランド北部、カンボグラナ要塞(Camboglanna)

 

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カンボグラナ(現在はキャッスルステッズと呼ばれる)は、ハドリアヌスの城壁にある要塞の1つで、現在のイングランドとスコットランドの故郷近く(カーライルから30分程度)にあります。

ブリタニアがローマ帝国の支配下にあったとき、北からのピクト人の侵略を防ぐための要塞でした。

 

参考記事👉イギリスの世界遺産 「ハドリアヌスの長城」の歴史

 

カンボグラナ要塞の南側には、急な流れで滝もあるアーシング川があります。カムランにあるとされる”湾曲した川”はアーシング川でしょうか?

カムラン(Camlann)とカンボグラナ(Camboglanna)はスペルは似ていますが、コーンウォールなどイングランド南部を中心とするアーサー王との関連は薄いようにも思います。

しかし一方、アーサー王の都キャメロットは、イングランド北部のカーライルにあるという説もあり、カンボグラナのカムラン説も興味深いです。 

Camboglanna - Wikipedia

River Irthing - Wikipedia

 

参考記事👉アーサー王の城 キャメロットはどこだ? 6つの候補地を紹介

 

アーサー王のスコットランド説、ブリッジ・オブ・アラン(Bridge of Allen)

 

ブリッジ・オブ・アランはカンボグラナよりさらに北部にあり、スコットランドのスターリンの北にあります。

ブリッジ・オブ・アランの街にはアラン川が流れています。

ブリッジ・オブ・アランがカムランの場所?という疑問は残りますが、もし「アーサー王のスコットランド説」が本当なら、興味深い場所と思います。

Bridge of Allan - Wikipedia

 

参考記事
👉これが映画キング・アーサーのモデル人物か? スコットランドのアーサー王伝説を追跡してみた

  

 

カムランの名の通り、ウェールズのガムラン川とカムラン谷

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ウェールズのスノードニア国立公園の南側にダヴィ川があり、ダヴィ川に沿ってダヴィ谷があります。ダヴィ川の続きがガムラン川(Gamlan)であり、その傍に「カムランの戦い」の場所であるカムランの谷(Camlan Vally)がある、と言う説です。

※こちらのカムランはCamlanと、カムランの戦いのCamlannと微妙にスペルが違う程度です

 

ダヴィ川(River Dyfi):Google マップ

Dyfi Valley Way (including map, GPS files and statistics)

 

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6世紀のウェールズで王位を争った戦いが起こりました。

オウァイン・ダントグゥイン(Owain Ddantgwin)と甥のマエルグウィンとの戦いです。2人はカムラン谷で戦ったとされ、結果はマエルグウィンの勝利でした。

しかし、オウァイン・ダントグゥインはアーサー王のモデル人物ではないか?、マエルグウィンはモルドレッドのモデル人物ではないか?と言う説があります。

 

私は、このガムラン川とカムラン谷が、「カムランの戦い」の場所ではないか?
強いダークホース的な場所と考えています。

参考記事👉アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた 

 

カムランの近く、カダー・イドリス(Cader Idris)

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カダー・イドリスはウェールズ北部~中部にあるスノードニア山脈の南端にある山(893m)で、ドルゲラウ(Dolgellau)の街の近くにあります。

カダー・イドリスは、ガムラン川の近くにあり、カムランの地ではないか?と言われています。

Cadair Idris - Wikipedia

 Cader Idrisへ行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー

 

最後に

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アーサー王とモルドレッドが最後に争った、「カムランの戦い」の場所ではないか?

と考えられる候補地をご紹介いたしました。

どの場所が、本当のカムランなのかは、正直分かりません。

しかし、いずれの場所もカムランである可能性がありますし、それぞれの場所をカムランと思って戦いを想像すると、違ったカムランの戦いが見えてきて、楽しめると思います。

 

※おすすめ記事 

👉アーサー王の城 キャメロットはどこだ? 6つの候補地を紹介

👉アーサー王の円卓(ラウンドテーブル)の場所は? 円卓は結婚祝いだった?

👉アーサー王が活躍した「ベイドン山の戦い」の場所 実在の候補地を集めました 

 

👉分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ👈

 

 

分かりやすい中世のイギリスの歴史②(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

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こんにちは、たなかあきらです。

中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら歴史は作られてきました。

今回の内容は後半で、

・百年戦争、ばら戦争
・テューダー朝
・ピューリタン革命、名誉革命

の影響を受けながら、イングランドへ併合、連合していく様子を分かりやすくお話いたします。
大まかなイギリス歴史の流れをつかんで頂ければありがたいです。

中世前半👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

百年戦争、ばら戦争の影響

百年戦争の勃発

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14世紀ごろになると、イングランドを支配してきたノルマン人の王室や貴族たちは、アングロ・サクソン人と同化し始め、宮廷や公の場で使用する言葉もフランス語から英語に変わってきました。

イングランドを治めフランスに領土を持つアングロ・ノルマン人と、フランスに住むノルマン人やフランス人たちと対立するようになってきました。

フランスの領土やフランス王継承権を主張するイングランド王(エドワード3世)と、対抗するフランス王(フィリップ6世)の間に戦争が起きました。これが百年戦争の始まりです。(1337年~1453年の説)

当初は、エドワード3世や息子のエドワード黒太子が活躍しイングランドが優勢でした。ヘンリー5世は次々とフランス軍に勝利し、勢力範囲を広げました。

しかし、ヘンリー6世のときに、フランス側にジャンヌ・ダルクが現れてから形勢は逆転し、フランスでのイングランドの領土をほぼ失う形で、百年戦争は終結しました。

 

※参考記事👉ウィリアム・ウォレスはなぜスコットランドの英雄なのか

ばら戦争の勃発

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百年戦争で敗れ、イングランドの領土を激減させたヘンリー6世は精神的にもダメージを受け、国を満足に治められなくなりました。このため、ヨーク公リチャードが国王の座を狙いました。

こうして、イングランド王家でランカスター家(ヘンリー6世側)と対抗するヨーク家(ヨーク公リチャード側)に分かれて争いがおこり、約120年に及ぶ「ばら戦争」が始まったのです。

※参考👉薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ

 

アイルランドへの影響

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百年戦争、ばら戦争が起きる中で、アイルランドにおけるイングランドの支配力は低下していきました。

1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)が反イングランドのアイルランド人を味方にしてアイルランド王に推され、アイルランドに侵攻しました。

結果的にエドワードは敗北しましたが、この戦乱を利用して、アイルランド人たちは立ち上がり、イングランドに奪われた土地を取り戻しました。

ウェールズへの影響

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イングランドに征服されていたウェールズにおいても、イングランド支配に対して大きな不満が募っていました。

ウェールズ王室の子孫であるオウァイン・グリンドゥールがヘンリー4世に対して反乱を起こしました。
オウァインの反乱はウェールズ全土に広がり、一時はウェールズ全土を掌握するにまでになります。
しかし、あと一歩のところでイングランド軍に敗北し、ウェールズ独立は成せませんでした。

参考記事👉最も心に残る偉大なイギリスの英雄とは?

 

ばら戦争の終結


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イングランドは薔薇戦争が続いていましたが、ウェールズ王室の子孫でランカスター家の血も引くヘンリー・テューダーが、ヨーク家のリチャード3世を、ボスワースの戦いで破りました(1485年)

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世としてイングランド王となり、テューダー朝を始め、これでばら戦争は終結しました。

参考記事:アーサー王伝説が関わっている
👉ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

イングランド王ヘンリー8世の支配

テューダー朝時代

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イングランドではヘンリー7世がテューダー朝をはじめ、息子のヘンリー8世の時代には、中央集権や絶対王政が強まっていました。

ヘンリー8世はカトリックのローマ教皇と対立し、プロテスタント(国教会)を設立するなど宗教改革を行ないました。
さらに、娘のエリザベス1世の時代にはスペインの無敵艦隊を破るなど、国際的な地位も向上させ、イングランド王国は黄金期を迎えました。

 

アイルランド支配

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イングランドはアイルランドの王権を保持していましたが名目だけで、アイルランド人伯爵が総督となり事実上アイルランドを治めていました。

1541年にヘンリー8世は、自身がアイルランド国王となることをアイルランド議会に承認させました。

ヘンリー8世はプロテスタントをアイルランドにも強要しました。しかし、アイルランドはカトリックが根強く、イングランド支配に対する抵抗もあり、反乱が続きました。
1603年にアルスター(現在の北アイルランド)はイングランドに敗北して植民地となり、カトリックのアイルランド人は追放されてしまいました。

その後、アルスターにはイングランドやスコットランドから移住が盛んにおこなわれ、宗教や生活様式が他とは異なりました。これが北アイルランド問題の起源となります。

 

ウェールズ併合

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イングランドの支配下にあったウェールズは、ヘンリー8世がウェールズ法諸法(1535-1542)を定めたことによりイングランドに併合されました。

ヘンリー8世はウェールズ直系の血筋で、官職にウェールズ人を多く起用したことから、ウェールズの人々に人気があったそうです。

 

テューダー朝が終わったスコットランド

 

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イングランド女王のエリザベス1世には子供がおらず、1603年にエリザベス1世が亡くなるとテューダー朝は終わり、イングランド王の後継者を血縁のあるものから選ぶことになりました。

当時のスコットランド王はジェームズ6世で、祖母メアリー・ステュアートはヘンリー8世の姉マーガレットの孫で、イングランド王の継承権を持っていました。

こうして、1603年にスコットランド王ジェームス6世はイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝を始めました。


※メアリー・ステュアートはスコットランド女王で、エリザベス1世の暗殺陰謀を疑われ処刑された

※ その後のイングランド王はステュアート朝の血縁であることが、条件となっています

 

ピューリタン革命、名誉革命

ピューリタン革命

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ステュアート朝のジェームズ1世と息子のチャールズ1世のとき、国王の権力を強めた独裁的な絶対王政を行いました。
プロテスタントのピューリタン(清教徒)は議会が支持し、国王はピューリタンを弾圧します。

1637年にピューリタンを支持するスコットランドで反乱が起き、イングランドでも1642年にピューリタンが革命を起こしました(ピューリタン革命、(清教徒革命))。
チャールズ1世は処刑され、プロテスタントのオリバー・クロムウェルが政治の中心人物となりました。


王不在の中で権力を握ったクロムウェルは、王党派とカトリックを討伐する口実で、1649年にアイルランドに軍を進め、大量虐殺と土地の没収を行い、アイルランドを征服し、植民地化しました。

アイルランドではクロムウェルへの恨みを残す形となり、その後独立運動が激しく展開される原因となりました。 
 
1660年にクロムウェルが亡くなると、チャールズ2世が即位し、「王政復古」します。
しかし、絶対王政とカトリックも復活し、再び国王と議会が対立しました。

 

名誉革命 


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チャールズ2世の息子、ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)の時にイングランド議会との対立はさらに深まりました。

議会はジェームズ2世の娘メアリーと夫のオランダ総督ウィレムを擁立し、1688年に名誉革命を起こしました。


ジェームズ2世はフランスに亡命し、メアリーはメアリー2世、ウィレムはウィリアム3世として共同でイングランド王となりました。

この名誉革命で、事実上スコットランドの独立は終焉し、1707年に合同法によってスコットランドはイングランドと合同して、グレートブリテン王国となりました。

 

しかし、アイルランドのカトリックはウィリアム3世を国王と認めず、ジェームズ2世を支援しました。ジェームズ2世はアイルランドで挙兵し、ウィリアム3世は軍を率いてアイルランドへ上陸し1690年にボイン川の戦いが起こりました。

ジェームス2世のアイルランドとフランスの連合軍は、ウィリアム3世の率いるイングランド軍に破れ、アイルランドのプロテスタント支配は強化されました。


その後・・・ 

 

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1800年に合同法を成立させ、1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとにグレートブリテン王国に併合されて、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国となりました。

1931年:アイルランド独立戦争が発生。アイルランド自由国を建国し連合王国から分離
1949年:イギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国とする。
※プロテスタントが過半数を占める北アイルランド6州は現在もイギリス(United kingdom)の一部となっています。

 

中世の前半編👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

最後まで読んでくださり有難うございました。

 

※参考記事 

イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

分かりやすいスコットランドの歴史概要

 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで~

分かりやすいアイルランドの歴史概要 

「イギリス」の正式名称と名前の由来、イングランド、スコットランド、ウェールズの違い

 

 

分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

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こんにちは、たなかあきらです。

中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら独自の歴史を持っています。

・ローマ帝国の支配
・アングロ・サクソン人の侵略
・ノルマン人の侵略

によって影響を受けながら、大きく変化していく様子を時代の流れに沿って、分かりやすくお話いたします。
細かい話は極力しないようにしていますので、大まかな流れをつかんで頂ければありがたいです。(くわしくは参考記事を参照ください)

ローマ帝国支配時代

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もともとグレートブリテン島やアイルランド島には先住民が住んでいましたが、紀元前数世紀頃に大陸からケルト系民族が侵略し移住を始めました。

 

紀元43年に、グレートブリテン島はローマ帝国に侵略され、北部を除く部分は支配下にありました。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドはまだ形勢さていませんでしたが、大まかに次の3つの領域に分かれていました。

・グレートブリテン島の北部:カレドニア(またはピクトランド)と呼ばれピクト人が住んでいました

・北部を除く部分:ブリタニアと呼ばれケルト系のブリトン人が住んでいました

・アイルランド:ヒルベニアと呼ばれケルト系のゲール人が住んでいました

 

ローマ帝国の支配はブリタニアが中心でスコットランド(アントニヌスの城壁より北)やアイルランド島にはローマ帝国の支配力は及びませんでした。
(ローマ帝国の支配は、現在のイングランド、スコットランド南部、ウェールズになります)

※ローマ支配下にあったブリタニア(赤色の部分)

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410年にローマ軍が撤退し事実上のローマ帝国支配が終わると、5世紀半ばごろからヨーロッパ大陸より、アングロ・サクソン人が侵略を開始しました。

これによって、(アイルランド島を除く)ブリテン島の勢力範囲は大きく変わっていきました。

  

アングロ・サクソンの到来と勢力拡大 

イングランド王国の成立


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アングロ・サクソン人はゲルマン系の民族で、アングル人、サクソン人、ジュート人のことを指します。アングロ・サクソン人は、現在のドイツ北部にあるユトランド半島の付け根付近に住んでいました。

 

5世紀半ばに、ローマ帝国の支配がアングロ・サクソン人たちは北海を越えてグレートブリテン島に侵入し、アングロ・サクソン七王国を作ったのです。

 

5世紀半ば頃には、ケルト系のブリトン人が住む領域はグレートブリテン島の大半を締めていましたが、8世紀初めごろまでには、アングロ・サクソン人はケルト人を西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を侵略しました。

西に追いやられた部分が後のウェールズとなり、北で独立を保った部分が後のスコットランドになります。

 

 

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<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで

 


 「アングル人の土地」の意味からイングランドの名前がうまれ、9世紀にイングランド王国に統一されました。代表的なアングロ・サクソン人七王国は以下となります。

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8世紀初めのアングロ・サクソン諸国 The Anglo-Saxon Kingdoms AD 700より

 

825年、ウェセックスのエグバート王がマーシアを撃破し勢力を伸ばし、マーシアは衰退しました。
更にエグバート王は、マーシアだけでなくコーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配しました。事実上初代のイングランド王とされます。

 参考👉イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

 

スコットランド王国の成立


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 中世初期の頃のスコットランドを簡単に描いてみると、3つの区域に分けられます。

・ピクトランド(Pictland:ピクト人)・・・北部一帯
・ブリタニア(地図中のAltClut、Gotoudin付近:ブリトン人)・・・南部一部
・ダル・リアダ(Dal Riada:スコット人)・・・西部一部

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これらの国々は、イングランドを形成したアングロ・サクソン人の侵略を殆ど受けることがなく、独自の文化を形成しました。  

・ブリテン島北部のピクトランドに住んでいたのはピクト人です。

・スコットランドの南部、ブリタニアの一部に住んでいたのがケルト系のブリトン人です。

ブリトン人は古代に大陸から移住したと言われおり、紀元前後から5世紀中頃までは、ピクトランドを除くグレートブリテン島の大部分に、ブリトン人は住んでいました。

・500年頃から出現したのがダル・リアダです。

グレートブリテン島から海を隔てたアイルランドに住んでいたスコット人(ゲール人)が、紀元500年ごろから海を渡って現在のスコットランド西海岸に侵略し勢力を伸ばしていき、ダル・リアダ王国を作りました。

 
843年ダル・リアダ王国のケネス一世が、ダル・リアダ王国と近隣国を統一して、スコットランド王国が成立しました。

※参考👉スコットランドの歴史 スコットランド王国成立の超概要

 

ウェールズ王国の建国

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かつてはブリトン人がグレートブリテン島の大部分を支配していましたが、アングロ・サクソン人によるイングランドの出現で、領土は西の一部に追いやられてしまいました。(水色の部分)

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※700年ごろのブリテン島。緑色のイングランドにほぼ占領されてしまった。 

 

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この西部のわずかな領土が、後のウェールズになります。

5世紀の中頃に、ブリトン人のキネダ・アプ・エダンが北ウェールズにグウィネズ国(現在のグウィネズ州)を建国し、ウェールズ王室を設立しました。

これが、現在のウェールズの原形と言われています。

その後、ウェールズはアングロ・サクソン七王国の国々の侵略によって、領土を狭めていきました。

 

アイルランドの状況

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アイルランド島は、ローマ帝国の支配も受けず、アングロ・サクソン族の侵略の影響も受けませんでした。
このため、6世紀に聖パトリックが布教活動をしたカトリック教会がアイルランドに広がり、独自の修道院文化が発達しました。
聖パトリックが布教したカトリックは、アイルランドだけでなくヨーロッパ各国に広がりました。この活動の影響でアイルランド人がスコットランドに移り住みダル・リアダ王国を作ったきっかけになったと考えられます。

アイルランドでは、8世紀末までは平穏が続き、学問が盛んに行われました。

 

ヴァイキングの襲来

イングランドのヴァイキング支配

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8世紀終わり頃から、スカンディナヴィア半島やデンマーク付近からヴァイキングと呼ばれるノルマン人やデーン人たちが、西ヨーロッパ諸国に襲来し、略奪行為や侵略をうけるようになりました。

最も深刻な影響を受けたのが、イングランドでした。793年にイングランド北東部のリンディスファーン寺院が襲撃されたのを皮切りに、デーン人たちが何度も襲来して、領土も奪っていきました。

デーン人はイングランドの中央部にデーンローと呼ばれる領土を確保し、その広さはイングランドの約1/3程にまで拡大しました。

一時は、アルフレッド大王などの活躍によりヴァイキングの領土を奪回しましたが、その後は再びデーン人の勢力が増し、1013年のスヴェン王を初めにクヌート大王など、約27年ほど、デンマーク王がイングランド君主も兼ねて支配しました。

イングランド君主一覧 - Wikipedia

 

アイルランドとウェールズへヴァイキング襲来

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スカンディナヴィア半島からのヴァイキングはアイルランドやウェールズに攻撃を加えました。

アイルランドには9~11世紀に襲来し、沿岸部を一時的に支配しましたが、イングランドとは異なり領域的な支配は行われず、アイルランドの交易を盛んにしました。

ウェールズにもアイルランドを拠点としたヴァイキングが度々攻撃を仕掛け沿岸部分は打撃を受けたりしましたが、領土を奪われたりすることはありませんでした。

参考👉ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々

 

ノルマン人の侵略・征服

 

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1066年、アングロ・サクソン族の国イングランドはフランスから侵攻したノルマン人によって征服されました(ノルマン征服)。

そしてノルマンディー公ギョーム2世がウィリアム1世としてイングランド王となり、その後イングランドを支配しました。

ノルマン人たちはイングランド征服にとどまらず、さらに支配を広げようとしました。
そして、12世紀になるとノルマン人の侵攻が、ウェールズやアイルランド、さらにはスコットランドにも及んできました。 

 

※参考👉 イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣

 

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ノルマン人たちはイングランドに領土を持つだけでなく、もとはフランス貴族のためフランスにも領土を持っていました。
12世紀のヘンリー2世の時代には、イングランド王の所有地は最大となり、フランス領土とイングランド領土を合わせて広大な領土を持ちました(アンジュー帝国と呼ばれた)
ヘンリー2世はウェールズに侵略し領土を広げようとし、またアイルランドにも支配力を伸ばしていきました。

※参考👉名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景

 

アイルランドへの支配

 
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12世紀までに、アイルランドは大小様々な王国に分かれていました。その中の王国のひとつにレンスターがありました。

アイルランドの一国であるレンスター王ダーマック・マクモローは、ローリー・オコナーによって国外に追放されていました。

ダーマック王は王国を取り戻すためにノルマン人たちの協力を得て、1169年にレンスター国を奪回しました。

ダーマック王はノルマン人貴族のリチャード・ド・クレアを養子にして後継者としましたが、イングランドのヘンリー2世が反発し、アイルランド侵攻を始めたのです。

そして、ノルマン人たちに忠誠を誓わせ、1117年に領土を支配下に置きました。
こうして、アイルランドのノルマン人によるイングランド支配が始まりました

 

そしてヘンリー2世は、息子のジョン王にアイルランド太守の称号を与え、ジョン王は中央政府を組織しました。
1250年頃には、イングランド勢力はアイルランド島の4分の3に及ぶまでになりました。
 
しかしジョン王はフランス領土の多くを失い国内では悪政をつづけ、イングランド貴族たちの不評を買いました。そして、イングランド王の権力を低下させるマグナカルタ憲章を制定しました。


参考👉マグナカルタ ジョン王が作りたくなかった大憲章

 

ウェールズの支配・征服


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ウェールズでは、12世紀からイングランド軍の侵攻だけでなく、ウェールズ国境付近のイングランド領主(マーチャー・ロード)がウェールズに侵略して、自分の領土を広げていました。
ジョン王の時代には、ラウェリン王がウェールズでは権力を持っていましたが、ジョン王はラウェリンの権力を封じ、ウェールズの大半の領土を奪いました。
しかし、マグナカルタによりジョン王に奪われた領土はウェールズに返却され、ラウェリン大王は再び権力を取り戻し、過去に奪われた領土もイングランドに攻め入るようになりました。
しかし、ラウェリン王が亡くなった後はウェールズ内で後継争いがおこり、さらにイングランドからも再び侵略を受けて弱体化しました。
1292年にプリンス・オブ・ウェールズであったラウェリン・ザ・ラスト王がエドワード2世に敗北して処刑され、ウェールズはイングランドに征服されました。

スコットランドの支配

 
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11世紀後半のスコットランド王マルカム3世はアングロサクソン人のマーガレットを妻としました。
このため、封建制度を取り入れアングロサクソン文化が広がって行きました。
 
13世紀になるとイングランドが執拗にスコットランドへ侵略する様になりました。スコットランドは、ことごとくイングランドに敗戦し窮地に追い込まれました。
 
スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスが立ち上がり、イングランドに対抗しました。
庶民派のウォレスはイングランド軍を破り破竹の勢いでしたが、スコットランドの貴族階級の支持を得ることが出来ず、イングランド王エドワード1世に敗れ勢いを失い、捕らえれ処刑されました。
 
その後、スコットランド王ロバート1世はバノックバーンの戦いでイングランド軍を破り、1320年にスコットランドの独立を手にしました。
 
ところが、ロバート1世の後、イングランド軍に敗戦し、スコットランドの独立が弱まっていきました。

※参考👉ウィリアム・ウォレスはなぜスコットランドの英雄なのか

 

つづく

最後まで読んでくださり有難うございました。

 

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分かりやすいアイルランドの歴史概要

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ダブリン城

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こんにちは、たなかあきらです。
今回はアイルランドの歴史の概要を分かりやすくお話します。

アイルランド島はグレートブリテン島の西側に位置します。
ヨーロッパ大陸から移住したケルト系文化とカトリック信仰の独自文化を持っていますが、長い間イングランドの支配を受けていました。

18世紀以降は独立運動が起き、20世紀に自治が復帰しましたが、北部はイギリスにとどまっています。

【ダブリン発】アイルランドの大自然「モハーの断崖」で壮大な絶景を!

 

アイルランドの歴史の超概要

アイルランドのごく簡単な歴史概要を年表で表しました。
この順にお話をしていきます。

・先史時代:紀元前8000年頃~
(ケルト民族が侵入する以前。旧石器&新石器時代)

・古代 :紀元前数世紀頃~5世紀初め頃
(ケルト民族の支配がはじまる)

・独自のカトリック信仰:5世紀初め頃~8世紀頃
 (多神教からキリスト教へ)

・ヴァイキングの侵略:8世紀~11世紀

・ノルマン人侵攻:12世紀~14世紀

・イングランド支配減衰:14世紀~15世紀
・イングランド支配:16世紀~19世紀
 ヘンリー8世、クロムウェル、ウィリアム3世の支配、

・アイルランド独立運動~独立:19~20世紀

先史時代の歴史(紀元前8000 - 紀元前 数世紀頃

 先史時代のアイルランドの歴史を簡単に年表で表します。
・紀元前7000年以上前(旧石器時代):アイルランド島に人々が移り住む
・紀元前4000年頃(新石器時代):農耕が始まる
・紀元前2,500年頃:青銅器文化
・紀元前1,200年頃:金の装飾品や武器を作るようになる
・紀元前600年:鉄器時代が始まる

この頃アイルランド島に住んでいた人々は、ヨーロッパ先住系(北欧、バルカン半島に多い)ハプログループI (Y染色体で碧眼で金髪)に属す人々と考えられます。

ハプログループI (Y染色体) - Wikipedia

 

古代の歴史(紀元前 数世紀頃~5世紀初め頃)

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ヨーロッパ大陸からケルト人がアイルランド島にやってきたのは、紀元前600~150年頃です。北西ヨーロッパのケルト系民族(ゲール人)がアイルランド島に侵略し、先住民たちを征服しました。

※時代ははっきりしないがグレートブリテン島にもケルト系民族が侵略していた(アイルランドよりも前の時代と考えられる)
 

当時のヨーロッパは、ローマ帝国や中央ヨーロッパのゲルマン民族が勢力を広げており、ケルト系民族は彼らに追われる形で西へと移動しました。

ゲール人たちは家父長制の小王国を形成していましたが、次第に権力を誇る王国に統合支配されました。

 

※400年頃のアイルランド島は6程の王国に分かれていました

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ローマ人たちはアイルランドをヒベルニアと呼んでいました。
西暦43年にローマ帝国はブリタニア(北部を除くグレートブリテン島)を征服し、410年にローマ軍が撤退するまで支配をつづけました。
アイルランドはローマ帝国に支配されることはありませんでしたが、ローマ文化の絵一興は大きな影響を受けました。

 

独自のカトリック信仰の広がり(5世紀初め頃~8世紀頃)

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聖パトリック像(ウィキペディアより)

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アイルランド島ではいくつかの王国に分かれて内乱を繰り返していました。これらの王国を実質的に支配していたのは、ドルイドの僧侶たちでした。


※ ドルイドはケルト社会の最上位階級をしめて、王にもまさる精神的権威を認められていました。宗教と魔術、裁判や教育、病気の治療などの役割をになっていました。

 

このドルイド社会からキリスト教の社会に変化していきます。
アイルランドにカトリック教会のキリスト教を伝えたのは、5世紀ごろの聖パトリック(パトリキウス)です。

聖パトリックは現在のウェールズでクリスチャンの家庭に生まれましたが、海賊に拉致されアイルランドに奴隷として売られました。その後、脱出してウェールズに戻り、ヨーロッパで神学を学びました。
そして、432年に再びアイルランドを訪れ
布教活動を続け、ローマ教会からアイルランドの司教として認められたと言われています。

 

 

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アイルランドでは独自の修道院文化が発達し、古典の筆写や研究が盛んに行われました。西ヨーロッパのキリスト教国のなかでアイルランドは修道院が教会を支配した唯一の国です。 

6世紀~7世紀にかけて、アイルランドの修道院は学びの中心地であり、聖クルンバや聖コルンバヌスなどの宣教師を、ヨーロッパ各地に送り出していました。

この頃のヨーロッパは、戦乱、疫病、政情不安定などが続いた暗黒時代(Dark Ages)でしたが、アイルランドは宗教、著書、アートなどが発達した黄金の時代でした。

アイルランドではヴァイキングが8世紀末に侵略するまで、平穏が続き、学問が盛んに行われました。

 

※聖パトリックは今でもアイルランドの守護聖人とされ、命日の3月17日はセント・パトリック・デー (St.Patrick's day)で、アイルランドの国民的祝日となっています。

※アイルランドはカトリック信仰が根強く、現在でもイングランドの新教徒(国教会)とは対立しています。

 

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500年頃から、アイルランドからスコット人(アイルランド人のことをスコット人と呼んでいた)が海を渡り、スコットランドの西岸部に侵略してダル・リアダ王国をつくりました。

さらに843年にダル・リアダ国王のケネス1世はアルバ王国を合わせて、スコットランド王国を建国しました。
このように、中世前期のアイルランドとスコットランドには深い関係がありました。

 

参考記事
👉スコットランドの歴史 スコットランド王国成立の超概要

 

ヴァイキングの襲来(8世紀末~11世紀頃)

 

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9~11世紀にかけて、アイルランドは北欧のヴァイキングの侵攻を受け、ダブリンなどの港を占領されました。


9~12世紀の西ヨーロッパではヴァイキングが猛威を振るっていました。

イギリス、フランス等を中心に各地を襲い殺掠、略奪を繰り返し西ヨーロッパ諸国を広く支配するようになりました。

参考記事
👉ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々

 

1014年にアイルランド上王、ブライアン・ボルー王がヴァイキングを打ち破った後は、アイルランドの脅威は縮小していきました

ヴァイキングはアイルランドの沿岸部を一時的に支配しましたが、イングランドとは異なり領域的な支配は行われず、アイルランドの交易を盛んにしました。

アイルランドを拠点として、イングランド西岸やウェールズに攻撃をしたヴァイキングたちもいました。

ブライアン・ボル - Wikipedia

 

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※図中のスカンジナヴィアン・ヨークの領域

図はEngland and Wales AD 900-950より

 

ノルマン人の侵攻(12世紀~14世紀初め頃)

 

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1066
年、アングロ・サクソン族の国イングランドはフランスから侵攻したノルマン人によって征服されました(ノルマン征服)。ノルマン人たちはイングランドにとどまらず支配を広げようとしました。

そして、12世紀になるとノルマン人の侵攻がアイルランドにも及んできました。

 

参考👉イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣

 

12世紀までに、アイルランドは大小様々な王国に分かれていました。その中の王国のひとつにレンスターがありました。

レンスター王ダーマック・マクモロー(Dermot  MacMorrough)は、新たな上王ローリー・オコナー( Rory O'Connor)によって国外に追放されていました。ダーマック王は王国を取り戻すためにノルマン人の協力を得ました

 

1167年にノルマン人リチャード・フィッツゴッドバード・デ・ロシュRichard fitz Godbert de Roche)がアイルランドに上陸しました。そして、

1169年にウェールズおよびフランドルからのノルマン軍がダーマック王に協力し、レンスター王国を奪回し、ダブリンとウォーターフォードがレンスター王の支配下となりました。

 

ダーマック王はノルマン人貴族のリチャード・ド・クレアを養子にして後継者としましたが、イングランドのヘンリー2世が反発しました。

イングランド以外にノルマン人の勢力ができることを懸念し、ヘンリー2世はアイルランド侵攻を始めたのです。

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アイルランド王ダーマック

 

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1171
年にヘンリー2世はイングランド王として初めてアイルランドに上陸。ノルマン人達に忠誠を誓わせ領土を支配下におきました。

 

そしてヘンリー2世は、息子のジョン王にアイルランド太守の称号を与え、ジョン王は恒久的な中央政府を組織しました。

ヘンリーはウォーターフォードとダブリンを王領都市として宣言し、息子ジョンにアイルランドの支配権(Lord of Ireland, アイルランド卿)を与えました。

ジョンが兄リチャード1世を後継してイングランド王となると、アイルランドもイングランド王国の支配下となりました。

 

イングランド国王の支配下にあるノルマン人たちは領土を拡大して要塞を築きました。1250年頃には、イングランド勢力はアイルランド島の4分の3に及ぶまでになりました。

(ダブリン城)

1300年頃のノルマン人の支配領域(薄い黄色の部分)ウィキペディアより

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イングランドの支配後退(14世紀~15世紀)

 

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このように1213世紀にかけて、アイルランドではイングランド支配が進みました。

しかし、14世紀になるとイングランドの支配力は低下していきました。

 

ノルマンによるイングランド支配に対する、アイルランド人(ゲール人)たちの抵抗が始まりました。

1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)が反イングランドのアイルランド人を味方にしてアイルランド王に推され、アイルランドに侵攻しました。

結果的にエドワードは敗北しましたが、この戦乱を利用して、アイルランド人たちは立ち上がり、イングランドに奪われた土地を取り戻しました。

 

また、イングランド自体も変化していました。イングランドはヘンリー6世のときに、フランスとの百年戦争で敗れて最終的にフランス領土の大部分を失い、さらにイングランド王の継承権をめぐって、イングランド王室内でばら戦争が起きていました。

 

これらアイルランド人たちの抵抗や、イングランド王権の弱体化により、イングランドが支配する領域と、アイルランドが支配する領域と2分するほどになりました。

 

※黒死病

1348年にペスト(黒死病)がアイルランドに上陸し、都市部の人口を激減させました。アイルランド人は田舎に住んでいましたが、ペストが流行した都市部ではノルマン人が多く住んでおり、多数の犠牲者を出しました。

 

イングランド支配(16世紀~19世紀) 

ヘンリ8世のアイルランド支配

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イングランドはアイルランドの王権を保持していましたが名目だけで、アイルランド人伯爵が総督となり事実上アイルランドを治めていました。

イングランドではばら戦争が集結し、ヘンリー7世がテューダー朝をはじめ、息子のヘンリー8世の時代には、中央集権や絶対王政が強まっていました。
そして、イングランドの目は再びアイルランドに向き始めました。

ヘンリー8世はカトリックのローマ教皇と対立し、プロテスタント(国教会)を設立するなど宗教改革を行ったイングランド王のヘンリ8世は、1541年に自身がアイルランド国王となることをアイルランド議会に承認させました。

アイルランドは独立した国ですが、イングランドの支配を受けることになり、イングランドからの移民も盛んに行われるようになりました。

 

ヘンリー8世はプロテスタントをアイルランドにも強要しましたが独自のカトリックが根強いアイルランドには国教会はなかなか浸透しませんでした。

宗教的な対立や、イングランド支配に対する抵抗により、アイルランドでは反乱が続きました。

しかし、1603年にアルスターはイングランドに敗北して植民地となり、カトリックのアイルランド人は追放されてしまいました。

 

※アルスター(現在の北アイルランド)にはイングランドやスコットランドから移住が盛んにおこなわれ、宗教や生活様式が他とは異なりました。これが北アイルランド問題の起源となります。

 

 参考記事👉イングランド王 ヘンリー8世 6人の妻たちへの悪事と功績

 

クロムウェルのアイルランド征服(1649年)

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イングランドでピューリタン革命により権力を握ったクロムウェルは、王党派とカトリックを討伐する口実で、1649年にアイルランドに軍を進め、大量虐殺と土地の没収を行い、アイルランドを征服し、植民地化しました。

 

アイルランドではクロムウェルへの恨みを残す形となり、その後独立運動が激しく展開される原因となりました。

参考:ピューリタン革命 - Wikipedia

 

ウィリアム3世のアイルランド征服

 

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1688
年、イングランドでは名誉革命が起きました。

カトリック派のイングランド王ジェームズ2世は、議会の反発に会い、王位を追われてフランスに亡命しました。代わりに議会はプロテスタントのオランダ総督オラニエ公ウィレム3世を擁立し、ウィリアム3世として即位しました。

 

しかし、アイルランドのカトリックはウィリアム3世を国王と認めず、ジェームズ2世を支援しました。ジェームズ2世はアイルランドで挙兵し、ウィリアム3世は軍を率いてアイルランドへ上陸しました。

 

1690年にボイン川の戦いが起こり、ジェームス2世のアイルランドとフランスの連合軍は、アム3世の率いるイングランド軍に破れ、アイルランドのプロテスタント支配は強化される結果となりました

カトリックに対する刑罰法(Penal Laws)はこれまでよりも増して厳しくなりました。

参考:名誉革命 - Wikipedia

 

イングランドによる併合(1801年)

 
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アメリカ合衆国の独立(1776年)、フランス革命(1789)の影響を受けて、アイルランドでも独立運動が始まりました。

これに対し、グレートブリテン王国は独立運動を抑えるためにアイルランドの併合に動きました。

1707年にイングランド(ウェールズを含む)とスコットランドが合わさって成立した王国

 

1800年に合同法を成立させ、1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとにグレートブリテン王国に併合されて、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国となりました。

 

アイルランド自由国の建国・独立~

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アイルランドの多くのカトリック教徒は差別され、イギリス支配に対する不満が強くなりました。

 

19世紀:アイルランド独立運動がおこる

1922年:第一次世界大戦後にはアイルランド独立戦争が発生しました。

英愛条約による講和によって、南部・西部アイルランドの26地方がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国から分離して自治国(1931年に独立国)となり、アイルランド自由国を建国しました。(イギリス連邦を構成する1国)

プロテスタントが過半数を占める北アイルランド6州は現在もイギリス(United kingdom)の一部となっています。

 

1937年:名称をアイルランド(エール)と変えました。
1949年:イギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国とする。北部のアルスターを除くカトリック地域を統治する。(エールの名前も残されています)

 

アイルランド国旗:緑はカトリック、オレンジはプロテスタント、白は両者の和解と友愛を象徴しています。

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※参考記事

<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで
分かりやすいスコットランドの歴史概要 
イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

「イギリス」の正式名称と名前の由来、イングランド、スコットランド、ウェールズの違い



 

アマゾン(Kindle Unlimited)で読み放題で読める歴史漫画 ~西洋史11選~

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こんにちは、たなかあきらです。
歴史に興味はあるのだけれど、専門書を読むのはちょっときついよな、と思いませんか?
漫画でストーリーを楽しみながら、気軽に歴史に触れることが出来るととても嬉しいですよね。更に、お手軽な価格で読めれば、最高ですね。

今回は、アマゾンのKindle Unlimitedで読み放題で読める西洋史の歴史漫画をピックアップしました。

漫画が描かれている歴史的な背景や漫画の簡単なあらすじをご紹介いたします。

※読み放題で読むにはkindle Unlimitedの会員登録が必要です
👉Kindle Unlimited会員登録

 

アレクサンドロス

紀元前4世紀に大帝国を建設したアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)の物語です。マケドニア王のアレクサンドロスは前334年に東方遠征を開始し、小アジア、エジプトを制し、前330年にペルシア帝国を征服しました。

前323年に病に倒れ33歳の若さでバビロンで死去し、その後帝国は後継者によって分割統治されました。 

アレクサンドロス (文春デジタル漫画館)

アレクサンドロス (文春デジタル漫画館)

 

 この巻だけの読み切りとなります。

世界の歴史がわかる本<古代四大文明~中世ヨーロッパ>

世界の歴史が漫画で良く分かるシリーズです(全3冊) 
この古代四文明~中世ヨーロッパの目次は下記です。

・第1章 前4000~前1100頃 古代文明のあけぼの 
・第2章 前330頃 ソクラテスとアレクサンダー 
・第3章 前70~480頃 ローマ帝国の興亡 
・第4章 前500~前200頃 仏教の誕生と秦・漢帝国 
・第5章 8~15世紀頃 中世ヨーロッパ世界の展開 
・第6章 3~8世紀 三国時代から唐の繁栄へ 
・第7章 12~13世紀 モンゴル帝国とジンギス=ハン 
(アマゾンより)

 

※全三冊中2冊はKindle Unlimited の読み放題です

マンガ 世界の歴史がわかる本〈古代四大文明~中世ヨーロッパ〉篇 (知的生きかた文庫)

マンガ 世界の歴史がわかる本〈古代四大文明~中世ヨーロッパ〉篇 (知的生きかた文庫)

 

【マンガ】世界の歴史がわかる本<大航海時代?明・清帝国>篇

 

こちらは読み放題対象外:
【マンガ】世界の歴史がわかる本<フランス革命?二つの世界大戦>

 

ジャンヌ

フランスの「ロレーヌの少女」ジャンヌ。祖国を救うため男装して参戦し、1428~29年のオルレアン包囲戦でフランス軍を奇跡的な勝利へ導き英雄となりました。この勝利が、英仏百年戦争で窮地に立たされていたフランスを救ったのです。

しかし、敵対するイングランド川に捕らえられ、魔女の汚名を着せられ、火あぶりの刑に処せられてしまいました。

それから10年・・・・

一人の少女がジャンヌの幻を追って、歴史の荒波へと立ち向かっていく。
ロレーヌ公爵の娘として生まれながら男子として育てられたエミールは、ジャンヌと運命の糸で結ばれていた。

成長したエミールは、ジャンヌの幻影に導かれるように、フランスを救うため旅立つのだった。
(アマゾンより)

ジャンヌ (文春デジタル漫画館)

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 この巻だけの読み切りとなります。

 

 

ガーター騎士団

14世紀のイングランドで、フランスとの100年戦争の時代。騎士道に傾倒し、ガーター騎士団の創設したエドワード3世と、それに疑問を持つ息子のエドワード黒太子がいました。

騎士道とは何か?騎士団創設から、スペイン海軍との戦い、フランスとの歴史的な戦いなど、各地を転戦する様子を、黒太子の苦悩やエドワード3世との関係を通して描かれています。

ガーター騎士団(Knights of the Garter)とは、1348年にイングランド国王エドワード3世が黒太子と24人の騎士をウィンザー城に集めて創設し、現在まで続いています。エドワード3世が「アーサー王と円卓の騎士」の故事に基づいて創設した、と言う説もありますよ。

 

・Splendour of King・・・全6巻
・Knights of the Garter・・全2巻
👉ガーター騎士団 -Knights of the Garter- 1巻

全てKindle Unlimitedで読み放題です。 

ガーター騎士団 -Splendour of King- 1巻

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イエス 

救世主、悪魔つき、煽動家、それとも只の人──。「イエス」とは一体、何者だったのか?
(アマゾンより)

 

イエスはヨルダン川のほとりで、「悔い改め」を説いていたヨハネから洗礼を受ける。試練の後、イエスは弟子ら(12使徒)と宣教活動を開始した。

しかし、「神の子」や救世主と名乗った罪により、イエスはユダヤの裁判にかけられる。そして、ローマ政府に引き渡され後に、磔の刑に処せられた。

 

病人を治し、死者を甦らせるなど数々の“奇蹟”を起こすイエスの周りには、多くの崇拝者が集まるが、その中にヨシュアという若者がいた。イエスは自らの死を予感しつつ、聖地エルサレムへと向かう。イエスに心酔するヨシュアは、師を助けようとして事件を巻き込まれ、イエスと一緒に磔にされてしまう──。

(アマゾンより)

 

イエス (文春デジタル漫画館)

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 この巻だけの読み切りとなります。

 

※イエス関連のkindleUnlimited こちらもどうぞ

👉救世主(メシア)―人類を救いし者 「聖書新共同訳」準拠〈新約聖書 1〉 (みんなの聖書・マンガシリーズ 1)

👉マンガで読む名作 聖書?福音書の世界?

 

 

我が名はネロ

ネロはローマ帝国の第5代皇帝(在位54~68年)。当初は哲人セネカらの協力で善政をしていましたが、妻や母を殺害するなど残忍・暴君へと化していきました。

64年のローマ大火をキリスト教徒の罪として迫害するなど暴政は反乱を招き、ローマを脱出して自殺しました。

紀元1世紀、実母・アグリッピナの計略により16歳にしてローマ帝国を手に入れた皇帝ネロ。
家庭教師セネカの指導のもと、安定した治世を敷く一方で、正妻の側女・アクテを寵愛し、奴隷の剣闘士・レムスを側に置くなど奔放な生活を送っていた。


肉欲にふけり自分から離れていくネロに、母・アグリッピナは激しく干渉するが、
ネロはさらに反発。そしてある恐ろしい計画を企てる――

(アマゾンより)

 
全2巻でいずれもKindle Unlimitedで読み放題です
我が名はネロ 1 (文春デジタル漫画館)

我が名はネロ 1 (文春デジタル漫画館)

 

 

 

ラファエロ-その愛

 

ラファエロ・サンティは、レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロと並ぶルネサンスを代表するイタリアの画家・建築家です。
「椅子の聖母子」「アテネの学堂」「サンピエトロ大聖堂」などが代表作です。


芸術は己の情熱で神の意志を表現することだ。芸術は哲学だ…。

レオナルド先生もミケランジェロ先生もそれぞれ素晴しい。

しかし、私は私自身の表現を築かなくてはならない…。ルネサンスの天才画家ラファエロの生涯を描く。

 (アマゾンより)

ラファエロ―その愛

ラファエロ―その愛

 

 

 

クレオパトラ

 

クレオパトラ(クレオパトラ7世:在位 紀元前51年~前30年)はエジプトのプトレマイオス王国の最期の女王です。

「絶世の美女」として知られています。

ローマ帝国のカエサル(シーザー)やアントニウスの後ろ盾を得ますが、カエサルは暗殺され、アントニウスもアウグストゥスに敗れ、クレオパトラも自殺してプトレマイオス王国は断絶しました。 

真の女王となりエジプトの平和を守るため、ローマ最大の将軍シーザーを愛したクレオパトラ。

愛息シザリオンを得て、その願いを果たせる幸せをかみしめる日々だった。

しかし、突然のシーザーの死によって、クレオパトラの愛の放浪が始まる! 
(アマゾンより)

 

クレオパトラ

クレオパトラ

 

 

こちらの読み放題もどうぞ
👉世界女帝列伝 クレオパトラ 1

 

 

白のフィオレンティーナ

絢爛たるルネサンスが花開く、16世紀フィレンツェ。

女は画家になれない時代にあってなお、白い聖母を描く一人の少女がいた。

ミケランジェロやラファエロなど当代随一の天才の心を奪う少女・フィオレンティーナの夢と情熱、そして恋の軌跡とは…!? 
戸川視友が描く大河ロマネスク!!

(アマゾンより)


少女フィオレンティーナは架空の人物ですが、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴインチ・・・・更には、ルクレチア・ボルジア、カール5世、法王ユリウス2世など、歴史上の偉人たちが多数登場し、この時代や絵画に興味のある方はとても楽しめると思います。

 

全23巻。いずれもKindle Unlimitedで読み放題です。

白のフィオレンティーナ(1) (冬水社・いち*ラキコミックス)

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鏡よ鏡: クレメンス・メッテルニヒ伝

クレメンス・フォン・メッテルニヒは、オーストリア帝国の政治家です。
オーストラリアの外相、ウィーン会議を主宰、オーストリア宰相を歴任し、ナポレオン戦争後の国際秩序であるウィーン体制を支えました。

 

クレメンス・フォン・メッテルニヒ - Wikipedia

19世紀前半の欧州大陸を支配し、「ヨーロッパの宰相」と呼ばれたクレメンス・メッテルニヒの知られざる内面を描く。

ナポレオン戦争末期、互いに反目し離反の危機にある対仏連合軍にあって、メッテルニヒはある人物の到着に期待を寄せていた。

彼の待つ人物とは?後に終生の友情を築き、ヨーロッパの平和と秩序を支える礎になった二人の偉大な政治家の、出会いと別れの物語の序幕。

 (アマゾンより)

鏡よ鏡: クレメンス・メッテルニヒ伝

鏡よ鏡: クレメンス・メッテルニヒ伝

 

  

B(ベー)ブラームス20歳の旅路

ヨハネス・ブラームスは、19世紀ドイツの作曲家、ピアニスト、指揮者です。
バッハ(、ベートーヴェンと共に、ドイツ音楽における三大B(ベー)とも称されます。

ブラームス:交響曲第1番 ~ 第1楽章

ブラームス:交響曲第1番 ~ 第1楽章

  • アレクサンダー・ラハバリ & ベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団
  • クラシック
  • provided courtesy of iTunes

 

19世紀半ばのドイツ。
若きヨハネス・ブラームスとエドゥアルト・レメーニは二人で音楽修行の旅に出る。

ドイツ音楽の正統派を目指すヨハネスは、自由奔放なレメーニに自分にない魅力を見出し、自らの道を模索していく。 
(アマゾンより)

 

全3巻でいずれもKindle Unlimitedで読み放題です。

B(べー)ブラームス20歳の旅路 (1)

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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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中世ウェールズで唯一全国統一を成し遂げた王 ミートボールの逸話

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こんにちは、たなかあきらです。

長い中世ウェールズの歴史を見渡しても、ウェールズの全土をほぼ治めることができた人物は、数名程度しかいません。

さらに、全国を完全に統一できた人物はと言いますと・・・・

紀元前から、ウェールズがイングランドに征服される13世紀末まで見ても、わずか1人しかいません。

 

その一人とは、グリフィズ・アプ・ラウェリンという人物です。しかし、グリフィズの若い頃は、でくの棒のようで無用に生きていました。

 

今回は、戦乱時代のウェールズに生きたグリフィズの生涯について簡単にお話を致します。

 

目の覚めた虚け者と言われたプリンス 


11世紀のウェールズは、ウェールズ北部(グウィネズ)とウェールズ西部(デハイバース)、ウェールズ南部(モルガンウィグ)に分かれており、ウェールズ北部とウェールズ西部では、主導権を握る王室の家系や人物がコロコロ変わっていました。

 

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この戦国の様なウェールズ北部に、グリフィズと呼ばれる少年がいました(Gruffydd ap Llywelyn)

グリフィズの父ラウェリンはウェールズ北部のグウィネズを統治していましたが、グリフィズが16歳頃の時に父が亡くなり、領土は別のウェールズ王室のイアゴに奪われてしまいました。

領土を奪われたグリフィズの家族は、母の祖国である隣国のポウィスに逃れて暮らしました。

 

※グリフィズはハウェル・ザ・グッドの子孫であるウェールズ王室の家系
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※イアゴは、イドワル・ヴォエルの子孫であるウェールズ王室の家系

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※この時代の詳細はこちらの記事をご覧ください
👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです

 

 

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なるほど~。母の祖国に逃れて援軍を集め、報復攻撃をする狙いですね

  

 

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やられたらやり返す、奪われたら奪い返すのが、戦乱時代の常識。しかし、グリフィズには国を取り返そうという意気込みは全くありませんでした。
僕は争いはまっぴらごめんと、無能で怠惰な青年期をダラダラと送っていました。

 

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むむむ、これじゃあグリフィズの親類もフラストレーションが溜まりますよね。

 

 

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何度言っても動こうとしない「ウェールズのうつけ者」
に、姉からとうとう愛想を尽かせてしまいました。

将来、国をしょって歩むどころか、グリフィスはポウィスの家から追い出され、勘当されてしまいました。

  

 

 

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行くあてもないグリフィズ
は、流浪生活を送らざるを得ませんでした。お腹もすいて途方に暮れたグリフィズは、ある日とある村を歩いていたときに、料理の良い匂いがしてきました。

お腹を空かせたグリフィズはその匂いにつられて行きました。

 

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まさかプリンスが、村民の料理をつまみ食い?? 

 

 

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グリフィズは料理をしている村人の家の中をのぞき込みました。そこで村人は、なべを使って肉団子をぐつぐつと煮ており、何やら文句を言っていました

 

「やっかいな肉団子だ!この1つのミートボールだけ何度鍋に入れても、飛び出してきやがる!!」

その飛び出るミートボールを見てグリフィズは、はっと我に返りました。

 

 

 

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何か悟ってしまったのでしょうか?

 

 

「俺は底に沈んだ肉団子になってはダメだ。あの飛び出してくる肉団子の様に、やられてもやられても、敵に抵抗して父の国を取り戻さないと・・・煮え切らない生活を送っていてはだめだ・・・・

 

 

 

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この肉団子鍋が転機となって、グリフィズはぐうたら生活をやめ、ポウィス国に戻り兵力を蓄え反撃のチャンスをうかがったのです

そしてチャンスは訪れました。グリフィズが32歳ごろの時に(1139年)、宿敵のイアゴが部下に暗殺された隙を突いて、グウィネズ国を奪回しました

 

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ついにやりましたね、グリフィズ。

※ここまでの年表
・1007年頃:グリフィズが産まれる
・1023年:父ラウェリンが没し、イアゴに国を奪われて国外へ脱出する
・1039年:アベルファラウ家で統治者のイアゴが内乱で暗殺された隙を突いて、グウィネズを奪った。グウィネズの支配下にあったポウィスも治めた

 

勢いに乗り領土の拡大を狙うも・・・

 

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ウェールズの北部を奪回したグリフィズは、今度は南西部に勢力を広げようともくろみました。

ウェールズの南西部はデハイバース(DEHEUBARTH)と呼ばれる国がありました。1043年に、勢いに乗るグリフィズはデハイバースを攻撃し、統治者のハウェルを追い出して、デハイバースとハウェルの妻を奪い取りました。

 

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妻まで奪われたハウェルは黙っていませんでした。1044年にデンマークのヴァイキング(デーン人)の助けを借り船団で反撃に出たのです。

 

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恐ろしい~ヴァイキング・・・

 

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当時のヴァイキングは最盛期だったと思います。デンマークのヴァイキング、クヌート大王などがイングランドを征服していた時期です。

しかし、グリフィズはヴァイキングの助けを借りたハウェル軍を打ち破りました。ハウェルは戦死し、グリフィズはデハイバースの領土を守ったのでした。

 

 

 

 

 

新たな敵の出現~全国統一へ

 

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南部のウェールズでも情勢は大きく変わろうとしていました。

従来の南東部は小さな国々に分かれていましたが、リデルヒが出現してからは統合されてモルガンウィグになりました(Morgannwg)。

リデルヒは勢力を拡大しようと考え、息子のグリフィズが西部のデハイバース(Deheubarth)に攻め混んできたのです。

 

※モルガンウィグは地図中南部の海に面した国 

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グリフィズはリデルヒの息子に攻められ敗北し、デハイバースから追いだされてしまいました。翌年の1048年、グリフィズはデハイバースを奪回しようと何度も反撃を試みるましたが、失敗に終わってしまいました。

 

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新たな敵の出現!それも手ごわし!グリフィズの気も休まりませんね~ 
グリフィズはどんな手段に出たのでしょうか?

 

 

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敗れたグリフィズはあきらめませんでした。虚けと言われた若いころとは大違いです。グリフィズはウェールズ国内の協力ではなく、国外に目を向けました。

 

1055年にイングランドのマーシア伯エルファガーの協力を得て、リデルヒの息子に攻撃を加え、ついにデハイバースを取り戻しました。

勢いに乗ったグリフィズは軍を東方に進め、1058年に宿敵リデルヒの地であるモルガンウィグなどを奪い去ったのでした。

 

こうしてグリフィズ・アプ・ラウェリンは、長いウェールズ中世の歴史において、ウェールズ全域を支配した唯一の人物となりました。

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グリフィズ・アプ・ラウェリンのウェールズ統一(1039年~1058年)

 

 

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グリフィズの活躍を振り返ると、「肉団子(ミートボール)さまさま」ってことですね

 

最後に:グリフィズの年表と功績

・1007年頃:グリフィズが産まれる
・1023年:父ラウェリンが没し、イアゴに国を奪われて国外へ脱出する
・1039年:アベルファラウ家で統治者のイアゴが内乱で暗殺された隙を突いて、グウィネズを奪った。グウィネズの支配下にあったポウィスも治めた

・1043年:デハイバースのハウェルを攻めて追い出して、デハイバースを奪い取った。

しかし、妻まで奪われたハウェルはデンマークのヴァイキングの助けを借り船団で反撃に出た。

・1044年:ラウェリンはハウェルを撃破して殺害し、デハイバースの領土を再び奪い取った


・1047年:モルガンウィグのリデルヒの息子にデハイバースを奪われる
・1048年:何度もモルガンウィグに対抗するもデハイバースを奪回できず

・1058年:イングランドの協力を得てモルガンウィグを破り、ウェールズを統一
・1063年:グリフィズ没

 

1062年に同盟を結んでいたマーシア伯のエルファガーが亡くなると、翌年の1063年にイングランド王ハロルド2世は弟トスティグとウェールズに侵略を開始しました。

グリフィズは北ウェールズのスノードニア山脈に逃亡しましたが、一説によると1039年にグリフィズが雪辱を晴らしたイアゴの息子コナンに殺害されたそうです。

 

グリフィズは「ウェールズ全土を支配した唯一のウェールズ王」でした。グリフィズが全国を統治したわずかな期間は、争いもなくウェールズに平和がもたされました。

 

1066年にハロルド2世は、フランスのノルマン人ギョーム2世に攻撃されて戦死し、イングランドもギョーム2世に征服されたのでした(ノルマン征服)。

その後、ウェールズもノルマン人の侵略を受けるようになったのです。

 

今回とその後の時代の流れ:
👉<改訂版>第5章 興味深い!中世ウェールズはまるで南北朝+戦国+下剋上のようです

👉<改訂版>第6章 プリンス・オブ・ウェールズの登場とノルマン・イングランドとの激しい戦いの結末

 

ウェールズについて

👉ウェールズの歴史が面白いと言われている4つの理由!

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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