イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

アーサー王物語の登場人物「クラデルマント王」の実在人物

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アーサー王物語には、「クラデルマント王」が登場します。

クラデルマントとはどんな人物なのでしょうか?
・クラデルマントの概要
・実在のクラデルマント

についてお話いたします。 

 

アーサー王物語に登場するクラデルマントの概要

 

クラデルマント(Cradelmant)はノガレス(Norgales)の王でした。アーサー王が王となった時、アーサー王に敵対視し、反乱を起こした11人の王の1人です。

 

クラデルマントは5000人の兵力を引き連れ、アーサー王と戦いました(ベドグレインの戦い、the Battle of Bedegraine)。

11人の王たちはアーサー王の軍に善戦しましたが、サラセン人が11人の王たちの領土に侵略してきたため、アーサー王との戦いを休戦せざるを得ませんでした。(クラデルマント王はアーサー王との一騎打ちで、2度打ちのめされる)

 

※クラデルマントはアーサー王と和解し、クラレンスの戦い( Battle of Clarence)などでアーサー王の軍に加わり、アングロ・サクソン軍に勝利しました。

 

 

実在のクラデルマントの概要

アーサー王物語に登場するクラデルマント(Cradelmant)はノガレス(Norgales)の王で、ノガレス(Norgales)は北ウェールズ(North Wales、ノースウェールズ)の事であろうと、推測されます。

 

5世紀の北ウェールズの一国Gwynedd(グウィネズ)には、カドワロン(Cadwallon)と呼ばれる王がいました。このカドワロンが、クラデルマントのモデル人物と言われています。

 

カドワロンはどんな人物だったのでしょうか?

 

カドワロン(本名:Cadwallon ap Einion)は、北ウェールズを統治したエイニオン(Einion)の息子で、ウェールズ王室を始めたキネダ(Cunedda)の孫にあたります。

 

👉カドワロンの祖父キネダについて:僕らの生き方に活かせるウェールズの創始者の秘訣 

 

 

カドワロンは父より領土を受け継ぎますが、その領土に広さに満足していませんでした。当時の北ウェールズは、アイルランドからやってくるスコット族に占領されている領土が多くありました。

 

そこで、カドワロンは従兄弟たちと協力して、スコット族を追い払い、領土を広げ北ウェールズの大部分を手に入れることが出来ました。

 

カドワロンは勇敢でとても強い騎士でもありました。
カドワロンは別名「ロング・ハンド」とも呼ばれ、名の通りとても長い腕を持っていました。

”カドワロンは腰を曲げることなく、地面の石をつかむことができ、カラスを打ち落とせた” と言われています。この長い腕を利用して、敵を圧倒したと推測できます。

後にウェールズの人々はカドワロンの勇敢さに敬意を示し、彼のお墓に教会を建てたと言われています( Llanbabo)

 

 ※この時代のウェールズの歴史概要が分かります

👉<改訂版>第2章 ローマが去りアングロ・サクソンとウェールズ王室がブリタニアにやってきた

 

※カドワロンの息子はマエルグウィン(Maelgwin)で、マエルグウィンもアーサー王物語の中では、「百人の騎士の王」(マラグウィン(Malaguin)として登場しています。

マエルグウィンの記事

👉悪魔はやはり悪魔であった ~最も嫌われたウェールズ王 

 

 

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サッカーやラグビーのワールドカップで、なぜイギリスは複数国で出場しているのか?

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サッカーやラグビーのワールドカップの出場国をみてみると、 イギリスからは1国ではなく、複数の国々が出場しています。

 

なぜでしょうか?

複数国出場している理由には、歴史的な背景がありました。

 

コチラの記事もどうぞ

世にも危険なイギリスサッカー発祥の歴史

フットボールから分かれたラグビーのルーツと発祥の歴史

 

 

 

サッカーやラグビーのW杯でイギリスから出場している国々

 

サッカーのワールドカップに出場しているイギリスの国は

・「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」「 北アイルランド」の4代表が出場します。

 

ラグビーのワールドカップの場合も

・「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」 が出場しています。

※ラグビーの場合、 北アイルランドはアイルランドとチームを作り「アイルランド」 の代表として出場します

 

 

ワールドカップでイギリスが複数国出場できている理由

 

オリンピックでは、IOCが「主権国家単位」 での出場しか認めていません。したがって各競技や団体は「 イギリス代表」として出場します。

 

ラグビーやサッカーのワールドカップでも、1国1協会での加盟が 原則です。しかし、 イギリスでは特権的な地位が与えられています。

 

サッカーのワールドカップにイギリスは複数国出ている理由

 

FIFA(国際サッカー連盟=Federation International de Football Association)の創立は1904年で、フランス、 オランダ、スイス、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、 スペインの7か国で始まり、 サッカー発祥の地であるイギリスは当初参加していませんでした。

 

イギリスのサッカー協会の創立は1863年とFIFAよりも古く 、「イングランド」、「スコットランド」、「ウェールズ」、「 北アイルランド」それぞれに協会があり、4協会で構成されていま した。

 

イギリスは1905年に、ドイツ、オーストリア、イタリア、 ハンガリーなど8ヶ国と合わせてFIFAに加盟しました。

その際にイギリスは4協会での加盟を主張し、 歴史的な背景を考慮されて、1国1協会ではなく4協会の加盟が認 められました。

 

  

ラグビーのワールドカップにイギリスは複数国出ている理由

 

ラグビーワールドカップ(英語: Rugby World Cup)は、1987年に第1回大会が開催され、 夏季オリンピック、FIFAワールドカップとともに、世界3大ス ポーツイベントとなっています。

 

ラグビーワールドカップを主催しているワールドラグビー (World Rugby、2014年に改名)は、1886年にスコットランド 、ウェールズ、アイルランドの3か国のラグビー協会により発足し ました。

1890年には当初参加を拒否していたイングランドのラグビー協 会が加盟しました。

 

※発足当時は国際ラグビーフットボール評議会 (International Rugby Football Board; 略称IRFB)

 

このように、 イギリスの各協会とアイルランドのラグビー協会が中心となり、 ワールドラグビーは始まった背景があり、「イングランド」「 スコットランド」「ウェールズ」 の各チームの参加が認められています。

 

※北アイルランドはアイルランドとチームを作り「アイルランド」 の代表となっています

※現在、世界で約100協会が加盟

 

イギリスが複数国に分かれている歴史的な理由

 

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日本でイギリスと呼んでいる国の正式名称は、 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」です。

 

グレートブリテンはスコットランド、イングランド、ウェールズの 3か国で構成され、北アイルランドを加えた、4つの連合王国でイ ギリスは構成されています。

 

なぜ、4つの連合王国に分かれているのでしょうか?

その理由は、4つの連合王国は歴史上、 民族も言語も異なっているからです。

 

参考:

「イギリス」の正式名称と名前の由来、イングランド、スコットランド、ウェールズの違い

 

イギリスが4ヵ国に分かれている歴史(概略)

 

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数世紀頃のグレートブリテン島にさかのぼりますと、 現在の様子とは大きく異なっていることが分かります。

 

北部のピクトランド(図中は灰色の部分)には、 ケルト系と考えられるピクト族が住んでいました。

それより南はブリタニア(図中の赤い部分)と呼ばれ、 ケルト系のブリトン人が住んでいました。

 

その後、グレートブリテン島に住む民族の構成は大きく変わり、 王国が設立されていきます。

 

イングランドの成り立ち

 

5世紀になると、ドイツ北部からゲルマン系のアングロ・ サクソン族が、グレートブリテン島に侵略してきました。

そして、 数世紀のうちに領土を大きく広げ、イングランドを建国しました。

つまり、イングランドの人々は、英語を話すアングロ・ サクソン族です。

 

※アングロサクソン族の侵略(緑色)

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参考:イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要 

 

ウェールズの概略

一方、アングロ・ サクソン族に攻められたケルト系ブリトン人は領土を狭めていき、 現在のウェールズ付近に後退しました。(上の図で西の水色の一角)

 

このケルト系ブリトン人がウェールズ人の祖先であり、 彼らが話すケルト語がウェールズ語になります。

 

参考:<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで

 

スコットランドの概略

 また、北部のピクト族が住んでいたピクトランドは、5世紀頃から アイルランドからケルト系のスコット族が侵略を始め、 スコットランドを作りました。

 

スコット族の話すゲール語は、 ピクト族のピクト語も吸収して、スコットランド・ ゲール語になりました。

※スコット人は現在ではアイルランド人のことを指します

 

参考:分かりやすいスコットランドの歴史概要

 

北アイルランドの概略

 

北アイルランドは、スコット族が住んでおり、 彼らの話す言語がゲール語(アイルランド語)です。

北アイルランドと、 南部のアイルランドでは宗教上の違いから分裂し( 北アイルランド:プロテスタント、アイルランド:カトリック)、 北アイルランドはイギリスの一国となっています。

 

参考:分かりやすいアイルランドの歴史概要

 

まとめ

つまり、イングランド、ウェールズ、スコットランド、 北アイルランドは、それぞれ民族が異なり自国語を持っており、 歴史上別々の国として成立していました。

 

イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドの公用語は英語ですが、独自の言語の影響を受け、英語にも独特の訛りがあります。

 

この記事を読むと、各国の英語と成り立ちが分かりますよ。

イギリス英語の発音は面白い こんなに多くの訛りがあるよ


 

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ウェールズの国旗になぜレッドドラゴンが使われているのか?

 

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1959年から使用されているウェールズの国旗には、 なぜ赤い竜(レッドドラゴン)が描かれているのでしょうか?


その理由には、伝説と歴史的な背景と深いかかわりがありました。

「ほかの国々と異なり、 ウェールズでは何世紀も経てレッドドラゴンは良い意味で用いられ るようになり、 ヒーローはドラゴンのようだと称えられるようになった」

 

※詳しく知りたい人は次の記事

イギリス国旗にないウェールズ国旗 レッドドラゴンの深い歴史

 

※流れと概要を知りたい人は読み進めてください

 

 

ドラゴンの本来の意味

 

キリスト教では、ドラゴンは次の意味があります。( ウェールズはキリスト教の圏内です)

 

・ドラゴンは「悪」の象徴とされ、悪魔と同一視されたり、 邪悪な生きもの
・七つの大罪の一つである憤怒を象徴する動物で、 ドラゴン退治は悪の力との戦いを象徴するもの
・ドラゴンは自然の力を象徴しており、ドラゴンとの闘いは、 人間が自然と格闘して土地を開墾することを意味する

 

つまり、悪魔を意味する蛇に、 霊的存在を意味する翼が加わることで、 天使と相対する悪魔の象徴と考えられています。

ウェールズの古い伝説においても、 やはりドラゴンは悪の扱いです。

蛇が人間の母乳を飲むと翼が生えてグイベルという空飛ぶ怪蛇( ドラゴン)になり、通り道を横切る人々を襲ったそうです。


なぜ、悪を国旗に使うようになったのでしょうか?
ウェールズでは、数々の歴史的な出来事を経て、ドラゴンは「 悪魔」の意味ではなく、「英雄」の意味に変化してきたようです。

 

ドラゴンの起源

 

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初めてイギリスでドラゴンを使用したのは、 ウェールズの人々ではなく、ローマ軍でした。

 

古代イギリスはブリタニアと呼ばれ、 1世紀から5世紀初めまでブリタニアはローマ帝国の支配下にあり ました。ブリタニアの各地にはローマ軍が駐在し、 ブリタニアの支配及び外敵侵略を防いでいました。

 

当時のローマ軍はトカゲの軍旗を使用することがあり、 この軍旗はドラコ(draco)と呼ばれていました。

ドラコは、 2~4世紀にローマ軍人(サルマチアン人たち) によってブリタニアにもたらされたと言われています。

 

そして、 ブリタニアでも戦争時にこのトカゲが描かれたドラコが広く使われ るようになったのです。

 

邪悪なトカゲ(ドラゴン)が描かれたドラコを多数掲げ、 敵を威嚇(いかく)したり、 魔除けが狙いだったのかもしれません。

このドラコがレッドドラゴンの由来と言われています。 


ドラゴンの軍旗を初めて使ったウェールズ王

ドラゴンとの関連が見られる初めてのウェールズ王は、キネダ( Cunedda)と呼ばれる人物です。

 

キネダは、5世紀の前半に活躍した人物で、 現在のスコットランドのエジンバラ付近の首長でした。その後、 北ウェールズに移住し国を興しました。
このキネダがウェールズ王室の開祖と言われています。

 

キネダが活躍した時代は、 ドラコを掲げたローマ軍がブリタニアに駐在しており、 キネダもドラコを取り入れたのではないかと考えられます。

 

キネダに関して、次のような記述も見られます。
「キネダが馬に乗るときは900人の従者が馬と共に彼に従い、 キネダが戦争に行くときには赤い黄金のドラゴンが彼の上に掲げら れた」

 

 ※キネダに関する記事

僕らの生き方に活かせるウェールズの創始者の秘訣

 

 

レッドドラゴン伝説の始まり(アーサー王伝説)

 

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ウェールズで最も有名な英雄と言えば、アーサー王です。 アーサー王の伝説の中にもドラゴンの伝説があります。

 

アーサー王の父はウーサー・ペンドラゴン(Uther Pendragon)と呼ばれていました。
ペンドラゴンのペンはウェールズ語で頭を意味し、 ウーサーは頭にドラゴンをかぶっていたのではと想像できます。

 

アーサー王の時代である5世紀中頃になると、 ローマ軍がブリタニアから去り、 ヴォーティガンと呼ばれる首長がブリタニアを統治していました。

ヴォーティガンは大陸から侵略してくるアングロサクソン人たちに 悩まされていました。


ヴォーティガンが戦いのために要塞を建設しようとしますが、 要塞がすぐ崩れてしまうため、 アーサー王伝説の中で有名な魔法使いのマーリンに命じて調べさて たところ、 地下で赤い竜と白い竜が戦っていることを見つけました。

 

この赤い竜(レッドドラゴン)はブリタニア(ウェールズ) を差し、白い竜(ホワイトドラゴン) はアングロサクソン人を指していると書かれています。

※9世紀にネンニウスによって書かれた歴史書ブリトン人の歴史( Historia Brittonum)による

 

※ヴォーティガンに関する記事(赤い竜と白い竜の話)

映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?

 

 

カズオ・イシグロ著の「忘れられた巨人」では、 アーサー王が亡くなった後のブリタニアを舞台に、 レッドドラゴンが描かれています。

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)

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レッドドラゴンを定着させた人物

 

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カドワラドルのレッドドラゴン
 

5世紀~10世紀にかけて、軍旗につかわれるドラゴンは、 トカゲではなく翼をもつ四本足の動物として描かれるようになりま した。

 

そんな中、ウェールズ北部一帯を統治していたカドワラドル王( 655~682年の在位) が軍旗にレッドドラゴンを使用したという伝説があります。

 

カドワラドル王は、 ウェールズ王室の開祖と言われているキネダの子孫であり、 当時すでにアーサー王伝説は人々に知られており、 カドワラドルもマーリンの予言を信じていた、と言われています。

 

このカドワラドルが軍旗に使用したレッドドラゴンこそが、 ウェールズの国旗に描かれているレッドドラゴンとされています。

 

 ※カドワラドルに関する参考

アーサー王伝説に影響され「伝説の人物」となった偉人たち

 

 

レッドドラゴンが英雄へと変わった出来事

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時代は飛び、15世紀に移ります。
1283年にイングランドに敗北してから、 ウェールズはイングランドの支配下にありました。

 

1400年にイングランドの圧政に苦しむウェールズは、 ウェールズ王室の血をひくオウァイン・ グリンドゥールが反乱を起こしました。

 

英雄オウァインは軍旗にレッドドラゴンを使い、 ウェールズ中の人々を団結させ、イングランドと戦いました。

 

このオウァイン・ グリンドゥールの乱は1415年までに鎮圧され、 独立の夢はかないませんでしたが、 ウェールズの人々の心に深く刻み込まれました。
オウァイン・ グリンドゥールは今でもウェールズの英雄として称えられています 。

 

このように、ウェールズの人々にとって(レッド) ドラゴンは邪悪なものから、英雄の象徴へと変わっていきました。

※オウァインに関する記事

最も心に残る偉大なイギリスの英雄とは?

 

レッドドラゴンの地位が上がった戦い

 

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さらにレッドドラゴンの地位を更に高めていく出来事が起こりまし た。

1485年に起こった薔薇戦争の最後となるボースワース野の戦い で、ランカスター家のヘンリー・ テューダーも軍旗にレッドドラゴンを用いました。

 

ヘンリーはヨーク家のリチャード3世を破り、 イングランド王ヘンリー7世となりました。

 

 

ヘンリー・テューダーはなぜレッドドラゴンを用いたのか? 理由と狙いがありました。

ヘンリー7世の母方はイングランド王室の血筋ではありますが、 父系はウェールズ王室の血筋(テューダー家)を引いていました。


ヘンリー7世は薔薇戦争で勝利するために、 ウェールズの人々の協力を得ようと考えました。

 

・自分はウェールズ王室の子孫であることを示すために、 祖先のカドワラドルが使用したレッドドラゴンを軍旗とした
・テューダー家のカラーである、緑色と白色も軍旗に取り入れた
・自分はアーサー王の生まれ変わりで、 ウェールズを救う英雄と振れ回った

 

こうして、レッドドラゴンの軍旗を掲げるヘンリーのもとに、 アーサー王の復活を信じたウェールズの人々は終結し、 リチャード3世を倒してヘンリー7世はイングランド王となったの でした。

 

それまで、 イングランドの圧政に苦しんでいたウェールズの人々でしたが、 ヘンリー7世の時代には政治でも重用されました。

 

 

※ヘンリー7世に関する記事(ヘンリー7世の孫がエリザベス1世です)

ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 


このような歴史的な背景があり、ウェールズの国旗には、赤い竜( レッドドラゴン)が描かれています。


「ほかの国々と異なり、 ウェールズでは何世紀も経てレッドドラゴンは良い意味で用いられ るようになり、 ヒーローはドラゴンのようだと称えられるようになった」

 

参考記事

イギリス国旗にないウェールズ国旗 レッドドラゴンの深い歴史 

 

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アーサー王の都はキャメロットと言うのは本当? 新たな遷都説を提案します

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こんにちは、たなかあきらです。

「アーサー王の都」と言えば、「キャメロット」が通説です。

しかし、キャメロットはどこにあるのだろうか?

キャメロットの候補地はいくつか挙げられますが、人々にとって「キャメロットの場所」は長年の疑問で、いまだ分かっていません。

 

・キャメロットはアーサー王の都なのだろうか?

・アーサー王の都は別の場所なのではないだろうか?

と思うようになりました。

 

・キャメロットは都でないかもしれない理由
・別の場所とはどこなのか
・新たに遷都説

を提案します。

 

アーサー王の都はキャメロットである通説

アーサー王の都や宮廷は「キャメロット」にある、と言うのが通説です。

このため、しばしばキャメロットは何処にあるのか?の議論があります。
現在の幾つかの場所が候補に挙がっています。

 

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しかし、僕は疑問を持ちました。

アーサー王の都は本当にキャメロットなのだろうか?

キャメロットをアーサー王の都である前提はよいのだろうか?

 

今回はアーサー王が描かれている代表的な書物、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」より、アーサー王の都はキャメロットで良いのか?
では何処なのか?考えてみました。

 

「ブリタニア列王史」にみるアーサー王の都

アーサー王物語の原形と言われている書は「ブリタニア列王史」で、11世紀にジェフリー・オヴ・モンマスが書いたとされています。

※本はこちら👉ブリタニア列王史―アーサー王ロマンス原拠の書

 

「ブリタニア列王史」でアーサー王(アルトゥールス)が登場する第7部 アルトゥールス王を見ますと、キャメロットは全く登場しません。

都らしき場所はシルケストリアとカールレオンの二箇所です。

シルケストリアの説

15歳のアルトゥールスは父ウーテル・ペンドラゴン王が亡くなった後、シルケストリアで戴冠しました。

シルケストリアは現在のイングランドのシェルチェスターであり、ローマ帝国が支配した時代に要塞があり、政治的や宗教的にも重要なばしょでした。


カールレオンの説

カールレオンはレギオの首都で、現在の南ウェールズにあるカールレオンです。ここもローマ時代の主要な要塞都市でした。

アルトゥールスは大陸に遠征しガリア全土、ローマ帝国を支配下にした後に、ブリタニアに凱旋帰国しました。

その後、聖霊降臨祭と戴冠式をカールレオンで行っています。


「アーサー王の死」に見るアーサー王の都


15世紀後半にトマス・マロリーが書いた「アーサー王の死」は、アーサー王物語の完成版といわれています。

「アーサー王の死」の中では、何ヶ所かアーサー王の都と考えられる場所が登場してますので、時系列で概要を記します。

これによると、アーサー王の都は時代によって移転したのでは、と推測されます。

※👉アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)

初期の頃の都、アーサー王が戴冠した時代

・アーサー王はカールレオンのまちで王の戴冠式をすませたあと、五旬節の日に大宴会を開く

・ベドグレインの戦いの後、敗れた11人の王は仇を打とうと、3年間アーサー王と戦った。その後、アーサー王はカールレオンのまちに戻った

👉アーサー王の都はカールレオンと考えられます

 

中期の頃の都1、ローマ皇帝を倒し繁栄した時代

 

・アーサー王はカメロットで大宴会を開き、アーサー王やグィネヴィア王妃、ラーンスロット、ガラハッドの母エレイン姫も参加

・カメロット(英語で言えばウィンチェスター)の表記が登場。

ラーンスロット、パーシヴァル、エクトル・ド・マリスが旅から戻り、カメロットに到着。アーサー王も騎士たちも大よろこびで迎える。

 

👉アーサー王の都はカメロット(ウィンチェスター)に移ったのではと考えられます

 

中期の頃の都2、ランスロットとグィネヴィアの不倫が疑われる

 

・聖母被昇天祭の当日、カメロットで大馬上槍試合を開催。アーサー王は家臣を連れてウィンチェスターへ旅立つ。

・カメロットでの大馬上槍試合が終わって、アーサー王と側近全部はロンドンへ帰った。

・ラーンスロットは大馬上槍試合の怪我から全快し、ウィンチェスターに向かった。アーサーはラーンスロットが戻ったことを知り、大よろこびした。との記述もある

 

👉アーサー王の都はロンドンに移った、またはロンドンとキャメロットの両方にあったと考えられます

 

後期の都、円卓の騎士が崩壊した時代

当時、宮廷はカーライルにあったとの記述が見られます。

・聖霊君臨祭(大祭典)のために、カーライルに円卓の騎士は集まった

 

ランスロットとグィネヴィアの不倫がアーサー王知るところとなり、グィネヴィアは火あぶりの刑になった時も、カーライルの記述が見られます。

・ラーンスロットがグィネヴィアを救い出し、ガレス、ガヘレスなどが殺された。アーサー王はラーンスロットの喜びの砦を攻め、戦いが始まる。

ロチェスターの司教は、和解させようとのローマ教皇の教書を持って、カーライルのアーサー王に見せた。

 

👉アーサー王の都はカーライルに移ったのでは、と考えられます

 

今回のまとめ

アーサー王の都は「カメロット」が定説ですが、「ブリタニア列王史」「アーサー王の死」からは、別の説が考えられます。

 

「ブリタニア列王史」によるアーサー王の都

・シルチェスターかカールレオン

「アーサー王の死」によるアーサー王の都

・カールレオン

・カメロット(ウィンチェスター)

・ロンドン

・カーライル

に移っていった。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

※参考記事

アーサー王の墓 アヴァロンはどこにあるのか?

分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ 

アーサー王の最期の戦い 「カムランの戦い」の実在の場所は? 

アーサー王が活躍した「ベイドン山の戦い」の場所

アーサー王の円卓(ラウンドテーブル)の場所は?

アーサー王の最期の戦い 「カムランの戦い」の実在の場所は?

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こんにちは、たなかあきらです。

アーサー王物語に登場する人物や、場所の多くはモデルが存在します。

 

アーサー王が最後に戦ったとされる、「カムランの戦い」はどんな戦いかご存知でしょうか? 

「カムランの戦い」は、現在のどこで行われた戦いなのでしょうか?

 

アーサー王に興味のある人でしたら、とても気になる内容ですね。

「カムランの戦い」の概略 

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アーサー王と円卓の騎士たちは、ローマ帝国のルキウス皇帝との戦いまたは、ランスロットとの戦いのために、ヨーロッパ大陸に遠征していました。

アーサー王が遠征をしている間、留守を預かっていたモルドレッドが王妃グィネヴィアを奪って反乱を起こし、アーサー王は戦死したと言いふらして諸侯たちを取り込み、王の座を簒奪しました。

 

この知らせを聞き、アーサー王は急きょブリタニアへ帰還します。

そして、アーサー王とモルドレッドは「カムランの戦い」で激突しました。
※カンブリア年代記によると537年とされています

「カムラン」の傍には曲がった川が流れており、Camlannのcamには湾曲した(crooked)という意味があるそうです。


「カムランの戦い」はアーサー王にとって最期の戦いとなり、アーサー側が勝利したものの、両者とも致命傷を負いました。そして、アーサー王はアヴァロンの地に流されていきました。

参考記事👉アーサー王の墓 アヴァロンはどこにあるのか?

 

「カムランの戦い」の場所とは?

 

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カムラン(Camlann)の戦いが行われた場所はどこでしょうか?
カムランの場所には諸説あり、どこも興味深い場所です。
それぞれを簡単にご紹介します。


コーンウォールにあるスローター・ブリッジ(Slaughter Bridge)

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スローター・ブリッジはコーンウォールのキャメルフォードの街の北部にあります。 

スローター・ブリッジの戦場にあるキャメル川の土手には、「アーサー・ストーン」と書かれた「アーサーの墓石」があります。

キャメルフォードはアーサー王の都であるキャメロットではないか?という説があります。

 

またアーサー王はモルドレットと、ドーヴァー、ウィンチェスターで戦い、その後モルドレッドはコーンウォール方面に逃れていき、最後にカムランで戦った、という記述もあります。

これらから、スローター・ブリッジがカムランの戦いの場所である信ぴょう性はありますね。 

Slaughterbridge - Wikipedia

Camelford - Wikipedia


イングランド北部、カンボグラナ要塞(Camboglanna)

 

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カンボグラナ(現在はキャッスルステッズと呼ばれる)は、ハドリアヌスの城壁にある要塞の1つで、現在のイングランドとスコットランドの故郷近く(カーライルから30分程度)にあります。

 

ブリタニアがローマ帝国の支配下にあったとき、北からのピクト人の侵略を防ぐための要塞でした。

 

参考記事👉イギリスの世界遺産 「ハドリアヌスの長城」の歴史

 

カンボグラナ要塞の南側には、急な流れで滝もあるアーシング川があります。カムランにあるとされる”湾曲した川”はアーシング川でしょうか。

カムラン(Camlann)とカンボグラナ(Camboglanna)はスペルは似ていますが、コーンウォールなどイングランド南部を中心とするアーサー王との関連は薄いようにも思います。

 

しかし一方、アーサー王の都キャメロットは、イングランド北部のカーライルにあるという説もあり、カンボグラナのカムラン説も興味深いです。 

Camboglanna - Wikipedia

River Irthing - Wikipedia

 

参考記事👉アーサー王の城 キャメロットはどこだ? 6つの候補地を紹介

 

アーサー王のスコットランド説、ブリッジ・オブ・アラン(Bridge of Allen)

 

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ブリッジ・オブ・アランはカンボグラナよりさらに北部にあり、スコットランドのスターリンの北にあります。

ブリッジ・オブ・アランの街にはアラン川が流れています。

ブリッジ・オブ・アランがカムランの場所?という疑問は残りますが、もし「アーサー王のスコットランド説」が本当なら、興味深い場所と思います。

Bridge of Allan - Wikipedia

 

参考記事
👉これが映画キング・アーサーのモデル人物か? スコットランドのアーサー王伝説を追跡してみた

  

 

カムランの名の通り、ウェールズのガムラン川とカムラン谷

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ウェールズのスノードニア国立公園の南側にダヴィ川があり、ダヴィ川に沿ってダヴィ谷があります。ダヴィ川の続きがガムラン川(Gamlan)であり、その傍に「カムランの戦い」の場所であるカムランの谷(Camlan Vally)がある、と言う説です。

 

※こちらのカムランはCamlanと、カムランの戦いのCamlannと微妙にスペルが違う程度です

 

ダヴィ川(River Dyfi):Google マップ

Dyfi Valley Way (including map, GPS files and statistics)

 

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6世紀のウェールズで王位を争った戦いが起こりました。

オウァイン・ダントグゥイン(Owain Ddantgwin)と甥のマエルグウィンとの戦いです。2人はカムラン谷で戦ったとされ、結果はマエルグウィンの勝利でした。

しかし、オウァイン・ダントグゥインはアーサー王のモデル人物ではないか?、マエルグウィンはモルドレッドのモデル人物ではないか?と言う説があります。

 

私は、このガムラン川とカムラン谷が、「カムランの戦い」の場所ではないか?
強いダークホース的な場所と考えています。

参考記事👉アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた 

 

カムランの近く、カダー・イドリス(Cader Idris)

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カダー・イドリスはウェールズ北部~中部にあるスノードニア山脈の南端にある山(893m)で、ドルゲラウ(Dolgellau)の街の近くにあります。

カダー・イドリスは、ガムラン川の近くにあり、カムランの地ではないか?と言われています。

Cadair Idris - Wikipedia

 Cader Idrisへ行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー

 

最後に

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アーサー王とモルドレッドが最後に争った、「カムランの戦い」の場所ではないか?

と考えられる候補地をご紹介いたしました。

どの場所が、本当のカムランなのかは、正直分かりません。

しかし、いずれの場所もカムランである可能性がありますし、それぞれの場所をカムランと思って戦いを想像すると、違ったカムランの戦いが見えてきて、楽しめると思います。

 

※おすすめ記事 

👉アーサー王の城 キャメロットはどこだ? 6つの候補地を紹介

👉アーサー王の円卓(ラウンドテーブル)の場所は? 円卓は結婚祝いだった?

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👉分かりやすいアーサー王物語と伝説のあらすじ👈

 

 

分かりやすい中世のイギリスの歴史②(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

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こんにちは、たなかあきらです。

中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら歴史は作られてきました。

今回の内容は後半で、

・百年戦争、ばら戦争
・テューダー朝
・ピューリタン革命、名誉革命

の影響を受けながら、イングランドへ併合、連合していく様子を分かりやすくお話いたします。
大まかなイギリス歴史の流れをつかんで頂ければありがたいです。

中世前半👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

百年戦争、ばら戦争の影響

百年戦争の勃発

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14世紀ごろになると、イングランドを支配してきたノルマン人の王室や貴族たちは、アングロ・サクソン人と同化し始め、宮廷や公の場で使用する言葉もフランス語から英語に変わってきました。

イングランドを治めフランスに領土を持つアングロ・ノルマン人と、フランスに住むノルマン人やフランス人たちと対立するようになってきました。

フランスの領土やフランス王継承権を主張するイングランド王(エドワード3世)と、対抗するフランス王(フィリップ6世)の間に戦争が起きました。これが百年戦争の始まりです。(1337年~1453年の説)

 

当初は、エドワード3世や息子のエドワード黒太子が活躍しイングランドが優勢でした。ヘンリー5世は次々とフランス軍に勝利し、勢力範囲を広げました。

しかし、ヘンリー6世のときに、フランス側にジャンヌ・ダルクが現れてから形勢は逆転し、フランスでのイングランドの領土をほぼ失う形で、百年戦争は終結しました。

 

※参考記事👉ウィリアム・ウォレスはなぜスコットランドの英雄なのか

ばら戦争の勃発

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百年戦争で敗れ、イングランドの領土を激減させたヘンリー6世は精神的にもダメージを受け、国を満足に治められなくなりました。このため、ヨーク公リチャードが国王の座を狙いました。

こうして、イングランド王家でランカスター家(ヘンリー6世側)と対抗するヨーク家(ヨーク公リチャード側)に分かれて争いがおこり、約120年に及ぶ「ばら戦争」が始まったのです。

※参考👉薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ

 

アイルランドへの影響

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百年戦争、ばら戦争が起きる中で、アイルランドにおけるイングランドの支配力は低下していきました。

1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)が反イングランドのアイルランド人を味方にしてアイルランド王に推され、アイルランドに侵攻しました。

 

結果的にエドワードは敗北しましたが、この戦乱を利用して、アイルランド人たちは立ち上がり、イングランドに奪われた土地を取り戻しました。

 

ウェールズへの影響

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イングランドに征服されていたウェールズにおいても、イングランド支配に対して大きな不満が募っていました。

ウェールズ王室の子孫であるオウァイン・グリンドゥールがヘンリー4世に対して反乱を起こしました。

 

オウァインの反乱はウェールズ全土に広がり、一時はウェールズ全土を掌握するにまでになります。
しかし、あと一歩のところでイングランド軍に敗北し、ウェールズ独立は成せませんでした。

参考記事👉最も心に残る偉大なイギリスの英雄とは?

 

ばら戦争の終結


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イングランドは薔薇戦争が続いていましたが、ウェールズ王室の子孫でランカスター家の血も引くヘンリー・テューダーが、ヨーク家のリチャード3世を、ボスワースの戦いで破りました(1485年)

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世としてイングランド王となり、テューダー朝を始め、これでばら戦争は終結しました。

参考記事:アーサー王伝説が関わっている
👉ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

イングランド王ヘンリー8世の支配

テューダー朝時代

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イングランドではヘンリー7世がテューダー朝をはじめ、息子のヘンリー8世の時代には、中央集権や絶対王政が強まっていました。

ヘンリー8世はカトリックのローマ教皇と対立し、プロテスタント(国教会)を設立するなど宗教改革を行ないました。

さらに、娘のエリザベス1世の時代にはスペインの無敵艦隊を破るなど、国際的な地位も向上させ、イングランド王国は黄金期を迎えました。

 

アイルランド支配

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イングランドはアイルランドの王権を保持していましたが名目だけで、アイルランド人伯爵が総督となり事実上アイルランドを治めていました。

1541年にヘンリー8世は、自身がアイルランド国王となることをアイルランド議会に承認させました。

ヘンリー8世はプロテスタントをアイルランドにも強要しました。しかし、アイルランドはカトリックが根強く、イングランド支配に対する抵抗もあり、反乱が続きました。
1603年にアルスター(現在の北アイルランド)はイングランドに敗北して植民地となり、カトリックのアイルランド人は追放されてしまいました。

その後、アルスターにはイングランドやスコットランドから移住が盛んにおこなわれ、宗教や生活様式が他とは異なりました。これが北アイルランド問題の起源となります。

 

ウェールズ併合

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イングランドの支配下にあったウェールズは、ヘンリー8世がウェールズ法諸法(1535-1542)を定めたことによりイングランドに併合されました。

ヘンリー8世はウェールズ直系の血筋で、官職にウェールズ人を多く起用したことから、ウェールズの人々に人気があったそうです。

 

テューダー朝が終わったスコットランド

 

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イングランド女王のエリザベス1世には子供がおらず、1603年にエリザベス1世が亡くなるとテューダー朝は終わり、イングランド王の後継者を血縁のあるものから選ぶことになりました。

 

当時のスコットランド王はジェームズ6世で、祖母メアリー・ステュアートはヘンリー8世の姉マーガレットの孫で、イングランド王の継承権を持っていました。

こうして、1603年にスコットランド王ジェームス6世はイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝を始めました。


※メアリー・ステュアートはスコットランド女王で、エリザベス1世の暗殺陰謀を疑われ処刑された

※ その後のイングランド王はステュアート朝の血縁であることが、条件となっています

 

ピューリタン革命、名誉革命

ピューリタン革命

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ステュアート朝のジェームズ1世と息子のチャールズ1世のとき、国王の権力を強めた独裁的な絶対王政を行いました。
プロテスタントのピューリタン(清教徒)は議会が支持し、国王はピューリタンを弾圧します。

 

1637年にピューリタンを支持するスコットランドで反乱が起き、イングランドでも1642年にピューリタンが革命を起こしました(ピューリタン革命、(清教徒革命))。
チャールズ1世は処刑され、プロテスタントのオリバー・クロムウェルが政治の中心人物となりました。


王不在の中で権力を握ったクロムウェルは、王党派とカトリックを討伐する口実で、1649年にアイルランドに軍を進め、大量虐殺と土地の没収を行い、アイルランドを征服し、植民地化しました。

 

アイルランドではクロムウェルへの恨みを残す形となり、その後独立運動が激しく展開される原因となりました。 
 
1660年にクロムウェルが亡くなると、チャールズ2世が即位し、「王政復古」します。
しかし、絶対王政とカトリックも復活し、再び国王と議会が対立しました。

 

名誉革命 


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チャールズ2世の息子、ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)の時にイングランド議会との対立はさらに深まりました。

議会はジェームズ2世の娘メアリーと夫のオランダ総督ウィレムを擁立し、1688年に名誉革命を起こしました。


ジェームズ2世はフランスに亡命し、メアリーはメアリー2世、ウィレムはウィリアム3世として共同でイングランド王となりました。

この名誉革命で、事実上スコットランドの独立は終焉し、1707年に合同法によってスコットランドはイングランドと合同して、グレートブリテン王国となりました。

 

しかし、アイルランドのカトリックはウィリアム3世を国王と認めず、ジェームズ2世を支援しました。ジェームズ2世はアイルランドで挙兵し、ウィリアム3世は軍を率いてアイルランドへ上陸し1690年にボイン川の戦いが起こりました。

ジェームス2世のアイルランドとフランスの連合軍は、ウィリアム3世の率いるイングランド軍に破れ、アイルランドのプロテスタント支配は強化されました。


その後・・・ 

 

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1800年に合同法を成立させ、1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとにグレートブリテン王国に併合されて、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国となりました。

1931年:アイルランド独立戦争が発生。アイルランド自由国を建国し連合王国から分離
1949年:イギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国とする。
※プロテスタントが過半数を占める北アイルランド6州は現在もイギリス(United kingdom)の一部となっています。

 

中世の前半編👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

最後まで読んでくださり有難うございました。

 

※参考記事 

イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

分かりやすいスコットランドの歴史概要

 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで~

分かりやすいアイルランドの歴史概要 

「イギリス」の正式名称と名前の由来、イングランド、スコットランド、ウェールズの違い

 

 

分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

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こんにちは、たなかあきらです。

中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら独自の歴史を持っています。

・ローマ帝国の支配
・アングロ・サクソン人の侵略
・ノルマン人の侵略

によって影響を受けながら、大きく変化していく様子を時代の流れに沿って、分かりやすくお話いたします。


細かい話は極力しないようにしていますので、大まかな流れをつかんで頂ければありがたいです。(くわしくは参考記事を参照ください)

 

ローマ帝国支配時代

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もともとグレートブリテン島やアイルランド島には先住民が住んでいましたが、紀元前数世紀頃に大陸からケルト系民族が侵略し移住を始めました。

 

紀元43年に、グレートブリテン島はローマ帝国に侵略され、北部を除く部分は支配下にありました。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドはまだ形勢さていませんでしたが、大まかに次の3つの領域に分かれていました。

 

・グレートブリテン島の北部:カレドニア(またはピクトランド)と呼ばれピクト人が住んでいました

・北部を除く部分:ブリタニアと呼ばれケルト系のブリトン人が住んでいました

・アイルランド:ヒルベニアと呼ばれケルト系のゲール人が住んでいました

 

ローマ帝国の支配はブリタニアが中心でスコットランド(アントニヌスの城壁より北)やアイルランド島にはローマ帝国の支配力は及びませんでした。
(ローマ帝国の支配は、現在のイングランド、スコットランド南部、ウェールズになります)

※ローマ支配下にあったブリタニア(赤色の部分)

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410年にローマ軍が撤退し事実上のローマ帝国支配が終わると、5世紀半ばごろからヨーロッパ大陸より、アングロ・サクソン人が侵略を開始しました。

これによって、(アイルランド島を除く)ブリテン島の勢力範囲は大きく変わっていきました。

  

アングロ・サクソンの到来と勢力拡大 

イングランド王国の成立


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アングロ・サクソン人はゲルマン系の民族で、アングル人、サクソン人、ジュート人のことを指します。アングロ・サクソン人は、現在のドイツ北部にあるユトランド半島の付け根付近に住んでいました。

 

5世紀半ばに、ローマ帝国の支配がアングロ・サクソン人たちは北海を越えてグレートブリテン島に侵入し、アングロ・サクソン七王国を作ったのです。

 

5世紀半ば頃には、ケルト系のブリトン人が住む領域はグレートブリテン島の大半を締めていましたが、8世紀初めごろまでには、アングロ・サクソン人はケルト人を西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を侵略しました。

西に追いやられた部分が後のウェールズとなり、北で独立を保った部分が後のスコットランドになります。

 

 

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<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで

 


 「アングル人の土地」の意味からイングランドの名前がうまれ、9世紀にイングランド王国に統一されました。代表的なアングロ・サクソン人七王国は以下となります。

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8世紀初めのアングロ・サクソン諸国 The Anglo-Saxon Kingdoms AD 700より

 

825年、ウェセックスのエグバート王がマーシアを撃破し勢力を伸ばし、マーシアは衰退しました。


更にエグバート王は、マーシアだけでなくコーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配しました。事実上初代のイングランド王とされます。

 参考👉イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

 

スコットランド王国の成立


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 中世初期の頃のスコットランドを簡単に描いてみると、3つの区域に分けられます。

・ピクトランド(Pictland:ピクト人)・・・北部一帯
・ブリタニア(地図中のAltClut、Gotoudin付近:ブリトン人)・・・南部一部
・ダル・リアダ(Dal Riada:スコット人)・・・西部一部

 

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これらの国々は、イングランドを形成したアングロ・サクソン人の侵略を殆ど受けることがなく、独自の文化を形成しました。  

 

・ブリテン島北部のピクトランドに住んでいたのはピクト人です。

・スコットランドの南部、ブリタニアの一部に住んでいたのがケルト系のブリトン人です。

 

ブリトン人は古代に大陸から移住したと言われおり、紀元前後から5世紀中頃までは、ピクトランドを除くグレートブリテン島の大部分に、ブリトン人は住んでいました。

 

・500年頃から出現したのがダル・リアダです。

グレートブリテン島から海を隔てたアイルランドに住んでいたスコット人(ゲール人)が、紀元500年ごろから海を渡って現在のスコットランド西海岸に侵略し勢力を伸ばしていき、ダル・リアダ王国を作りました。

 
843年ダル・リアダ王国のケネス一世が、ダル・リアダ王国と近隣国を統一して、スコットランド王国が成立しました。

※参考👉スコットランドの歴史 スコットランド王国成立の超概要

 

ウェールズ王国の建国

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かつてはブリトン人がグレートブリテン島の大部分を支配していましたが、アングロ・サクソン人によるイングランドの出現で、領土は西の一部に追いやられてしまいました。(水色の部分)

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※700年ごろのブリテン島。緑色のイングランドにほぼ占領されてしまった。 

 

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この西部のわずかな領土が、後のウェールズになります。

5世紀の中頃に、ブリトン人のキネダ・アプ・エダンが北ウェールズにグウィネズ国(現在のグウィネズ州)を建国し、ウェールズ王室を設立しました。

これが、現在のウェールズの原形と言われています。

その後、ウェールズはアングロ・サクソン七王国の国々の侵略によって、領土を狭めていきました。

 

アイルランドの状況

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アイルランド島は、ローマ帝国の支配も受けず、アングロ・サクソン族の侵略の影響も受けませんでした。

このため、6世紀に聖パトリックが布教活動をしたカトリック教会がアイルランドに広がり、独自の修道院文化が発達しました。

 

聖パトリックが布教したカトリックは、アイルランドだけでなくヨーロッパ各国に広がりました。この活動の影響でアイルランド人がスコットランドに移り住みダル・リアダ王国を作ったきっかけになったと考えられます。

アイルランドでは、8世紀末までは平穏が続き、学問が盛んに行われました。

 

ヴァイキングの襲来

イングランドのヴァイキング支配

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8世紀終わり頃から、スカンディナヴィア半島やデンマーク付近からヴァイキングと呼ばれるノルマン人やデーン人たちが、西ヨーロッパ諸国に襲来し、略奪行為や侵略をうけるようになりました。

 

最も深刻な影響を受けたのが、イングランドでした。793年にイングランド北東部のリンディスファーン寺院が襲撃されたのを皮切りに、デーン人たちが何度も襲来して、領土も奪っていきました。

デーン人はイングランドの中央部にデーンローと呼ばれる領土を確保し、その広さはイングランドの約1/3程にまで拡大しました。

 

一時は、アルフレッド大王などの活躍によりヴァイキングの領土を奪回しましたが、その後は再びデーン人の勢力が増し、1013年のスヴェン王を初めにクヌート大王など、約27年ほど、デンマーク王がイングランド君主も兼ねて支配しました。

イングランド君主一覧 - Wikipedia

 

アイルランドとウェールズへヴァイキング襲来

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スカンディナヴィア半島からのヴァイキングはアイルランドやウェールズに攻撃を加えました。

アイルランドには9~11世紀に襲来し、沿岸部を一時的に支配しましたが、イングランドとは異なり領域的な支配は行われず、アイルランドの交易を盛んにしました。

 

ウェールズにもアイルランドを拠点としたヴァイキングが度々攻撃を仕掛け沿岸部分は打撃を受けたりしましたが、領土を奪われたりすることはありませんでした。

参考👉ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々

 

ノルマン人の侵略・征服

 

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1066年、アングロ・サクソン族の国イングランドはフランスから侵攻したノルマン人によって征服されました(ノルマン征服)。

そしてノルマンディー公ギョーム2世がウィリアム1世としてイングランド王となり、その後イングランドを支配しました。

 

ノルマン人たちはイングランド征服にとどまらず、さらに支配を広げようとしました。
そして、12世紀になるとノルマン人の侵攻が、ウェールズやアイルランド、さらにはスコットランドにも及んできました。 

 

※参考👉 イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣

 

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ノルマン人たちはイングランドに領土を持つだけでなく、もとはフランス貴族のためフランスにも領土を持っていました。

12世紀のヘンリー2世の時代には、イングランド王の所有地は最大となり、フランス領土とイングランド領土を合わせて広大な領土を持ちました(アンジュー帝国と呼ばれた)

ヘンリー2世はウェールズに侵略し領土を広げようとし、またアイルランドにも支配力を伸ばしていきました。

※参考👉名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景

 

アイルランドへの支配

 
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12世紀までに、アイルランドは大小様々な王国に分かれていました。その中の王国のひとつにレンスターがありました。

アイルランドの一国であるレンスター王ダーマック・マクモローは、ローリー・オコナーによって国外に追放されていました。

 

ダーマック王は王国を取り戻すためにノルマン人たちの協力を得て、1169年にレンスター国を奪回しました。

ダーマック王はノルマン人貴族のリチャード・ド・クレアを養子にして後継者としましたが、イングランドのヘンリー2世が反発し、アイルランド侵攻を始めたのです。

 

そして、ノルマン人たちに忠誠を誓わせ、1117年に領土を支配下に置きました。
こうして、アイルランドのノルマン人によるイングランド支配が始まりました

 

そしてヘンリー2世は、息子のジョン王にアイルランド太守の称号を与え、ジョン王は中央政府を組織しました。
1250年頃には、イングランド勢力はアイルランド島の4分の3に及ぶまでになりました。
 
しかしジョン王はフランス領土の多くを失い国内では悪政をつづけ、イングランド貴族たちの不評を買いました。そして、イングランド王の権力を低下させるマグナカルタ憲章を制定しました。


参考👉マグナカルタ ジョン王が作りたくなかった大憲章

 

ウェールズの支配・征服


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ウェールズでは、12世紀からイングランド軍の侵攻だけでなく、ウェールズ国境付近のイングランド領主(マーチャー・ロード)がウェールズに侵略して、自分の領土を広げていました。
ジョン王の時代には、ラウェリン王がウェールズでは権力を持っていましたが、ジョン王はラウェリンの権力を封じ、ウェールズの大半の領土を奪いました。
 
しかし、マグナカルタによりジョン王に奪われた領土はウェールズに返却され、ラウェリン大王は再び権力を取り戻し、過去に奪われた領土もイングランドに攻め入るようになりました。
しかし、ラウェリン王が亡くなった後はウェールズ内で後継争いがおこり、さらにイングランドからも再び侵略を受けて弱体化しました。
 
1292年にプリンス・オブ・ウェールズであったラウェリン・ザ・ラスト王がエドワード2世に敗北して処刑され、ウェールズはイングランドに征服されました。

スコットランドの支配

 
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11世紀後半のスコットランド王マルカム3世はアングロサクソン人のマーガレットを妻としました。
このため、封建制度を取り入れアングロサクソン文化が広がって行きました。
 
13世紀になるとイングランドが執拗にスコットランドへ侵略する様になりました。スコットランドは、ことごとくイングランドに敗戦し窮地に追い込まれました。
 
スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスが立ち上がり、イングランドに対抗しました。
 
庶民派のウォレスはイングランド軍を破り破竹の勢いでしたが、スコットランドの貴族階級の支持を得ることが出来ず、イングランド王エドワード1世に敗れ勢いを失い、捕らえれ処刑されました。
 
その後、スコットランド王ロバート1世はバノックバーンの戦いでイングランド軍を破り、1320年にスコットランドの独立を手にしました。
 
ところが、ロバート1世の後、イングランド軍に敗戦し、スコットランドの独立が弱まっていきました。

※参考👉ウィリアム・ウォレスはなぜスコットランドの英雄なのか

 

つづく

最後まで読んでくださり有難うございました。

 

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