イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

ウェールズ王室分裂の始まり(Aberffaraw家とDinefawr家の創立)

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9世紀に北ウェールズのロドリ大王はウェールズの小国を束ねて、初めて大部分のウェールズを支配下に置きました。

ウェールズの結束を強めるためには、息子たちに早めに領土を継承して基盤を固めることが必要だと、考えました。

当初はうまく機能しましたが、ロドリ大王の思惑はうまく行かず、ウェールズ王室の分裂へとつながっていきました。この詳細についてお話いたします。

👉ロドリ大王の功績

>>ロドリ大王(Rhodri the Great)中世ウェールズで初めて小国を束ねた王

👉この時代の背景
>><改訂版>第4章 ウェールズに大王が登場し天下を統一した時代 

 

ウェールズの三国強化

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中世ウェールズは南東部を除くと、主にグウィネズ(Gwynedd)、デハイバース(Deheubarth)、ポウィス(Powys)の三国がありました。

 

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9世紀頃には、ウェールズはアングロサクソン族の国ウェセックスやマーシア、ヴァイキングから攻められて苦しい状況でした。

 

ウェールズ全体が団結して国力を高め、幾度となく攻めてくる敵に一団となって立ち向かい、ウェールズを守っていかなければならない状況でした。

 

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ロドリ・ザ・グレート

 

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グウィネズ(Gwynedd)、デハイバース(Deheubarth)、ポウィス(Powys)の三国を統治していたロドリ大王(Rhodri the Great)にはアナラウド、カデル、メルヴァンの3人の息子がいました。

長男のアナラウドにはウェールズの中心的な存在であるグウィネズ(Gwynedd)、次男のカデルには西のデハイバース(Deheubarth)、三男のメルヴァンには中央のポウィス(Powys)を分け与え、アナラウドを中心にウェールズの結束を固めさせました。

 

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しかし、アングロサクソン七国の一国であるマーシアは、878年にセオルウルフ王(Ceowulf)がロドリ大王に攻撃してきました。一度は脱出しましたが、再びマーシアに攻められた際に、ロドリ大王は戦死してしまいました。

 

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これに対して、ロドリの3人の息子たちは結束を強めて抗戦し、881年にマーシア軍を撃退しました。(コンウィの戦い、Battle of Conwy)
この戦いは、「ロドリのための神の復讐」と呼ばれ、3兄弟は「ブリテンの三王」と呼ばれるまでになりました。


ウェールズ内の領土争いで対立する兄弟たち

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ロドリ大王のかたき討ちに成功した3兄弟でしたが、徐々に結束は弱まっていきました。 

・長男のアナラウドは欲が深い野心家で、しかし嫉妬心が深い
・次男のカデルも野心を燃やすが、父譲りの聡明なところがあり人望もある
・三男のメルヴァンはひ弱で曖昧な人物

と推測しています。

 

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人一倍、領土拡大の野心を燃やすアナラウドは、カデルの存在がとても邪魔であったのだろうと考えられます。
当時、アングロ・サクソン七王国の中で最大の勢力を持っていたウェセックスのアルフレッド大王と手を結び、カデルのデハイバース国を攻撃して侵略・略奪をしました。

 

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これに対してカデルも反撃し、アナラウド軍を押し戻し、元の国境付近にまでに達しました。この勢いに乗ったカデルは、三男メルヴァンのポウィスを攻め領土を奪ってしまいました。

こうしてあっけなく3兄弟の結束は崩れてしまました。

アナラウドとカデルの対立が深まって、ウェールズは再び内乱がはじまり弱体化していきました。

  

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アナラウドはその後も領土拡大にこだわり、デハイバース以外のウェールズ南東部の国々も執拗に攻めるようになり、ウェセックスからも危険人物視されていきます。

そこで、アナラウドに攻められたカデルは、この時はウェセックスの力をうまく利用し
アルフレッド大王に忠誠を誓って同盟を結び、アナラウドを攻めて滅ぼしました。

 

 

 

 

 

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こうして、ウェールズの王室は、アナラウドを創始者とする家系をアバファラウ家、カデルを創始者とする家系をディナヴァウル家に分裂し、今後お互いが覇権を争っていくことになるのです。

 

👉ロドリ大王の功績

>>ロドリ大王(Rhodri the Great)中世ウェールズで初めて小国を束ねた王

👉この時代の背景
>><改訂版>第4章 ウェールズに大王が登場し天下を統一した時代 

 

物語 ウェールズ抗戦史 ケルトの民とアーサー王伝説 (集英社新書)

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ウェールズ語原典訳マビノギオン

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ロドリ大王(Rhodri the Great)中世ウェールズで初めて小国を束ねた王

 

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中世ウェールズは主に4つの国に分かれていましたが、1つの国も多くの国に分かれてそれぞれの領主が統治していました。というのも、中世ウェールズでは財産や領土は領主の息子達で均等に分ける事がしきたりでした。

このため、10世紀までウェールズが統一される、または大部分が統一されることは、ありませんでした。

今回は、初めて10世紀に初めてウェールズの大部分を統一した王、ロドリ大王について紹介します。


👉ここがロドリ大王のポイント! 
・初めてウェールズの大部分を統一
・平和的に権力を拡大
・ヴァイキングの攻撃を撃破

 

ロドリ大王の血筋


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ロドリ大王の本名は、ロドリ・アプ・メルヴァンと言います。中世ウェールズでは、自分の名前の後に親の名前を付けるのが習わしで、メルヴァンの息子ロドリ、という意味になります。

父メルヴァンはマン島出身で、母方にウェールズ王室(北ウェールズのグウィネズ国)の血筋を持っていました。それまでのウェールズの王室は直系で継承されてきましたが、メルヴァンの時代に直系が途絶え、新たな血筋によるウェールズ王室が始まりました。


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メルヴァンはウェールズ内の内乱に終止符を打ち、アングロ・サクソン族の攻撃(マーシア)を食い止め、北ウェールズを立て直した功績を残しました。

844年にメルヴァンが亡くなると、息子のロドリが北ウェールズの国グウィネズの統治を後継しました。

 

 

>>参考記事:<改訂版>第4章 ウェールズに大王が登場し天下を統一した時代 

ロドリ大王の勢力拡大

 

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※Gwynedd、Powys、Seisyllwgの緑色3つがロドリ大王が治めたウェールズの領土(南西部の小国群を除く。ウィキペディアより)

 

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ロドリ大王の時代は、東側はアングロ・サクソン族の強国マーシアと国境をなしており、マーシアからの侵略がづついていました。また、ヴァイキングが襲来し始めた時代で、イングランドだけでなくウェールズも攻撃を受けていました。

このことから、小国に分かれてバラバラしていたウェールズをまとめて、外敵から国を守る必要が生じており、ロドリ大王は行動に出たのではと考えられます。

 

ポウィスを支配下に置く

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ロドリ大王は当初北部のグウィネズ(Gwynedd)のみ統治していました。855年には隣国ポウィス(Powys)も支配下に入れました。

ポウィスはカンゲン王(Cyngen)が統治していましたが、カンゲン王はロドリ大王の伯父にあたり、カンゲン王の妹はロドリ大王の母親でした。ウェールズ法ではカンゲン王の息子が後継するのが風習でしたが、カンゲン王はロドリ大王を後継者にしました。

855年にカンゲン王が亡くなると、ロドリ大王がポウィスを後継して領土を拡大しました。カンゲン王はよほどロドリ大王を頼りにしていたのではと考えられます。

 

セイサルウィグを支配下に置く

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更にロドリ大王は872年に南西の国、セイサルウィグ(Seisyllwg)支配下に置きました。当時、セイシルウィグはグワゴン(Gwgon)と言う人物が治めていました。

ロドリ大王は850年頃に、グワゴンの妹アングハラドと結婚し、セイサルウィグと同盟関係を築きました。

残念ながらグワゴンには息子がなく、872年に亡くなると、ロドリがセイサルウィグの領土を後継することになりました。

こうしてロドリは戦うことなく平和的にウェールズの大部分の領土を統一することに成功したのです。

   

ロドリ大王とヴァイキングとの戦い

 

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ロドリ大王の像(ウィキペディアより)

 

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当時のグレートブリテン島は、デンマークやスカンジナヴィア半島から、ヴァイキングが侵略し、イングランドでは領土を広げていました。9世紀から10世紀にかけて、北ウェールズでも、特に沿岸付近はヴァイキングの侵略に悩まされていました。

 

ロドリ大王の時代は、デンマーク出身の頭領ゴルムに率いられたヴァイキングに荒らされていました。そして、856年にこれまでの中で最も大規模なヴァイキングの襲撃が起きました。ゴルム(Gorm)が自ら軍を率いて、ウェールズに攻め込んできました。

 

 

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ロドリは自国グウィネズだけでなく、支配下にあったポウィスと同盟関係にあったセイサルウィグとも協力してウェールズの力を結集させたと考えらえます。

ロドリ軍はヴァイキング軍と果敢に戦い、ヴァイキング軍を壊滅させました。この戦いで、ヴァイキングの首領ゴルムは戦死したとも言われています。

ヴァイキングに苦しんでいたアングロサクソン諸国からも大いに喜ばれました。

 
この戦いの後も、略奪行為や小さな争うはあったものの、ヴァイキングがウェールズを侵略して領土を支配することはありませんでした。

 

>>ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々

 

 

 

ロドリ大王のウェールズの強化策

 

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強敵を抑えたロドリは、ウェールズ内の国づくりにも尽くしました。

安定した国が続くように、ロドリは生きているうちに息子たちに国を分配して、ウェールズ各地の強化と結束を図りました。

長男アナラウドを筆頭にグウィネズ(Gwynedd)、次男カデルにはセイサルウィグ(Seisyllwg)、三男メルヴァンにはポウィス(Powys)を与えて、協力してウェールズを統治させようとしました。

 

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こうしてロドリ大王から領土を受け継いだ、アナラウド、カデル、メルヴァンの息子たちはお互い協力しあい、「ブリテン島の三王」と呼ばれるほど、名をとどろかせました。

しかし、877年にマーシアのセオルウルフ王(Ceowulf)の攻撃を受け、ロドリ大王は戦死してしまいました。

 

 

ヴァイキングを倒しウェールズの大部分を統一したロドリ大王の功績は大きく、ロドリ大王(Rhodri the Great)と呼ばれ、後のウェールズの王室においてロドリ大王の子孫であることが、血筋の正統性を主張する上でポイントとなりました。

 

>>参考記事:<改訂版>第4章 ウェールズに大王が登場し天下を統一した時代

 

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ローマ軍を破ったウェールズ王Eudaf Hen(エウダヴ・ヘン)の勇敢な行動

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時代はローマ帝国の支配下にあった、4世紀のウェールズ。

ウェールズの首長であったエウダヴ・ヘン(Eudaf Hen、オクタヴィウス(Octavius)とも呼ばれる)はローマ帝国に反乱を起こし、ローマ総督や新たに送られてきたローマ軍を破り、ブリタニア王を宣言する荒業にでました。

このエウダヴ・ヘンの反乱について紹介いたします。

👉時代背景はこちら
<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア

 

エウダヴ・ヘンの反乱の原因はコンスタンティン1世

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コンスタンティン1世

 

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4世紀初め、ブリタニア王および西ローマ皇帝であったコンスタンティン1世(Constantine the Great)は、324年に東ローマ帝国の王も引き継ぎ、全ローマ皇帝となりました。

もはやコンスタンティン1世はブリタニアの統治に直接かかわることが出来なくなり、ブリタニアを後にし、ローマの地方総督をブリタニア王として派遣しました。

これに対して、ウェールズ付近の首長であったエウダヴ・ヘン(Eudaf Hen)は、下級総督が王となったことに、「ブリタニアは見下された」と反乱を起こしました。

※それまではローマ皇帝またはそれに匹敵する身分の人物がブリタニア王となっていました。

 

エウダヴの勝利と敗北

 

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エウダヴの反乱軍はローマ地方総督を殺害し、エウダヴはブリタニア王を宣言しました。

しかし、これに対しコンスタンティン1世はエウダヴの反乱を鎮圧しようと、大叔父のトラヘルン(Trahern)を送り込みました。

エウダヴとトラヘルンの最初の戦いは、当時の首都であったウィンチェスター郊外でした。勢いに乗るエウダヴはこの戦いでも勝利し、トラヘルンはスコットランドに脱出しました。

※スコットランドにはローマ軍が駐在するカーライルとハドリアヌスの長城がある

 

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トラヘルンを追ってエウダヴ軍も北上し、両軍はカーライル郊外のウェストモーランドで再び戦いました。

Westmorland - Wikipedia

体勢を立て直したトラヘルン軍にエウダヴ軍は完敗し、エウダヴはブリタニアから脱出せざるを得ませんでした。

こうして、エウダヴの反乱はトラヘルンによって一旦は鎮圧され、トラヘルンはブリタニア王を宣言しました。

 

エウダヴの逆襲

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ブリタニアを脱出したエウダヴはノルウェーに逃れ、グンベルト王(King Gunbert of Norway)に助けを求めました。エウダヴはノルウェーで反撃のチャンスをうかがっていました。

ところが、ブリタニアで エウダヴを支持する人々は、ロンドン郊外で密かにトラヘルンを急襲、暗殺しました。

トラヘルンが殺害された情報を得たエウダヴは急きょブリタニアに戻り、ローマ軍を蹴散らし、再度ブリタニア王を宣言しました。

 

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こうして、ローマ軍からブリタニアを奪回したエウダヴは、大きな名声と地位を得ることが出来たのです。

 

ブリタニアとローマの和解

 

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マグヌス・マクシムス

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ブリタニア王となったエウダヴには大きな懸念がありました。ローマ帝国が本気になって、ブリタニアを奪回しに攻めて来ることです。

このため、エウダヴは美しい娘エレンをローマ帝国の幹部と政略結婚させ、ブリタニアの安泰を図ろうとしました。

エレンと結婚した相手は、エウダヴ・ヘンの後継者となり、後に西ローマ帝国皇帝となったマグヌス・マクシムスでした。

 
 
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マグヌス・マクシムスはウェールズでマクセン王とも呼ばれ、マクシムスとエレンの結婚は「マクセンの夢」として物語となっています。
また、ブリタニア列王史によると、エウダヴ・ヘンはアーサー王の祖先とされています。(エウダヴの甥コナン・メリアドクはアーサー王の曾祖父)
 
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ローマ軍との戦いの勝利、またマグヌス・マクシムスとの関係や、アーサー王との関連などから、エウダヴ・ヘンはウェールズの歴史においても、キーマンであると言えるでしょう
 
マビノギオン―中世ウェールズ幻想物語集

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ブリタニア列王史―アーサー王ロマンス原拠の書

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アーサー王と共通点の多い中世ウェールズの王たち

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中世初め頃、北部ウェールズ(グウィネズ)の王たちを見ると、アーサー王自身やアーサー王物語に登場する場面と、とても似た人物や出来事が多くあります。

それぞれを説明いたします。

👉おススメ記事
・アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた
・6人のアーサー王を追え! (ウェールズ歴史研究会)

アーサー王と関連深い北ウェールズ王家の家系図

 

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5世紀~6世紀にかけての北ウェールズの王室の家系図を示します。赤字は関連するアーサー王物語の登場人物を表しています。

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①エイニオン・イース(ウーサー王との共通点)

 

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ウェールズ王室の創始者のキネダには、8人の息子がいました。その中で、エイニオンが最も優秀だったため、全体の統治者を後継しました。

エイニオンの正式名はEinion ap Cuneddaですが、イース(Yirth)というあだ名がついていました。(イースとは、ウェールズ語で「せっかち」という意味です)

このYirthというあだ名は、アーサー王の父ウーサー(Uthur)にも似ていますし、Arthurにも似ています。もし、エイニオン・イースが、ドラゴンのついた兜をかぶっていたとしますと、

Yirth・pen・dragon(イース・ペン・ドラゴン)となり、ウーサーを連想しますね。

 

②カドワロン・ロングハンド(クラデルマント王)

 

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エイニオンの後は、カドワロン(Cadwallon ap Einion)が後継しました。カドワロンには長い手(Long Hand(ウェールズ語でLawhir))というあだ名がついており、長い手を活かし、身体を曲げずに足元の石を拾いカラス(敵)をやっつけたと言われています。つまり、優秀な戦士だったようです。

アーサー王物語にアーサー王が王になった頃に、11人の王たちがアーサー王に反逆した場面がありました。

その中の1人にクラデルマント王がおり、カドワロンがモデル人物になっていると言われています。(後にクラデルマント王はアーサー王と和解し共に戦った)

👉クラデルマント王について
アーサー王物語の登場人物「クラデルマント王」の実在人物

 

③オワイン・ダントグウィン(アーサー王?)


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兄ロングハンドとともにグウィネズの領土を拡大してきたのがオウァイン(Owain ap Einion)です。

オウァインにはダントグウィン(Ddantgwin、白い歯(White tooth)の意味)のあだ名を持っていました。

活躍をしたオウァインは兄の後継者に選ばれていましたが、それを不服に思ったロングハンドの息子マエルグウィンでした。
2人は北ウェールズの、カムランの谷で激突し、オウァインはマエルグウィンに敗北して戦死しました。そして、マエルグウィンが王になりました。

 
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オウァインのあだ名である「白い歯」は「白く煌めく剣」とも読み取れ、エクスカリバーを連想させます。
また「カムランの谷」とは、アーサー王とモルドレッドが戦ったカムランで、「甥のマエルグウィン」とはモルドレッドではないか、とも想像がつきます。
つまり、オウァイン・ダントグウィンは、一戦士であったアーサーのモデルになったのでは?とも考えれます。

👉オワイン・ダントグウィンの記事
アーサー王と多くの共通点を持つオワイン・ダントグウィン 

 

④マエルグウィン・グウィネズ(100人の騎士の王、モルドレッド)

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カムランの谷の戦いで叔父オワインを倒して、北ウェールズの王になったのがマエルグウィン(Maelgwyn ap Cadwallon)です。マエルグウィンは勢力を広げ、当時のブリタニアの中では大きな権力を持ったことから、マエルグウィン・グウィネズ(Maelgwyn Gwynedd)とも呼ばれています。

 

マエルグウィンは、強力な騎士「百人の騎士の王マラグウィン」の モデルとされ、父カドワロンと共にアーサー王物語の中にも登場しています。

また、マエルグウィンは叔父オワインとカムランの谷で戦った状況から、モルドレッドのモデルになったとの説もあります。

👉マエルグウィンに関する記事
アーサー王物語の登場人物「百人の騎士の王」の実在人物 

 

⑤クネグラシス(アーサー?)

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オワイン・ダントグウィンの息子に、クネグラシス(CuneglasusまたはCynlas ap Owain)がいました。クネグラシスについては殆ど分かっていませんが、Goch(赤の意味)のあだ名があり、レッドドラゴンを連想させます。

また、熊というあだ名(Arth)を持ち、北ウェールズのディン・アース(Din Arth)に住んでいたことから、アーサー王を連想しますね。

 

最後にまとめ


ご紹介しましたように、中世のウェールズの王たちは、アーサー王物語とも深い関係があり、とても興味深いです。

ウェールズの歴史を知っていただくと、さらにアーサー王物語も楽しめると思います。


👉アーサー王時代の歴史背景
<改訂版>第2章 ローマが去りアングロ・サクソンとウェールズ王室がブリタニアにやってきた

👉おススメ記事
・アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた
・6人のアーサー王を追え! (ウェールズ歴史研究会)

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デーン朝~ノルマンコンクエストが起きた理由と歴史的背景

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11世紀初めにイングランドはデーン人に降伏し、デーン朝が始まりました。

また11世紀には、ノルマン人によってイングランドは征服され、ノルマン朝が始まりました(ノルマンコンクエスト)。

どのような歴史的な背景があり、イングランドはデーン人やノルマン人に支配されたのでしょうか。

時代の流れを分かりやすくお話いたします。

 

キーワード:エゼルレッド無思慮王、スヴェン2世、クヌート1世、エドワード懺悔王、ギョーム2世

 

👉おススメ記事
・ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々
・ヴィンランド・サガのモデル人物「ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン」の興味深い家系
・北海帝国を築き大王と呼ばれた「クヌート1世」の概要 

 

デーン朝とウェセックス朝の簡単な家系図

 

◆デーン朝の家系図(デンマーク王スヴェン1世の子孫)

四角で囲っているのはイングランド王になった人物です。

 

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◆ウェセックス朝の家系図(アングロ・サクソン系)

四角はイングランド王で、エゼルレッド2世の2番目の妻エマは、(上記の)クヌート1世の後妻。

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デーン朝が始まった背景(エゼルレッド無思慮王)

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エゼルレッド2世


イングランドの創立から長く続いていたウェセックス家(アングロ・サクソン系)のエゼルレッド2世(無思慮王)は、度重なるデーン人の襲来に困り退去してもらうために毎度大量の銀を支払いました(デーンゲルドと呼びます)

 

しかし、度重なる襲来に財政も厳しくなり、1002年にイングランドに在住するデーン人たちを大量虐殺してしまいました(聖ブライスの日の虐殺)

当時のデーン人の王は、デンマークやノルウェーを治めていたスヴェン1世でした。スヴェン1世はヨーム戦士団などを引き連れ、虐殺の復讐としてイングランドに襲来しまし、これまで以上にイングランドへの攻撃は激しくなりました。

 

デーン人の襲来はフランスのノルマンディーを拠点にしていました。このため、エゼルレッド2世は、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと政略結婚をして、デーン人たちの拠点化を防ごうとしました。しかし、なんの効果も得られませんでした。

 

またエゼルレッド2世はデーン人の襲来に対抗しようと、100隻もの大艦隊を作りました。しかし内輪もめが勃発し、有能な戦士ウルフノースは80隻の船を焼き尽くし、20隻の船を持って国外脱出しました。

 

この愚かな状況を見たスヴェン1世は大規模なデーン軍団をイングランドに送り込みました。1013年の襲来の際に、エゼルレッド2世はイングランドを放棄して、妻エマの実家であるノルマンディー公国に亡命してしまいました。

こうして、エゼルレッド2世に代わり、スヴェン1世がイングランド王となり、デーン朝が始まりました。 

 

エゼルレッドの復位~クヌート1世の誕生

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クヌート1世


ところが、イングランド王となったスヴェン1世は1か月ほどで亡くなってしまいます。これを見たエゼルレッド2世は喜んでイングランドに戻り、復位します。

しかし、人物的にも魅力のないエゼルレッド2世には、もはや権力は残っていませんでした。イングランドで有力者であったマーシア伯のエアドリックも寝返り、エゼルレッドは苦境に立たされていました。

この状況の中で、スヴェン1世の息子クヌート1世は1016年にイングランドに襲来し、再びデーン人にイングランドを奪われるのは秒読みの状況でした。

そのなか、1016年にエゼルレッド2世は病死しました。

 

クヌート1世は軍を率いて、イングランドの襲撃を始めました。ところが、エゼルレッド無思慮王は1016年に亡くなり、息子のエドマンド剛勇王(エドマンド2世)が王位を継ぎました。

 

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エドマンド2世(剛勇王)

 

エドマンド剛勇王は、父エゼルレッド無思慮王とは異なり行動的で武勇に優れていました。

エドマンド剛勇王はクヌート1世との4度の戦いでは、デーン軍を追い払いクヌート1世を手こずらせました。ところが、エドマンド剛勇王側の味方が逃亡したことを契機に、5度目の戦い(1016年:アシンドンの戦い)でエドマンド剛勇王はクヌート1世に屈しました。

 
エドマンド剛勇王はクヌート1世と休戦協定を結び、イングランドを二分して共同統治することを決めました。

しかし、戦いで受けた傷がもとでエドマンド剛勇王は亡くなってしまい、クヌート1世は唯一のイングランド王となり、デーン朝が復活しました。

 

※その後、クヌート1世はデンマーク王、ノルウェー王にもなり、強大な北海帝国を築きました。 

 

クヌート1世は1016年~1035年までイングランドを統治しました。
クヌート1世の統治下では、デーン人の襲来は無く銀を支払うこともなくなりました。また、クヌート1世はイングランドを4つの区に分け(アール:伯)、能力・実力のあるものはデーン人でもアングロ・サクソン人でも分け隔てなく、伯の位を与えて統治させました。このように、イングランドの人々はエゼルレッド無思慮王の時代よりも平和に暮らせました。

 

3代続いたデーン朝(スヴェン王を合わせると4代)

クヌート1世の統治は19年に及び1035年に亡くなると、妻エマは前夫エゼルレッド無思慮王との息子アルフレッドを王にしようと考えました。

しかし、クヌート1世の前妻との息子ハロルドがアルフレッドを暗殺して、イングランド王ハロルド1世となりました。

ハロルド1世はハロルド庶子王と呼ばれ、何もしない放蕩王でした。1040年にハロルド庶子王が亡くなると、クヌート1世とエマとの息子ハルタクヌートがイングランド王となりました。(デンマーク王も兼ねた)

ハルクタヌートは温厚な人物で、兄ハロルド庶子王の行為を詫び、次期のイングランド王は、義兄のエドワードを指名しました(エゼルレッド無思慮王と母エマとの息子)。

ハルクタヌートは1042年に若くして亡くなり、4代にわたったデーン朝は幕を閉じました。そして、久しぶりにアングロサクソン系のエドワードがイングランド王になりました。

 

誤算のウェセックス復朝

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エドワード懺悔王


こうして、久しぶりのウェセックス家(アングロサクソン系)からのイングランド王エドワードに、人々は歓喜しました。ところが、懺悔王と呼ばれたエドワードはイングランドの人々の落胆と反感を買いました。

エドワード懺悔王は、父エゼルレッド無思慮王がスヴェン1世に敗れフランスのノルマンディー公国に亡命していた時に産まれた子供でした。

エドワード懺悔王は25年もフランスに住んでいたため、英語は話せずフランス語を話しました。また、イングランドの重臣もノルマン人で固めてしまいました。

さらに、母の甥の息子ギョーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)とは子供のころから仲の良い親族でした。

エドワード懺悔王は、ギョーム2世に自分の次のイングランド国王をギョーム2世に約束したのです。

 

せっかくデーン朝が終了し、アングロサクソンによるイングランド統治が戻ってきたのに、これでは今度はノルマン人に国を乗っ取られたようだ、とエドワード懺悔王はイングランド内でとても不評でした。
(エドワード懺悔王はあまり政治の表舞台に出ることなく信仰に身を投じました(ウェストミンスター寺院を建設)

 

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ハロルド・ゴドウィンソン


エドワード懺悔王が1066年に亡くなると、イングランドの人々は真のアングロサクソン人による統治を望みました。そして、エドワード懺悔王の妻エディスの兄でウェセックス伯のハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王になりました。

 

怒ったギョーム2世、ノルマンコンクエストへ

 

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ウィリアム1世(ギョーム2世)


このハロルド2世のイングランド王戴冠に怒りを表したのが、エドワード懺悔王からイングランド王の後継を約束されていた、ノルマンディー公ギョーム2世でした。

ギョーム2世は、ハロルド2世のイングランド王や、ハロルド2世になってからノルマン人の教会司教などを排除してアングロサクソン人に事は、「教会法違反」であると訴えました。

そして、ローマ帝国アレクサンデル2世やドイツ国王ハインリヒ(神聖ローマ皇帝)に訴えは認められ、ギョーム2世は官軍として戦いを起こしました。

こうして1066年に、ギョーム2世が率いる官軍は1066年にドーバー海峡を渡りイングランド王国に侵入し、ハロルド2世をヘイスティングスの戦いで破り、イングランド王ウィリアム1世として、ノルマン朝を開いたのでした。

 

 

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エゼルレッド無思慮王(無策王) ヴァイキングに王位を奪われた王

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イングランド王のエゼルレッド2世(在位:978-1013、1014-1016)は、無思慮王や無策王という不名誉なあだ名がついています。

エゼルレッド2世はイングランドの歴史上、初めてヴァイキング(デーン人)に王位を奪われた王です。

エゼルレッド2世がどのように王位を奪われたのか、なぜ無思慮王(無策王)のあだ名がついたのか、についてご紹介いたします。

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無思慮王(無策王)の名が付いた理由

 

エゼルレッド無思慮王は度重なるデーン人の襲来に困り、簡単に退去してもらうために毎度大量の銀を支払いました(デーンゲルドと呼びます)

 

しかし、度重なる襲来に財政も厳しくなり、1002年にイングランドに在住するデーン人たちを大量虐殺してしまいました(聖ブライスの日の虐殺)

 

当時のデーン人の王は、デンマークやノルウェーを治めていたスヴェン1世でした。スヴェン1世はヨーム戦士団などを引き連れ、虐殺の復讐としてイングランドに襲来しました。

エゼルレッド2世の無思慮なデーン人虐殺は、逆にデーン人のイングランド侵略に拍車をかけるものとなってしまい、逆効果となりました。

 

このように、エゼルレッド2世はデーン人の襲来に対して何も策を立てず単に銀を支払い続け、浅はかにもデーン人を虐殺してしまったことから、無思慮王(無策王)の不名誉なあだ名がつきました。

 

※デーンゲルドとしてデーン人に支払った銀の総額は100トン以上で、現在の銀価格でも約70億円以上の高額となります。当時の貨幣価値が現在の5000倍と仮に考えると、とてつもない金額となります。

 

自分は亡命してイングランド王位を明け渡す

 

デーン人の襲来に対して2点だけ手を打ちましたが、しかし何の効果もありませんでした。むしろ、よりデーン人の襲撃を容易にしてしまいました。

・デーン人の襲来はフランスのノルマンディーを拠点にしていました。このため、エゼルレッド2世は、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと政略結婚をして、デーン人たちの拠点化を防ごうとしました。しかし、なんの効果も得られませんでした。

 

・デーン人の襲来に対抗しようと、100隻もの大艦隊を作りました。しかし、エゼルレッド2世は自分よりずっと優秀は息子アゼルスタンを疎ましく思い遠ざけました。家臣たちは、アゼルスタン派とエゼルレッド2世派に分かれて争い、アゼルスタン派の有能な戦士ウルフノースは80隻の船を焼き尽くし、20隻の船を持って国外脱出しました。

 

この愚かな状況を見たスヴェン1世は大規模なデーン軍団をイングランドに送り込みました。

1013年の襲来の際に、エゼルレッド2世はイングランドを放棄して、妻エマの実家であるノルマンディー公国に亡命してしまいました。

こうして、エゼルレッド2世に代わり、スヴェン1世がイングランド王となりました。

 

復位したエゼルレッドであるが

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ところが、イングランド王となったスヴェン1世は1か月ほどで亡くなってしまいます。これを見たエゼルレッド2世は喜んでイングランドに戻り、復位します。

しかし、人物的にも魅力のないエゼルレッド2世には、もはや権力は残っていませんでした。

 

一時期はイングランド側に金で雇われていた、ヨムスヴァイキング軍団のトルケル(Tokel the tall)はエゼルレッド2世を見限り、デンマーク側に戻っていました。また、イングランドで有力者であったマーシア伯のエアドリックも寝返り、エゼルレッドは苦境に立たされていました。

この状況の中で、スヴェン1世の息子クヌート1世は1016年にイングランドに襲来し、再びデーン人にイングランドを奪われるのは秒読みの状況でした。

そのなか、1016年にエゼルレッド2世は病死しました。

 

※その後、エゼルレッド2世の息子エドマンド剛勇王がイングランド王を継承し、果敢に戦い、クヌート1世を苦しめました。しかしついに敗れ、再びクヌート2世がイングランド王となりました(1016年)

 

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北海帝国を築き大王と呼ばれた「クヌート1世」の概要

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クヌート1世(Canute / Cnut / Knut I)は11世紀にイングランドを支配したデーン人の王です(995-1035)。

イングランド王だけでなく、デンマークやノルウェー王も兼ねて大王とも呼ばれ(北海帝国と呼ばれた)、大きな勢力を持ちました。

今回は、クヌート1世について、概要を分かりやすく簡単にご説明します。

 

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クヌート1世の家系

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クヌート1世はデンマーク王スヴェン1世の次男で、スヴェン1世は1013年にイングランド王エゼルレッド(無思慮王、無策王)を破ってイングランド王にもなりました。

 

クヌート1世の家系図を簡単に記します。 

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クヌート1世:イングランド王を奪取する

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1014年に父スヴェン1世が亡くなると、クヌート1世はイングランドを任されました。

しかし、イングランドにはスヴェン1世に敗れフランスに逃れていたエゼルレッド無思慮王は、イングランドに戻りまんまと王位に復帰していました。

このためクヌートは出直して、エゼルレッド無思慮王を退ける必要がありました。

 

クヌート1世は軍を率いて、イングランドの襲撃を始めました。ところが、エゼルレッド無思慮王は1016年に亡くなり、息子のエドマンド剛勇王(エドマンド2世)が王位を継ぎました。

 

 

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エドマンド剛勇王は、父エゼルレッド無思慮王とは異なり行動的で武勇に優れ、クヌート1世にとっては手ごわい相手でした。

クヌート1世は、4度エドマンド剛勇王と戦いますが、敗北または撤退を余儀なくされ、打ち破ることは非常に困難な状況でした。

ところが、エドマンド剛勇王側の味方が逃亡したことを契機に、5度目の戦い(アシンドンの戦い)でイングランド軍を打ち破りました。

 

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クヌート1世はエドマンド剛勇王と休戦協定を結び、イングランドを二分して共同統治することを決めましたが、戦いで受けた傷がもとでエドマンド剛勇王は亡くなってしまいました。

こうして、1016年にクヌート1世は唯一のイングランド王となりました。

 

クヌート1世:デンマーク王となる

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父スヴェン王が亡くなった後、故郷デンマーク王は兄ハーラルが継承していました。ところが、1018年に兄ハーラルが亡くなり、クヌート1世がデンマーク王を後継しました。

 

クヌート1世:スウェーデンを奪取し北海帝国を築く

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クヌート1世がイングランド王とデンマーク王となり権力を拡大しているのを恐れた、ノルウェー王のオラーフ2世がスウェーデン王と手を組み、クヌート1世を討つべくブリテン島の侵略計画を練っていました。

 

これに対しクヌート1世は迅速に情報をキャッチして先手を打ち、戦いで勝利をおさめ、オラーフ2世は戦死しました。その背景には、スヴェン1世が一時期ノルウェー王だった頃があり、まだ影響力が残っていたためノルウェーの人々はクヌートに味方したのでした。

こうして、クヌート1世はイングランド、デンマークに加えノルウェーの三国の王となり、北海帝国と呼ばれるようになりました。

 

イングランド王としてのクヌート1世の人気

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イングランドは自身のアングロ・サクソン政権ではなく、再び侵略してきたデーン人のクヌート1世に支配されました。
このことに対して、イングランドの人々はどう思ったのでしょうか?

 

実は、クヌート1世の父スヴェン1世の時代には、デーン人は頻繁にイングランドに襲来して略奪行為を繰り返していました。またデーン人たちに退却してもらうために、エゼルレッド無思慮王は襲来の度に大量の銀を支払い(デーン・ゲルドと言う)、財政も傾いていました。

デーン人のクヌート1世がイングランド王となれば、デーン人の襲来は無くなりますし、銀を支払うこともなくなります。

 

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クヌート1世は統治においても好評でした。

イングランドを4つの区に分け(アール:伯)、能力・実力のあるものはデーン人でもアングロ・サクソン人でも分け隔てなく、伯の位を与えて統治させました。

クヌート1世の統治時代は、エゼルレッド無思慮王の時代よりも平和に暮らせるので、イングランドの人々に受け入れられていたのでは、と考えられます。

 

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