イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

デーン朝~ノルマンコンクエストが起きた理由と歴史的背景

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11世紀初めにイングランドはデーン人に降伏し、デーン朝が始まりました。

また11世紀には、ノルマン人によってイングランドは征服され、ノルマン朝が始まりました(ノルマンコンクエスト)。

どのような歴史的な背景があり、イングランドはデーン人やノルマン人に支配されたのでしょうか。

時代の流れを分かりやすくお話いたします。

 

キーワード:エゼルレッド無思慮王、スヴェン2世、クヌート1世、エドワード懺悔王、ギョーム2世

 

👉おススメ記事
・ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々
・ヴィンランド・サガのモデル人物「ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン」の興味深い家系
・北海帝国を築き大王と呼ばれた「クヌート1世」の概要 

 

デーン朝とウェセックス朝の簡単な家系図

 

◆デーン朝の家系図(デンマーク王スヴェン1世の子孫)

四角で囲っているのはイングランド王になった人物です。

 

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◆ウェセックス朝の家系図(アングロ・サクソン系)

四角はイングランド王で、エゼルレッド2世の2番目の妻エマは、(上記の)クヌート1世の後妻。

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デーン朝が始まった背景(エゼルレッド無思慮王)

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エゼルレッド2世


イングランドの創立から長く続いていたウェセックス家(アングロ・サクソン系)のエゼルレッド2世(無思慮王)は、度重なるデーン人の襲来に困り退去してもらうために毎度大量の銀を支払いました(デーンゲルドと呼びます)

 

しかし、度重なる襲来に財政も厳しくなり、1002年にイングランドに在住するデーン人たちを大量虐殺してしまいました(聖ブライスの日の虐殺)

当時のデーン人の王は、デンマークやノルウェーを治めていたスヴェン1世でした。スヴェン1世はヨーム戦士団などを引き連れ、虐殺の復讐としてイングランドに襲来しまし、これまで以上にイングランドへの攻撃は激しくなりました。

 

デーン人の襲来はフランスのノルマンディーを拠点にしていました。このため、エゼルレッド2世は、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと政略結婚をして、デーン人たちの拠点化を防ごうとしました。しかし、なんの効果も得られませんでした。

 

またエゼルレッド2世はデーン人の襲来に対抗しようと、100隻もの大艦隊を作りました。しかし内輪もめが勃発し、有能な戦士ウルフノースは80隻の船を焼き尽くし、20隻の船を持って国外脱出しました。

 

この愚かな状況を見たスヴェン1世は大規模なデーン軍団をイングランドに送り込みました。1013年の襲来の際に、エゼルレッド2世はイングランドを放棄して、妻エマの実家であるノルマンディー公国に亡命してしまいました。

こうして、エゼルレッド2世に代わり、スヴェン1世がイングランド王となり、デーン朝が始まりました。 

 

エゼルレッドの復位~クヌート1世の誕生

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クヌート1世


ところが、イングランド王となったスヴェン1世は1か月ほどで亡くなってしまいます。これを見たエゼルレッド2世は喜んでイングランドに戻り、復位します。

しかし、人物的にも魅力のないエゼルレッド2世には、もはや権力は残っていませんでした。イングランドで有力者であったマーシア伯のエアドリックも寝返り、エゼルレッドは苦境に立たされていました。

この状況の中で、スヴェン1世の息子クヌート1世は1016年にイングランドに襲来し、再びデーン人にイングランドを奪われるのは秒読みの状況でした。

そのなか、1016年にエゼルレッド2世は病死しました。

 

クヌート1世は軍を率いて、イングランドの襲撃を始めました。ところが、エゼルレッド無思慮王は1016年に亡くなり、息子のエドマンド剛勇王(エドマンド2世)が王位を継ぎました。

 

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エドマンド2世(剛勇王)

 

エドマンド剛勇王は、父エゼルレッド無思慮王とは異なり行動的で武勇に優れていました。

エドマンド剛勇王はクヌート1世との4度の戦いでは、デーン軍を追い払いクヌート1世を手こずらせました。ところが、エドマンド剛勇王側の味方が逃亡したことを契機に、5度目の戦い(1016年:アシンドンの戦い)でエドマンド剛勇王はクヌート1世に屈しました。

 
エドマンド剛勇王はクヌート1世と休戦協定を結び、イングランドを二分して共同統治することを決めました。

しかし、戦いで受けた傷がもとでエドマンド剛勇王は亡くなってしまい、クヌート1世は唯一のイングランド王となり、デーン朝が復活しました。

 

※その後、クヌート1世はデンマーク王、ノルウェー王にもなり、強大な北海帝国を築きました。 

 

クヌート1世は1016年~1035年までイングランドを統治しました。
クヌート1世の統治下では、デーン人の襲来は無く銀を支払うこともなくなりました。また、クヌート1世はイングランドを4つの区に分け(アール:伯)、能力・実力のあるものはデーン人でもアングロ・サクソン人でも分け隔てなく、伯の位を与えて統治させました。このように、イングランドの人々はエゼルレッド無思慮王の時代よりも平和に暮らせました。

 

3代続いたデーン朝(スヴェン王を合わせると4代)

クヌート1世の統治は19年に及び1035年に亡くなると、妻エマは前夫エゼルレッド無思慮王との息子アルフレッドを王にしようと考えました。

しかし、クヌート1世の前妻との息子ハロルドがアルフレッドを暗殺して、イングランド王ハロルド1世となりました。

ハロルド1世はハロルド庶子王と呼ばれ、何もしない放蕩王でした。1040年にハロルド庶子王が亡くなると、クヌート1世とエマとの息子ハルタクヌートがイングランド王となりました。(デンマーク王も兼ねた)

ハルクタヌートは温厚な人物で、兄ハロルド庶子王の行為を詫び、次期のイングランド王は、義兄のエドワードを指名しました(エゼルレッド無思慮王と母エマとの息子)。

ハルクタヌートは1042年に若くして亡くなり、4代にわたったデーン朝は幕を閉じました。そして、久しぶりにアングロサクソン系のエドワードがイングランド王になりました。

 

誤算のウェセックス復朝

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エドワード懺悔王


こうして、久しぶりのウェセックス家(アングロサクソン系)からのイングランド王エドワードに、人々は歓喜しました。ところが、懺悔王と呼ばれたエドワードはイングランドの人々の落胆と反感を買いました。

エドワード懺悔王は、父エゼルレッド無思慮王がスヴェン1世に敗れフランスのノルマンディー公国に亡命していた時に産まれた子供でした。

エドワード懺悔王は25年もフランスに住んでいたため、英語は話せずフランス語を話しました。また、イングランドの重臣もノルマン人で固めてしまいました。

さらに、母の甥の息子ギョーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)とは子供のころから仲の良い親族でした。

エドワード懺悔王は、ギョーム2世に自分の次のイングランド国王をギョーム2世に約束したのです。

 

せっかくデーン朝が終了し、アングロサクソンによるイングランド統治が戻ってきたのに、これでは今度はノルマン人に国を乗っ取られたようだ、とエドワード懺悔王はイングランド内でとても不評でした。
(エドワード懺悔王はあまり政治の表舞台に出ることなく信仰に身を投じました(ウェストミンスター寺院を建設)

 

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ハロルド・ゴドウィンソン


エドワード懺悔王が1066年に亡くなると、イングランドの人々は真のアングロサクソン人による統治を望みました。そして、エドワード懺悔王の妻エディスの兄でウェセックス伯のハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王になりました。

 

怒ったギョーム2世、ノルマンコンクエストへ

 

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ウィリアム1世(ギョーム2世)


このハロルド2世のイングランド王戴冠に怒りを表したのが、エドワード懺悔王からイングランド王の後継を約束されていた、ノルマンディー公ギョーム2世でした。

ギョーム2世は、ハロルド2世のイングランド王や、ハロルド2世になってからノルマン人の教会司教などを排除してアングロサクソン人に事は、「教会法違反」であると訴えました。

そして、ローマ帝国アレクサンデル2世やドイツ国王ハインリヒ(神聖ローマ皇帝)に訴えは認められ、ギョーム2世は官軍として戦いを起こしました。

こうして1066年に、ギョーム2世が率いる官軍は1066年にドーバー海峡を渡りイングランド王国に侵入し、ハロルド2世をヘイスティングスの戦いで破り、イングランド王ウィリアム1世として、ノルマン朝を開いたのでした。

 

 

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エゼルレッド無思慮王(無策王) ヴァイキングに王位を奪われた王

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イングランド王のエゼルレッド2世(在位:978-1013、1014-1016)は、無思慮王や無策王という不名誉なあだ名がついています。

エゼルレッド2世はイングランドの歴史上、初めてヴァイキング(デーン人)に王位を奪われた王です。

エゼルレッド2世がどのように王位を奪われたのか、なぜ無思慮王(無策王)のあだ名がついたのか、についてご紹介いたします。

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無思慮王(無策王)の名が付いた理由

 

エゼルレッド無思慮王は度重なるデーン人の襲来に困り、簡単に退去してもらうために毎度大量の銀を支払いました(デーンゲルドと呼びます)

 

しかし、度重なる襲来に財政も厳しくなり、1002年にイングランドに在住するデーン人たちを大量虐殺してしまいました(聖ブライスの日の虐殺)

 

当時のデーン人の王は、デンマークやノルウェーを治めていたスヴェン1世でした。スヴェン1世はヨーム戦士団などを引き連れ、虐殺の復讐としてイングランドに襲来しました。

エゼルレッド2世の無思慮なデーン人虐殺は、逆にデーン人のイングランド侵略に拍車をかけるものとなってしまい、逆効果となりました。

 

このように、エゼルレッド2世はデーン人の襲来に対して何も策を立てず単に銀を支払い続け、浅はかにもデーン人を虐殺してしまったことから、無思慮王(無策王)の不名誉なあだ名がつきました。

 

※デーンゲルドとしてデーン人に支払った銀の総額は100トン以上で、現在の銀価格でも約70億円以上の高額となります。当時の貨幣価値が現在の5000倍と仮に考えると、とてつもない金額となります。

 

自分は亡命してイングランド王位を明け渡す

 

デーン人の襲来に対して2点だけ手を打ちましたが、しかし何の効果もありませんでした。むしろ、よりデーン人の襲撃を容易にしてしまいました。

・デーン人の襲来はフランスのノルマンディーを拠点にしていました。このため、エゼルレッド2世は、ノルマンディー公リシャール1世の娘エマと政略結婚をして、デーン人たちの拠点化を防ごうとしました。しかし、なんの効果も得られませんでした。

 

・デーン人の襲来に対抗しようと、100隻もの大艦隊を作りました。しかし、エゼルレッド2世は自分よりずっと優秀は息子アゼルスタンを疎ましく思い遠ざけました。家臣たちは、アゼルスタン派とエゼルレッド2世派に分かれて争い、アゼルスタン派の有能な戦士ウルフノースは80隻の船を焼き尽くし、20隻の船を持って国外脱出しました。

 

この愚かな状況を見たスヴェン1世は大規模なデーン軍団をイングランドに送り込みました。

1013年の襲来の際に、エゼルレッド2世はイングランドを放棄して、妻エマの実家であるノルマンディー公国に亡命してしまいました。

こうして、エゼルレッド2世に代わり、スヴェン1世がイングランド王となりました。

 

復位したエゼルレッドであるが

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ところが、イングランド王となったスヴェン1世は1か月ほどで亡くなってしまいます。これを見たエゼルレッド2世は喜んでイングランドに戻り、復位します。

しかし、人物的にも魅力のないエゼルレッド2世には、もはや権力は残っていませんでした。

 

一時期はイングランド側に金で雇われていた、ヨムスヴァイキング軍団のトルケル(Tokel the tall)はエゼルレッド2世を見限り、デンマーク側に戻っていました。また、イングランドで有力者であったマーシア伯のエアドリックも寝返り、エゼルレッドは苦境に立たされていました。

この状況の中で、スヴェン1世の息子クヌート1世は1016年にイングランドに襲来し、再びデーン人にイングランドを奪われるのは秒読みの状況でした。

そのなか、1016年にエゼルレッド2世は病死しました。

 

※その後、エゼルレッド2世の息子エドマンド剛勇王がイングランド王を継承し、果敢に戦い、クヌート1世を苦しめました。しかしついに敗れ、再びクヌート2世がイングランド王となりました(1016年)

 

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イングランド王国前史―アングロサクソン七王国物語 (歴史文化ライブラリー)

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北海帝国を築き大王と呼ばれた「クヌート1世」の概要

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クヌート1世(Canute / Cnut / Knut I)は11世紀にイングランドを支配したデーン人の王です(995-1035)。

イングランド王だけでなく、デンマークやノルウェー王も兼ねて大王とも呼ばれ(北海帝国と呼ばれた)、大きな勢力を持ちました。

今回は、クヌート1世について、概要を分かりやすく簡単にご説明します。

 

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クヌート1世の家系

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クヌート1世はデンマーク王スヴェン1世の次男で、スヴェン1世は1013年にイングランド王エゼルレッド(無思慮王、無策王)を破ってイングランド王にもなりました。

 

クヌート1世の家系図を簡単に記します。 

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クヌート1世:イングランド王を奪取する

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1014年に父スヴェン1世が亡くなると、クヌート1世はイングランドを任されました。

しかし、イングランドにはスヴェン1世に敗れフランスに逃れていたエゼルレッド無思慮王は、イングランドに戻りまんまと王位に復帰していました。

このためクヌートは出直して、エゼルレッド無思慮王を退ける必要がありました。

 

クヌート1世は軍を率いて、イングランドの襲撃を始めました。ところが、エゼルレッド無思慮王は1016年に亡くなり、息子のエドマンド剛勇王(エドマンド2世)が王位を継ぎました。

 

 

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エドマンド剛勇王は、父エゼルレッド無思慮王とは異なり行動的で武勇に優れ、クヌート1世にとっては手ごわい相手でした。

クヌート1世は、4度エドマンド剛勇王と戦いますが、敗北または撤退を余儀なくされ、打ち破ることは非常に困難な状況でした。

ところが、エドマンド剛勇王側の味方が逃亡したことを契機に、5度目の戦い(アシンドンの戦い)でイングランド軍を打ち破りました。

 

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クヌート1世はエドマンド剛勇王と休戦協定を結び、イングランドを二分して共同統治することを決めましたが、戦いで受けた傷がもとでエドマンド剛勇王は亡くなってしまいました。

こうして、1016年にクヌート1世は唯一のイングランド王となりました。

 

クヌート1世:デンマーク王となる

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父スヴェン王が亡くなった後、故郷デンマーク王は兄ハーラルが継承していました。ところが、1018年に兄ハーラルが亡くなり、クヌート1世がデンマーク王を後継しました。

 

クヌート1世:スウェーデンを奪取し北海帝国を築く

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クヌート1世がイングランド王とデンマーク王となり権力を拡大しているのを恐れた、ノルウェー王のオラーフ2世がスウェーデン王と手を組み、クヌート1世を討つべくブリテン島の侵略計画を練っていました。

 

これに対しクヌート1世は迅速に情報をキャッチして先手を打ち、戦いで勝利をおさめ、オラーフ2世は戦死しました。その背景には、スヴェン1世が一時期ノルウェー王だった頃があり、まだ影響力が残っていたためノルウェーの人々はクヌートに味方したのでした。

こうして、クヌート1世はイングランド、デンマークに加えノルウェーの三国の王となり、北海帝国と呼ばれるようになりました。

 

イングランド王としてのクヌート1世の人気

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イングランドは自身のアングロ・サクソン政権ではなく、再び侵略してきたデーン人のクヌート1世に支配されました。
このことに対して、イングランドの人々はどう思ったのでしょうか?

 

実は、クヌート1世の父スヴェン1世の時代には、デーン人は頻繁にイングランドに襲来して略奪行為を繰り返していました。またデーン人たちに退却してもらうために、エゼルレッド無思慮王は襲来の度に大量の銀を支払い(デーン・ゲルドと言う)、財政も傾いていました。

デーン人のクヌート1世がイングランド王となれば、デーン人の襲来は無くなりますし、銀を支払うこともなくなります。

 

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クヌート1世は統治においても好評でした。

イングランドを4つの区に分け(アール:伯)、能力・実力のあるものはデーン人でもアングロ・サクソン人でも分け隔てなく、伯の位を与えて統治させました。

クヌート1世の統治時代は、エゼルレッド無思慮王の時代よりも平和に暮らせるので、イングランドの人々に受け入れられていたのでは、と考えられます。

 

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個性強いテューダー朝の君主たちの性格の共通点

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ヘンリー8世やエリザベス1世など、テューダー朝の君主たちは、とても個性が強くインパクトがあります。

今回は、テューダー朝の君主、ヘンリー8世、エリザベス1世、エドワード6世、メアリー1世、更にテューダー朝を始めたヘンリー7世の人物像と性格を紹介して、共通点を見てみました。

 

●総じて、外見も魅力的で、賢く多才で教養も深いですが、自己中心的で貪欲で残忍な面も見られるようです。

 

 👉おススメ記事です
・テューダー家の歴史 起源〜テューダー朝の始まりまで
・テューダー家の歴史 6代続いたテューダー朝の概要 

 

テューダー朝の家系図

テューダー朝の家系図を書いてみましsた。

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1:ヘンリー7世
2:ヘンリー8世
3:エドワード6世
4:ジェーン・グレイ(9日間)
5:メアリー1世
6:エリザベス1世

 

ジェーン・グレイは直系ではなく、ヘンリー7世の娘メアリーの娘フランセスの娘と母系の血でつながっており、美しく賢い点は共通ですが、他の君主たちとは異なり目立たず大人しい性格だったようです。

今回は、ジェーン・グレイを除く、ヘンリー7世の直系の君主の性格に焦点を当てました。

👉ジェーン・グレイに関する記事

9日間の女王 レディ・ジェーン・グレイの悲劇の原因

 

初代:疑い深いヘンリー7世

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ハンサムで聡明・冷静な性格

ヘンリー7世は細身でしたが、 平均よりも身長は高くがっしりとして力強い体格でした。 外見はとてもハンサムで魅力的であり、 話すときは特に明るい表情でした。

小さく青い目で、 歯は小さく少なく黒っぽい色でした。髪の毛は補足薄い色で、 顔色は黄ばんでいました。

ヘンリー7世は、スポーツや祝典や、 音楽などに活動的でした。ヘンリー7世は息子ヘンリー8世と同じ く、一般的な王と同じように、狩りにも没頭していました。

 

ヘンリー7世は、高貴で威厳があり、賢明で用心深く、 勇敢で決意が固くたとえ大きな危険や困難が迫っても、 決してひるむことはありませんでした。

また記憶力も優れており、 学識もあり判断が正確で思慮深く、だれもがヘンリー7世をだまし たり陥れたり、しようと考えませんでした。

 

自制心が強く、最も静かな精神を持っている人物であることは明らかだ、 と書かれています。

ヘンリー7世のような父親がいれば、学校は必要なくなるだろう、 と言われるほど、ヘンリー7世は賢く、すべてにおいて良く気が利いており、 注意力がすべてに行き届いていました。

 

ダークサイドで評判の悪い性格

ヘンリー7世はとても行動的でしたが、ヘンリー7世の評判は、 あまり良いものではありませんでした。

 

心配事や不安事や将来の浮き沈みに対して外見上は変化を見せず、 静けさと沈黙は印象的ではありました。

 

しかし、とても注意深く疑い深すぎる性格で、周りの人には堅苦しく退屈感を与 えていました。

また、とてもギャンブル好きで、サイコロ、テニス、弓などの賭けでお金を費やし、 金銭的にはとても貪欲で人に対して強迫的でした。

 

ダークサイドの性格が強かったため、子供のころから「黒王子(Dar k Prince」と呼ばれていました。

ヘンリー7世の王位は、 異論を唱えるものおらず政府も強固なものでしたが、ヘンリー7世は嫌われていました。

 

👉ヘンリー7世に関する記事

ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

二代目:悪王と言われたヘンリー8世

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ハンサムで教養、大柄でスポーツ万能

ヘンリー8世は色白で赤褐色の髪の毛を持ち、 とてもハンサムで約182cmほどの背の高い人物でした。

ヘンリー8世はとても教養があり、優れた身体能力を持っていました。 年を取るごとに体重は増えていきましたが、 その頃を除くと若々しく見えていました。

50歳を超えるころには、自分で馬に乗れず、ウェストは約140 センチもありました。

 

ヘンリー8世は、馬上騎馬試合、テニス、狩など王室の娯楽や、カードやサイコロなどの賭けを好みました。

また、とても多才で芸術にも精通し、音楽家としては、リュート、オルガンを弾き、歌い、作曲家でもありました。

 

残忍で非情な性格

皆と遊ぶ陽気な君主としての一面を持っていましたが、別人のような性格も持っていました。

手段を選ばすどんな犠牲を払っても、自分の決めたことや欲望に対しては頑固にまで貪欲で、残忍で非情な性格でした。

 

👉ヘンリー8世に関する記事

イングランド王 ヘンリー8世 6人の妻たちへの悪事と功績や教養あふれる魅力

 

三代目:幼くして亡くなったエドワード6世の性格

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ひ弱ではなく高い知性と教養

エドワード6世はヘンリー8世の唯一の息子で、若干9歳の時に イングランド王となりました(15歳まで統治)

エドワード6世は、15歳で早世したため、 ひ弱で不健康な少年と一般的には考えられていますが、実際はとても健康的でがっしりとし、運動も得意でした。

また、 他のテューダー朝の君主と同じく知性や教養は高く、ギリシャ語、 ラテン語、フランス語、神学、音楽に興味を持っていました。

 

冷淡で傲慢でギャンブル好き

エドワード6世の性格や外見は魅力的ではなく、 将来も有望ではなかったようです(他のテューダー朝の君主とは異なる)。

 

エドワード6世は自己中心的 で思いやりの欠けた冷淡な心の持ち主で、 他のテューダー朝の君主と同じく傲慢で横柄な性格でした。

エドワード6世は政治には興味を示さず摂政に任せきりとなり、 テニス、バックギャモン、チェス、カード、 武術に励んでいました。

また、とてもギャンブル好きで、家庭教師のロジャー・アーカム( Roger Ascham)が何度も厳しく叱り禁止するまで、ギャンブルに興じました。

 

👉エドワード6世に関する記事

テューダー朝の「エドワード6世」はどんな人物だったのか?

 

五代目:ブラディーなメアリー1世

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少女時代のメアリーは勉強好きで賢いだけでなく、非常に美しく魅力的であり、うわさは他国にも伝わっていたといいます。

メアリーは質素でしたが、コントラルト(女性で最低の音域)の美しい声で歌い、人気の高い人物でした。

 

メアリーは、ヘンリー8世に似て、押しが強く、無愛想で、誠実、豪快な性格でした。ヘンリー8世に強要されても、自分の意見を貫き通すほど、とても頑固な性格でもありました。

残忍・残虐な行為は嫌っていましたが、反乱を起こしたプロテスタントに対しては残忍な処罰を行い、ブラディー・メアリーと呼ばれるようになりました。

 

👉メアリー1世に関する記事
ブラディー・メアリーと呼ばれたメアリー1世の波乱人生

 

六代目:処女王と呼ばれたエリザベス1世

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ヘンリー8世に似た容姿

エリザベス1世は姿勢がまっすぐで、とても青白い肌をしており、 肖像画によると目は茶色か金茶色でした。誰に対しても我が強いヘンリー8世に似た、わし鼻と赤い金髪をしていました。

 

エリザベス1世は、彼女の生きた時代を考えても、 とても賢く機知に富み、教養のある女性でした。ラテン語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語、ギリシャ語、 英語、スペイン語を話し、算数、哲学、神学、 美辞学など様々な学問を勉強しました。

 

嫉妬深く短気な性格

エリザベス1世は耳をつんざくような高い声で、 短気で怒りっぽくかっとする気質でした。

・女性に対して強い嫉妬心を持ち、 殆ど女性の使用人はおらず男性ばかりでした

・優柔不断で抽象的な表現が多い。優柔不断は、 核心に触れず相手を煙に巻く、外交術をとったためとも言われる。

・仲良くせず仲悪くせずが外交や人間関係の秘訣

 

👉エリザベス1世に関する記事
エリザベス女王1世の功績と結婚・恋愛話

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・テューダー家の歴史 起源〜テューダー朝の始まりまで
・テューダー家の歴史 6代続いたテューダー朝の概要 

 

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円卓の騎士ガヘリス 勇敢・どう猛で優しく女性にもてる男

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円卓の騎士の1人、ガヘリス卿(Sir Gaheris)はアーサー王の甥にあたり、オークニーのロット王とモルゴースの息子です。

兄弟には、同じ円卓の騎士、ガウェイン卿、ガレス卿、アグラヴェイン卿、さらにモルゴースと異父弟にモルドレッド卿がいます。

 

アーサー王物語に描かれているガヘリス卿とはどのような人物なのでしょうか?

ガヘリス卿の人物像を分かりやすく纏めました。

 

 👉兄弟たちの記事もご参考に
・「円卓の騎士」の一覧。25人の「円卓の騎士」とは?
・円卓の騎士ガウェイン。現実と伝説が混ざり合った騎士
・円卓の騎士 モルドレッドのアーサー王への陰謀は作り話?
・円卓の騎士 ガレス卿 愛されるべき優男
・円卓の騎士アグラヴェイン卿 モルドレッドと共に悪役となったガウェインの兄弟 

 

優れた騎士ガヘリス

ガヘリスがアーサー王物語に初めて登場するのは、 母モルゴースとともにアーサー王の宮殿に訪れた時でした。

ガヘリスは父ロット王がペリノア王に殺された後、 兄弟たちと共にアーサー王の宮殿に戻りました。 そしてガウェインは騎士となり、 ガヘリスはガウェインの御供として数々の冒険に加わりました。

 

ガヘリスはガウェインより優れた騎士だとも言われ( トリスタン卿のコメント)、勇敢で思い切りが良く、 優しくまた美しい男性でした。

ガヘリスはパーシヴァルと仲が良く、またトリスタンとマーク王の争いではトリスタンを支持しました。

 

騎士になる前はガウェイン卿の従者を勤めていた。その後も、大抵はガウェイン卿とともに登場することが多い。

それなりに武勇に秀でていたようであるが、特にガヘリス卿が主人公として活躍する話はない。

もっとも、ガウェイン卿の地位がかなり低いマロリー版ではガウェイン卿を貶める意図でか、トリスタン卿が「ガヘリス卿の方がガウェイン卿より優れた騎士だと感じた」(『アーサー王の死』9巻43章)[1]との発言をしている。

また勇猛果敢の美丈夫であったが、特に自分から意思を表明するようなことはなく寡黙な性格だったとされている。

 

もてるガヘリス

ガヘリスはとても女好きで女性にもてる男だったようです。

ガヘリスの公式の恋人はダモイセレでしたが、 ガヘリスを他の女性たちから遠ざけることは出来ませんでした。

ガヘリスはコーンウォールの騎士マット・ラ・ブルノと戦い、 彼の女性を奪い取ったりもしました。

ガヘリスは最終的にはダムセル・サヴェジ(Damsel Savage)と結婚しました。

 

やさしいガヘリス

ガヘリスは貧しい者にたいしては慈悲深い態度をとりました。

ガヘリスは、彼のラバを盗み森へ逃げた一般人を脅しましえた。 しかし、奪われたロバは狼たちに食べられてしまっており、 生計を失ってしまったことに気がつきました。
そこで、ガヘリスはその男に自分の馬を与えました。

 

どうもうなガヘリス

 

ガヘリスの父ロット王は、 ペリノア王との戦いに敗れ殺されました。( ペリノア王はガウェインに復讐され殺害される)

ところが、ペリノア王の息子ラモラックと、 ガヘリスの母モルゴースが愛人関係になりました。

これを知ったガヘリスは激怒し、 兄弟たちとともにラモラックに復讐しようと企てました。 またガヘリスは、敵と愛人関係になった母モルゴースを許しませんでした。

 

モルゴースがラモラックとベッドで一緒にいる現場をおさえ、 ガヘリスはモルゴース切り殺しました。

そして、ガヘリス、ガウェイン、アグラヴァイン、 モルドレッドの4兄弟は(ガレスは含まれず) ラモラックを待ち伏せし、殺害しました。

 

ガヘリスの最期

ロット王の息子たち、ガウェイン、ガヘリス、ガレス、 アグラヴェイン、モルドレッドの間に亀裂が生じていきます

ランスロットをねたむ、アグラヴェインとモルドレッド、 ランスロットに戦いを挑むガウェイン、 ランスロットを慕うガレスとガヘリスに分かれてしまいました。

 

ガヘリスは、 グィネヴィアとランスロットの不倫を暴こうとするモルドレッドを 止めようとしました。しかし、アグラヴェインらによって不倫が暴かれてしまいます。

 

こうして、 アーサー王の命でグィネヴィアが火あぶりの刑に処せられることになりました。この時、ガウェインは アーサー王からグィネヴィアのエスコート役を頼まれました。しかしガウェインは断り、 代わりにガヘリスとガレスを推しました。

 

ガヘリスとガレスはいやいやグィネヴィアのエスコートを引き受けましたが、グィネヴィアを助け出そうとしたランスロットによって、 丸腰のガヘリスとガレスは殺されました。

 

 👉兄弟たちの記事もご参考に
・「円卓の騎士」の一覧。25人の「円卓の騎士」とは?
・円卓の騎士ガウェイン。現実と伝説が混ざり合った騎士
・円卓の騎士 モルドレッドのアーサー王への陰謀は作り話?
・円卓の騎士 ガレス卿 愛されるべき優男
・円卓の騎士アグラヴェイン卿 モルドレッドと共に悪役となったガウェインの兄弟 

最後にほほ笑んだのは? 映画「五日物語 -3つの王国と3人の女-」のあらすじ

 

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「五日物語 -3つの王国と3人の女-」は、2015年に公開されたイタリア・フランス・イギリス製作の映画です。

 

女王、王女、老婆が主人公の3つの別々の物語で、それぞれの場面が交差しながら、話は進んでいきます。

「五日物語 -3つの王国と3人の女-」の3つのストーリーのあらすじをご紹介します。

 

※ルネサンス期のナポリの詩人ジャンバティスタ・バジーレの作品である「ペンタメローネ」が原作です。

 

 

五日物語-3つの王国と3人の女-(字幕版)

 

ロングトレリスの女王

 

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ロングトレリス王と女王の間には子供が生まれませんでした。

子供を熱望しているときに、 黒い来訪者があり海の怪物の心臓を取り出し、 生娘が料理したものを女王が食べれば、 たちまち妊娠すると告げました。そして、その黒い来訪者は、 代償も必要だと言いました。

 

王は海に入り、怪物を倒しますが、命を落としてしまいました。 家来たちが怪物の心臓を取り出し、 生娘が料理して女王が食べたところ、 女王も生娘もともに子供を宿しました。 

 

女王の息子はエリアス、生娘の息子はジョナと呼ばれ、 二人は気も合い、いつも一緒に遊んでいました。

二人は 女王も間違えるほど似ていたので、18歳になったら交代で王になろうと言いますが、女王は二人の会話を聞いており、会うことを禁じました。

 

そして、ジョナは女王に襲われたため、 住んでいた地を去ることになりました。

ジョナはアリアスに、 木の根元の水が澄んでいたら自分は穏やかで、 水が濁ったら窮地に立たされ、 水が枯れたら自分の終わりだと告げました。

 

 

ある日、アリアスは木の根元の水は濁っていることに気が付き、 馬に乗ってジョナを探しに森に出かけた。 ジョナは森で怪我をして動けなくなっており、 魔物にも襲われ窮地に立たされていました。そこに、 アリアスが現れて魔物を倒し、ジョナを助けることができました。

魔物に化けていたのは・・・

 

ストロングクリフの老婆

 

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結婚せず女にだらしないストロングクリフ王は美しい歌い声に聞きほれました。

王は歌声のした家の前まで行き、贈り物をして会いたいと言いました。

王が若く美しい娘だと思っていましたが、実際はドーラとインマと言う老婆姉妹でした。姉妹は老婆であることを隠し続け、インマは一週間後に来てくれと、王に告げました。

 

一週間後に王は再び姉妹の家を訪れ、姿を見られたくないインマは、とっさにドーラの指をつかみドアからそっと出しました。王はその指を見て恋をしてしまい、老婆とも知らずドーラに城へ来ることを命じました。

 

暗闇の中でドーラは王と床にはいるが、 王が明かりをともしたところ老婆であることがばれ、ドーラは崖に建つ城の窓から放り落とされました。幸運にも森の木に引っかかり、ドーラは助かり、 通りがかった魔女に助けられ抱きしめられた。

 

 

ドーラが目を覚まし気が付いた時には、 美しい若い娘に変わっていました。若い娘となったドーラを見つけた王は、ドーラと結婚しました。 ある日お城にインマも呼ばれ、そこで二人は再会しました。インマは、これまでと同じようにドーラと居たいと駄々をこねるが、 ドーラは帰れと言い返し、インマは白の外へつまみ出しました。

 

インマは、ドーラと同じように若い娘になりたい、若返らせてくれと、ある男に頼みました。その方法は・・・

 

ハイヒルズの王女

 

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ハイヒルズに虫好きの小男の王がいました。 王には美しい若い娘ヴァイオレットがおり、 ランスロットと王妃のロマンスの話が好きでした。年頃の娘は、 夫を見つけて欲しいと王に懇願しました。

 

虫好きの王は、ノミを飼っており、 自分の血や食事の肉を与えていたところ巨大化していきました。 しかし、巨大化したのみは死んでしまい、悲しんだ王は、 ノミの皮を剥ぎました。

 

夫を見つけて欲しいと言うヴァイオレットの望みを叶えようと、剥いだ皮が何の獣のものか当てた男をヴァイオレットの婿にする、 と言いました。

 

男たちが集まりますが、ケダモノのような男が当ててしまった。 ヴァイオレットは悲しみに暮れ城から飛び降りようとします。しかし王に説得され、ヴァイオレットはしぶしぶケダモノを受け入れます。

 

ヴァイオレットはケダモノの男に険しい山の骨が散らばる洞窟に連 れていかれ、野獣のような生活が始まりました。ヴァイオレットは泣き暮らしていたところ、 若い男家族が通りかかり、かろうじて救出されました。

 

ケダモノ男は、 崖から落ちたが這い上がってきて、 ヴァイオレットを助けた一家を皆殺しにしました。そして、とうとうヴァイオレットも捕まってしまいます。

ヴァイオレットはケダモノが油断した隙に・・・

 

3つの国のつながった結末

ハイヒルズで行われていた式典で、笑顔のヴァイオレットは父とともに出席していました。そこには、ロングトレリスのアリアスとジョナも仲良く一緒にいました。

また、ストロングクリフの王と若い娘となったドーラも出席していました。

(アリアスの母である女王、ドーラの姉妹インマの姿はなかった)

しかし、魔法が切れていきドーラの姿は・・・

 

五日物語-3つの王国と3人の女-(字幕版)

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  • 発売日: 2017/11/15
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「ナポレオン ~英雄の誕生~」のあらすじ ドラマWARRIORS(ウォリアーズ)歴史を動かした男たち

「ナポレオン -英雄の誕生-」

 

ドラマWARRIORS(ウォリアーズ)歴史を動かした男たちのエピソード1は、「ナポレオン~英雄の誕生~」

 

フランス革命の英雄ナポレオンが名を上げるキッカケとなった、トゥーロン攻囲戦が描かれています。

しかし、上司の嫌がらせなどあり決して平坦な道ではありませんでした。

 

コルシカから亡命した生意気な青年

フランスは大混乱でした。フランス革命が進み、多くの貴族に加えてルイ16世も処刑されていた。銃殺やギロチン台送りが日常茶飯事でした。

 

コルシカ島からナポレオン・ボナパルト一家は亡命していました。一家を支えるにはナポレオンの活躍が必要でした。

ナポレオンの母はとても気丈でいつも、名を上げろとナポレオンに葉っぱをかけていました。

 

そして、公安委員会よりナポレオンはトゥーロン地区の砲兵隊長(准将)に任じられました。コルシカ出身の青年にはまたとないチャンスでした。

 

 

これまでのトゥーロンの戦況は厳しく、兵の損失は甚大でした。しかし、フランスにとってとても重要な地区で、奪回が望まれていました。

 

イギリス軍がトゥーロン市と港を占領し、さらに敗戦すると南仏全域にイギリス軍の侵略が及びえない状況で、トゥーロンの奪回は急務でした。

 

ナポレオンは丘に登り英国艦隊を観察し、上陸する前に大砲で追い払う作戦を提案しました。しかし、ラポワプ将軍は作戦会議をし正面突破をすれば勝算ありと考え(これまでこれで連勝してきた)、ナポレオンの案は却下されました。

 

軍の幹部にはコルシカ島からの亡命者で24歳の若いナポレオンは、生意気に映ったのです。

 

嫌がらせと敗戦

ナポレオンは上司を通さずにパリ当局に訴えて砲台の準備をはじめました。

ナポレオンは砲台を作り1000名の兵士を要請し、そうすれば短時間で勝てると訴えますが、ナポレオンを嫌う司令官カトーは500名しか出しませんでした。

 

軍の準備が遅れているうちに、イギリス軍は上陸して交戦となりました。

攻撃は失敗し、ナポレオンが砲台を造ろうとしていた丘を先に占領されてしまいました。

 

将軍やスタニスラ・フレロンは、ナポレオンがパリに直訴したことを不快に思い、コルシカ人は規則を無視したと非難し、ののしります。 

 

決死の戦いと勝利

 

フロレンに嫌がらせを受け続けます。

 

しかし、次の次の司令官であったデュゴミエ将軍が、ナポレオンの才能に気づきます。

港を見下ろす二つの高地を奪取し、大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、というナポレオンの案がようやく採用されました。

 

豪雨をついて作戦は決行されますが、敵に押されて厳しい戦いが続きます。ナポレオンの決死の突撃によって、ナポレオンは足にけがを負ってしまいます。

 

しかし、勢いに乗った革命軍は砦を奪取することに成功します。砦を奪取した後、大砲が港のイギリス艦隊を一掃し、トゥーロンは陥落し革命軍の勝利に導きました。

 

この功績により国民公会の議員の推薦を受け、ナポレオンは一挙に旅団陸将(少将相当)に昇進し、若き英雄へとなって行きました。

 

ナポレオンを虐めたフレロンは、ナポレオンにより遠くサン・ドマングへ飛ばされました。

ナポレオンの母は子供たちの6人が各国の王族となるのを見届け、トゥーロン包囲戦から6年後に31歳でナポレオンはフランスの治者となり、後に自ら皇帝となりました。

 

「ナポレオン -英雄の誕生-」
 

 

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