イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

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中世ヨーロッパのビールの歴史 粗末で不評の飲み物だった?

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こんにちは、たなかあきらです。

中世の時代は、水はきれいでは無かったので、必然的に人々は色々な飲み物を楽しみました。貧しい人々は、エール(ビール)、はちみつ酒、りんご酒を飲み、富裕層だけが様々なタイプのワインを楽しむことが出来ました。

その中で、今回は、中世はどんなビールが飲まれていたのか、中世のビールの歴史についてお話をいたします。

※中世に飲んでいた飲み物の概要

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ビールの発祥から古代のビールの歴史概要

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ビールの発祥は、紀元前8000~4000年までさかのぼり、メソポタミアのシュメール文明だと言われており、人々がビールを作っている様子が、粘土板に楔形文字で描かれています。

また紀元前3000年頃のエジプトでも、ナイル河畔で収穫される大麦を使ってビールが作られていたようです。

 

紀元前1700年代半ばにバビロニアでは既にビアホールが存在しており、「ハムラビ法典」にビアホールの規則、罰則などが記されています。 

 

北ヨーロッパでは、古代ゲルマン人が定住生活に入った紀元前1800年頃にビールが作られていたことが記録されています。しかし、北ヨーロッパを除くとギリシャ・ローマを中心にワインが広く飲まれていました。

 

実は不評のビール

 

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紀元前1世紀のローマ時代の歴史家タキトゥスは著書「ゲルマニア」によると、ビールはワインと比べれと、上等な酒とは思われていなかったようです。

「飲料は大麦または小麦からつくられ、いくらか葡萄酒に似ているが品位の下がる液体である」

 アラブや地中海文化の医療科学の影響を強く受けて、ビールはしばしば不評となっていました。

 

中世ヨーロッパの人々にとって、も同じでした。ワインや、レモン、オリーブなどの南部の飲み物や食材と比べると、ビールは粗末な飲み物だった。

より外国製のものである、ラクダのミルクや、ガゼルの肉の方が、より好意的な注目を、浴びていたと医療の文章に書かれてます。

ビールはただの代用品で、様々なマイナスの品質とみなされていたのです。

 

 

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1256年、シエナ派の医者アルドブランディノ(Aldobrandino)はビールについてこう記述した。

シエナ派:ルネサンス期のイタリアのシエナを中心に活動した画家たちのこと 

 

「ビールが、オート麦、大麦、小麦、何れで作られていても、頭やお腹に悪影響を及ぼす。息を臭くし、歯を悪くする、お腹の中を悪いガスで満たす。しかし、ビールには利尿作用があり、身体を白く滑らかにする効果がある」

 

またビールの酔う効果は、ワインよりも長く続きますが、ワインを飲んだ時に感じる、喉の渇きは起きないことが、認められました。

 

中世の初めごろの北ヨーロッパのビール

 

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中世ヨーロッパでも、食事の時、ワインが最も一般的な飲み物であった。ヨーロッパの北部などブドウが収穫できない地域では、状況は違いました。

 

輸入ワインに頼らざるを得なく、一部の裕福な人々は飲んでいたものの、これらの地域では中世の終わり頃までは、貴族でさえもビールやエールが一般的でした。

イングランド、北部ドイツ、ベルギーやオランダ付近、ポーランドスカンジナビア諸国では、ビールは全ての階級、全ての年齢層で、日常的に飲まれていました。

 

 

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イングランドやヨーロッパ北部はビールがよく飲まれましたが、ワインが中心のフランスやイタリアでもビールを飲むことはありました。

恐らく、1066年にフランスからのノルマン人が、イングランドを征服した結果(ノルマンコンクエスト)、フランスとイングランドを行する貴族が増えたからとも考えらえます。

14世の料理本Le Menagier de Paris の中で、godale(ゴダール、英語で表現するとgood ale)と呼ばれ異なったビールの記述があり、ポップは使わず大麦やスペルト小麦で作られたものが飲まれたようです。

 

イングランドにも亜流のビールがありました。ホットミルクと冷たいエールから作るもの、エールにはちみつを混ぜるもの(brakot or braggot)、スパイス入りのエールで、ピポクラスに似たもの、などです

※ヒポクラス(Hypocras)は、あまり保存状態の良くないワインにいろいろなスパイスやはちみつを入れたもので作る
:ヒポクラスはこちらを参考に:中世ヨーロッパ ワインの歴史

 

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中世ヨーロッパの初期の頃、ビールは修道院で作られ、少量なら個人の家でも作られた。ホップが使われるようになる前は、「グルート」と呼ばれる様々なハーブを混ぜたものが使われていました。

グルートはホップのような保存ができず、傷みを避けるためにすぐに消費する必要がありました。

ビールの味わいのために使われた他の方法は、アルコールを強くすることでした。しかし、アルコールが高くなること、直ぐに酔ったり泥酔したりする問題がありました。

 

ホップの登場でビールは変わった

 

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ビールの風味を良くするために、フランク王国カロリング朝(8世紀中頃~10世紀終わり)の時代から、「ホップ」が加えられるようになった。

 

「ホップ」を使用すると、腐りにくくて長持ちするといったビールの品質が飛躍的に向上し、またホップの持つ爽快な苦みや香りによりうまみも増すことが分かりました。

こうして、11世紀後半になると、次第にホップは広がっていきました。
しかし、ホップの適切な比率を確立するのが難しく、適用はゆっくりであったそうです。

ホップを入れたもののみビールと呼ばれ、従来のハーブを混ぜたものはエール、と区別もされました。

 

参考:ホップはこうしてビールになる! ENJOY!HOP - YouTube

 

 

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中世の中頃までには、北部ドイツのできたばかりの中世の町にある醸造所でビールを作り始めるようになった。

13世紀には、修道院のグルートビールと都市のホップビールの間で激しい競争を巻き起こすことになりました。15世紀以降、都市の発展とともにギルド制が定着するに至って、ビールの醸造は次第に市民の手に移るようになっていきます。

ビールが市民に広く愛飲されるにしたがって、醸造技術に次々と改良が加えられ、ビールの品質はより向上していきました。

 

 

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イングランドでは、16世紀になってオランダから亡命したProtestantたちがホップを伝えました。

しかし、ヘンリー8世の時代ではホップは毒薬と扱われて使用を禁止され、息子ののエドワード6世の時に、ようやくホップ栽培が出来るようになりました(1551年)。(その後の、1608年には傷んだホップは輸入を禁じられています)

 

※ドイツでは、1516年に「ビール純粋令」が出されており、大麦・ホップ・水の3つの原料以外は使用してはならないと定めることで、ビールそのものの定義を決定するとともに、品質維持向上に貢献しました

 

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中世のイングランド、オランダやベルギーでは、1年間の個人あたりのビール消費量は約275–300リットルで、 実際には食事ごとに飲まれていました。

つまり、低いアルコール度数のビールは朝食で飲まれ、アルコール度数の強いビールは夕食など1日の終わりに飲まれました。

 

ホップがビールに使われるようになって、ビールは6ヶ月かそれ以上保存できるようになり、輸出も可能になりました。大航海時代には、ビールは腐りやすい水の代わりに飲料用として用いられており、アメリカ大陸発見で有名なメイフラワー号には、400樽ものビールが積み込まれていたそうですよ。

 

参考:

ホップ - Wikipedia

ビールの豆知識|ビールの歴史|ビール酒造組合

Castle Life - Medieval Drinks

 

※おススメ記事
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中世の民主的な国家ウェールズ 独裁王ではなく庶民的な王であった

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こんにちは。ウェールズ歴史研究家のたなかあきらです。

このブログでウェールズの中世の歴史について書いており、戦いの場面が多く出てきて。しかし、ウェールズの戦いは他の国々との侵略戦争とは大きく異なっています。

また「王」の考え方、仕組みが大きく異なっているのです。

 

ウェールズの統治者の選び方

 

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中世ウェールズって、他の国々とは違ってたんですってね。

 

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民主的って言えるか分からないけど、同時期の他の社会よりずっと公平だっと思います。人々の権利は10世紀に制定されたウェールズ法や伝統文化で守られており、いわゆる「王」はウェールズにはいませんでした。

 

 

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王がいないってどういう事ですか?

 


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絶対的な権力者である王ではなく、人々から選ばれた統治者だったのです。

イングランドと同じように、ウェールズにも王室があり、王室から統治者は継承されているけれど、必ずしも長男が統治者を後継したわけではありませんでした。

最も優秀な人物が選ばれ、家臣たちも納得する必要があり、統治者として不適切な人間と判断されると、途中で変えられたりもしていました。王室に適切な人材がいない場合は、遠縁から統治者を迎え入れることもあったようです。

人々もウェールズ王と直接話しもできたし、ウェールズの王は人々に愛されていたそうですよ。

 

※王室の父系ではなく母系から統治者が選ばれた例:
アーサー王物語の発祥・起源は、このウェールズを救った王の偉業かも知れない 

 

ウェールズの支配者は、「King(王)」ではなく「Tywysog(統治者)」と呼ばれ、英語ではrulerが当てはまります。

 

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庶民的でいいですね。そんな統治者なら、会って話がしてみたいです。だけどウェールズは戦乱続きだったんでしょ。

 

ウェールズの内乱の意味

 

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確かにそうです。小国に分かれたウェールズ内の国々で紛争は絶えなかったようです。でも、それらは憎しみ合っての戦争ではなく、国間の問題を解決する為の戦争でした。つまり侵略戦争ではなく、お互い自分たちの権利や言い分の話し合いがうまく行かなかった時の解決手段だったのです。

だから、両国間で戦争が起きて領土を占領することがあっても、次の世代には領土が返還されていることも多く見受けられます。

ウェールズ内ではグウィネズが最も力があったけれど、他の小国を独立した国々として侵略や支配しようとは、基本的には考えなかったようです。(ウェールズ法の考えによる)

 

でも、つねに戦国時代で領土争いをしているように見えますけどね。 

※戦国時代のように面白い 中世ウェールズの南北朝時代 

 

とても平等なウェールズ

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10世紀には、ウェールズをほぼ統一したハウェル・ザ・グッドが制定したウェールズ法があります。このウェールズ法によると、統治者の息子は全員平等に領土を貰えることが定められています。

この法律に従い、ハウェルが亡くなったとき所有していた領土は、ハウェルが受け継いだ領土は息子たちに均等に分けられ、戦いで得たものは元の領主の家系に返されました。

 

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とても民主的な仕組みと思います。しかし、代を経るごとに領土が細分化されたり、全体の統率をとるリーダー的な存在が、生まれにくい仕組みでした。

現代ならよいかも知れませんが、当時の他国は強い王が国を支配して他国を侵略する中世の時代でしたので、ウェールズイングランドに攻撃されて、勢力を落としていく結果となりました。

 

イングランドに征服されてしまった中世のウェールズ
本当のプリンス・オブ・ウェールズ 対 ノルマンのイングランド 

 

 

ウェールズ愛国心

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しかし、ウェールズイングランドヴァイキングと言った、外敵から侵略された時、黙っていたわけではありません。

ウェールズが危機にさらされた時、ウェールズの国中の人々が団結して立ち向かうこともありました。ウェールズの人々の愛国心が強かったからかも知れませんね。

 

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ウェールズ魂、ですか?

 

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中世のウェールズを見ていると、他国を脅かして領土を広げるような侵略戦争はせずに、他国からの侵略を守る戦争に徹していたように思います。

安心して暮らせなくなり、自分たちのアイデンティティーが脅かされると、一致団結して敵に立ち向かいました。

代表的な例が、全ウェールズを率いてイングランドに立ち向かった英雄、オウァイン・グリンドゥールですね。www.rekishiwales.com

 

最後に

今回の記事は、ウェールズ歴史の著者であり大学でも教鞭をとられているDr.Gideon氏(ギデオン先生)と、たなかあきらとの会話をもとに加筆を加えました。

 

Gideon先生の新書

 

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最後まで読んで下さりありがとうございました。

イギリス王室より歴史が長いウェールズ王室の起源

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開祖:キネダ・アプ・エダン(右)

 

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現在のイギリスの王室は11世紀にはじまり約950年続いています。しかし、よく見てみると、イングランド王室、スコットランド王室、ウェールズ王室いずれとも関わりがあります。

今回は、それぞれの王室がいつから始まったのかを概略を説明し、特に最も歴史の長い、ウェールズの王室について、起源をお話いたします。

イギリス王室の始まり

イングランドの王室のはじまり

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イギリス王室はいつからあるのでしょうか?
現在のイギリス王室のはじまりは、イングランド王室にさかのぼり、1066年にイングランドを征服したノルマン人のギョーム2世が始めたノルマン朝である、とされています。

※フランスのノルマンディー公だったギョーム2世はイングランド王ハロルド2世を倒し、ウィリアム1世としてイングランド王となりました。

参考記事:イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣

 

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ウィリアム1世が始めたノルマン朝より前は、アングロ・サクソン族がイングランドを統治していました。アングロ・サクソン七王国の1国であるウェセックスのエグバート王が、825年に七王国支配下におさめ初めてイングランド王となりました。

この時、イングランド君主(王室)が始まったとされています。

イングランド君主一覧 - Wikipedia

参考:

イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

 

スコットランドの王室の始まり

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スコットランド王国は、スコット族(アイルランド)からやってきたダルリアダ王国と、ピクト族(スコットランドの北部)のアルバ王国(以前はピクトランド)、さらにブリタニアの一部(スコットランドの南部)の3つが合わさっています。843年ダル・リアダ王国のケネス1世が、ダル・リアダ王国とアルバ王国を統一して、スコットランド王国が成立しました。このケネス1世からスコットランド王室が始まっています。

スコットランド君主一覧 - Wikipedia

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参考:分かりやすいスコットランドの歴史概要

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ウェールズ王室の始まり

スコットランド付近の猛者


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ウェールズの王室は、イングランドよりもずっと前から続いていました。その起源は5世紀初めにまで遡ります。

舞台は現在のスコットランドに飛びます。

 

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キネダのイメージ写真:BBCより

BBC Wales - History - Themes - Cunedda ap Edern

 

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4世紀終わりから5世紀初めにかけてのブリタニアは、数百年にわたるローマ帝国支配下の終わり頃であり、ブリトン人たちはローマ軍の指導のもと辺境の警備についていました。

ブリトン人はケルト系民族

ローマ帝国に支配されていたイギリス(ブリタニア)

 

現在のスコットランドエジンバラ付近にあった、ブリタニアの小国であるマナウ・ゴドッディン(Manaw Gododdin、地図中ではGoutodin)では、キネダ・アプ・エダン(キネダと呼びます)が先祖代々から受け継いで、首長を務めていました。

 

キネダも成長してからは祖父や父と同じように、マナウ・ゴドッディンを自治しながら、北からやってくるピクト族やヴァイキングアイルランドからやってくるスコット族の侵入を防ぐ戦いをしていました。

キネダは強力な要塞を作りピクト族やスコット族、ヴァイキングなどの攻撃をことごとく退けて壊滅に追い込み、猛者ぶりを世に広めていたと言われています。

 

※キネダが外敵侵入の警備をしていたと考えられる、アントニヌスの城壁とハドリアヌス城壁付近(地図中の水色の領域) 

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ところが、410年にローマ帝国軍がブリタニアから撤退してから、事態は大きく変わってきました。

外敵のピクト族やスコット族の侵略に対して、ローマ軍無しで戦わなければならなくなったのです。 

 

ウェールズの原形となる国を建国

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当時の、ブリタニアは北部と南部に分かれていて、南部のヴォーティガン(Vortigern、拠点は地図中のPAGENES)が、ブリタニア全体の司令官についており、最も権力を握っていました。ヴォーティガンは西から攻めてくるスコット族に手を焼いており、ローマ軍に援軍を要請しましたが断られ、窮地に立たされていました。

 

そのヴォーティガンから、南部ブリタニアの海岸(現在のウェールズ)に攻めてくるスコット族を追い払ってほしいと、キネダに要請が来ます(来たと考えられます)。

440年頃、キネダは50~60才の頃になります。

 

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そこで、キネダは人生の大きな決断に出ました。
自分の8人の子供と1人の孫を全員連れてウェールズ北部に移住したと歴史書には書かれています。もちろん、これまで持っていた北部ブリタニアの領土や地位は全部放棄して、ヴォーティガンから要請があったスコット族と戦う任務についたようです。

※キネダの祖母はウェールズ出身。父方の祖先も1世紀中頃までブリタニア南部のウェールズ近くに住んでおり、ローマ帝国ブリタニアを征服したときに北部に追いやられたと考えられている。(キネダの父系の祖先は、カラタクス王と考えられる)

 

※ヴォーティガンに関する記事

映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か?

※キネダの祖先と考えられるブリタニアの英雄、カラタクスに関する記事

ローマ皇帝をうならせたブリタニア王のスピーチ 

 

 

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ウェールズ付近はアイルランドからやってくるスコット族の侵略に長年苦しんでいました。当時、ウェールズ南部や北部の海岸にはスコット族が居住地が数多くみられていました。 

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アイルランドに住む人々をスコット族と呼び(のちにアイリッシュと呼ばれるようになった)、スコット族はブリテン島の北部に攻め込み国を作ったのでスコットランドと呼ばれるようになりました。 

 

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キネダと息子たちは、ウェールズの北部から南部まで侵略していたスコット族を徹底的に攻めて壊滅させ、ウェールズから撤退させることに成功しました。そして、スコット族を追い払ったキネダは、その地に国を作りました(現在の北部ウェールズ)。

 

最も北部をグウィネズ(Gwynedd)、南部をケレディギオン(Ceredigion)と呼びます。キネダはその領土を分割し、8人の息子と一人の孫に分け与えました。

これらの国の名前は、息子たちの名前に因んでいるといわれ、現在も多くの名前が地名として残っています。

これが、現在のウェールズの原形となる国の始まりであり、ウェールズ王室の始まりでもありました。

 

地図中で1~8と11になります。

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440年頃に、キネダが始めたウェールズ王室はその後大いに繁栄し、多くのウェールズ王たちを輩出しました。

1282年に当時のプリンス・オブ・ウェールズであるラウェリン・ザ・ラスト王が、イングランドエドワード2世に敗れて、ウェールズが征服されるまで、キネダの子孫がウェールズを統治し続けました。
その後は、急速に王室の血筋は縮小し、15世紀初めに、最後のウェールズのプリンス、オウァイン・グリンドゥールが反乱を起こし鎮圧されてからは、ウェールズ王室は姿を消しました。

 

しかし、ウェールズ王室の貴族テューダー・ヘンの子孫が辛うじて血筋を残し、直系のヘンリー・テューダーが、ヘンリー7世としてイングランド王になりました。

テューダーの血筋はイングランドテューダー朝を作り、ヘンリー7世の血筋は現在のイギリス王室まで至っているのです。

 

ウェールズの王室がイングランド王室に及ぼす影響について

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ウェールズの王室一覧(英語)
Kings of Wales family trees - Wikipedia

 

 ※キネダに関する記事

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中世ヨーロッパの余暇 どんなスポーツやゲームをしていたのか?

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こんにちは、たなかあきらです。
中世ヨーロッパの人々の暮らしや活動は現在のライフスタイルとは大きく異なっていました。当時の一般の男性は、生計を立てるために畑に出て働き、穀物などを育てていました。いわゆる単調な生活を営んでいました。

 

しかし、多くの休日もありました。クリスマス、イースターメーデー、その他、畑起こしの後、収穫が終わったとき、など、日曜日を除いて8週間の休日がありました。

中世の人々は、畑での仕事、村でのスポーツ、教会での奉仕活動などの生活をシェアし、多くの休日を共に楽しんでいました。

中世の生活は、いろいろな娯楽、祭り、祝日などで、単調さは軽減されていたのです。

 

中世ヨーロッパの人々は、どんな余暇の過ごし方をしていたのでしょうか?

中世の余暇は、身分階級によって異なっていましたが、宴会、ごちそうなどのほかに、狩り、鷹狩り、ゲーム、各種スポーツ、馬上槍試合、レスリングなどが中世の一般的な余暇の活動でした。
 

野外での娯楽、中世のスポーツ

中世ヨーロッパで行われてたスポーツは、現在のスポーツのもととなっているものや、現在でも同じように行われているものもあります。 

馬上槍試合(Jousting)

馬上槍試合は、とても人気があり、中世ヨーロッパのすべての国々で広く行われていました。騎士たちは、トレーニングを積んで技を磨き、トーナメントに参加してお互い、実戦さながらの戦いを行いました。馬上槍試合は、領主や皇帝だけでなく、一般大衆にとってのエンターテイメントでした。

この馬上槍試合は、古代のグラディエーターローマ帝国での見世物の戦闘)が進化したもので、適切な行いにより、血を流すことは大きく減りました。

騎士は槍を与えられ、馬に乗って相対した。相手の槍を壊したり、相手を馬から落としたりすると勝ちになりました。

馬上槍試合は、中世の伝統的なもので、トーナメント方式で個人戦団体戦が行われました。勝利したものが相手の武具などを得たり、時には相手を捕虜にすることもありました。(領主や貴族で、軍隊を用いない戦闘対決)

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レスリング(Wrestling)

中世においてレスリングなどの格闘技はとても人気がありました。ドイツではRingen(リンゲン)と呼ばれる武装しない戦闘もありました。

これら格闘技を楽しむのは、領主は君主たちでした。中世の終わりごろには、多くの学校がヨーロッパの格闘技を教えており、進化していきました。中世のレスリングは賭けをして行われていました。

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アーチェリー

アーチェリーの試合は特に人気がありました。

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ゲームボール(Gameball)

フットボールの事で、中世ではルールなしで大勢でボールを奪い合う、かなり激しいスポーツでした。(モブフットボールなどと呼ばれました)

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ボウルズ(Bowls)

ボウルと呼ばれる偏心球を、目標球のどれだけそばに近づけられるかを競う球技です。

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コルフ(Colf)


北欧起源の「コルフ」という、「打った球を柱に当てるスポーツ」が、スコットランドに伝わったと言われており、ゴルフの起源とされています。貴族の人々に人気があり、プレーヤーはターゲットを置いて、クラブとボールでターゲットを打つという内容でした。

 

ハンマー投げ

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ハンマー投げは現在も行われています。現在の方がずっと安全で、人に当たらないように囲いの中で投げますが、中世はボールを早く放し過ぎて観客の中に突っ込んで、けが人が出るなどしたようです。

 

ハーリング(Hurling)

ハーリングケルトに起源をもち、スティックとボールを使用して行う屋外スポーツです。

ハーリング - Wikipedia

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ホースシューズ(Horseshoes)

U字型の蹄鉄を投げて、杭に引っかかる事を競うゲームです。

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クウォータースタッフ(Quarter-staff )

クウォータースタッフとは、堅い木でできた1.83 ~2.75 m程度の ヨーロッパの伝統的なポールの武器で、中世近世イングランドで盛んでした。

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スキットルズ(Skittles)

木製の円盤または球を投げて 9 本のピンを倒すゲームで、現在のボーリングに似ています。

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ストールボール(Stoolball)

ストールボールは、1450年頃イングランド南部のサセックスで生まれたスポーツでクリケットの原形と言われています。(野球、ラウンドのもとになるかもしれません)実際にはスツールボールは「空気中のクリケット」とも呼ばれています。

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ハンティング(Hunting)

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ハンティングは中世の時代、特権であったし、必要なものでした。ハンティングは騎士にとって、戦争時のスキルを磨く機会であったし、伝統的行事としても練習となりました。
騎士や貴族たちのハンティングは通常馬に乗って行われ、狩猟犬が獲物を追うアシストをしました。ハンティングは、余暇の目的でも行われ、より激しく若者中心で狂暴な動物を獲物とする「Force Hunting」や、激しくなく馬に乗って矢を射る「Bow and Stable Huntin」のタイプがありました。

 

一方、農民たちや貧困層にとってのハンティングは、彼らの生活のための小動物に限られていました。森林は通常、領主が所有しており、森林でのハンティングは領主か家来によっ厳しく禁じられており、ハンティングは公共の地面だけに限られていました。もしルールを破ると死罪など厳しい刑罰を受けました。
 

鷹狩り(Falcony)

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鷹狩りは他のタイプのハンティングで、中世では主に領主や貴族が楽しみました。
鷹狩りは、鷹が小さな動物や鳥を捕まえれるように、鷹匠がトレーニングをする必要があり、鷹匠は若い鷹を巣から取ってきて、人間とコンタクトが出来るように、鷹をトレーニングする役を担っていました。
鷹は、鷹匠の命令を聞いて、獲物を上空から捕まえ、鷹匠のところに戻れる能力を身につけていなければならなかった。鷹はこれらのトレーニングをしたり、特別な籠に買う必要があったので、とてもコストがかかり、農民や一般市民にとってはそのお金を支払う余裕は全くありませんでした。 

中世のゲーム(室内)

中世でゲームをすることは、上流階級、下流階級、大人も子供も、人気がありました。様々なタイプのゲームがあり、カードゲーム、ボードゲームさいころゲームなどが行われていました。
以下は、中世に行われていたボードゲームになります。

 

チェス(Chess)

代表的なボードゲームはチェスです。古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であると言われ、西方に広まったのがチェス、東方に広がったのが将棋とされます。

チェス - Wikipedia

 

テーブルズ(Tabels)

世界最古のボードゲームと言われており、バックギャモン(Backgammon)がテーブルズの中の代表的なゲームで、2人で遊び盤上に配置された双方の15個の駒をどりらが先にすべてゴールできるか競います。バックギャモンもローマ時代から約5000年の歴史があり、日本にもバックギャモン協会があります。

バックギャモン - Wikipedia

youtu.be

 

ナイン・メンズ・モリス(Nine Men's Morris)

四角を組み合わせたような幾何学的な線が描かれたボードを使用する、ローマ帝国時代に生まれた2人用の戦略ゲームです。(古代エジプトという説もある)

ナインメンズモリス | 世界の伝統ゲーム紹介 | 世界遊戯博物館

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アルカケス(Alquerques) 

中東が発祥とされる戦略ボードゲーム。チェッカーの元となるゲームです。

※チェッカーとは、色違いの丸い駒を使用し相手の駒を取り合うゲーム

チェッカー - Wikipedia

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キツネとガチョウ(Fox & Geese)

中世の北欧を起源とするボードゲームで、中世のヨーロッパで流行し、8世紀から9世紀頃においてはヴァイキングたちが使用していた盤も発見されています。

キツネとガチョウ - Wikipedia

https://youtu.be/20BI-oLiyWQ

 

哲学者のゲーム(The Philosophers Game)

数の戦略ゲームで「Rithmomachy」がその一種です。

Rithmomachy(数字の戦い)は、初期のヨーロッパの数学的ボードゲームです(11世紀ごろ)。このゲームはチェスによく似ていますが非常に複雑のようです。

 

youtu.be

 

ショベルボード(Shovelboard)

ショベルボードを起源とするゲームがシャッフルボードで(Shullfeboard)、細長いコートの上でディスク(円盤)を押し出し、「ダイアグラム」と呼ばれる得点盤上に到達させてその得点を競うゲームです。

シャフルボード - Wikipedia

いろいろタイプもあるようですね

盤上で手で円盤を移動:How to Play Shuffleboard: Scoring a Knock Off - YouTube
地面で道具で円盤を移動:How to Play Shuffleboard - YouTube

 

ナックルボン(Knucklebones)

ジャックスとも呼ばれ、古代のギリシャで生まれたのおはじき様なゲームで、通常5つの小さなオブジェクトでプレイされます。もともとは、「ナックルボン」は羊のものでしたが、投げられて様々な方法で捕らえられました。

 

youtu.be


ハザード(Hazard )

二つのさいころを使うバクチであるクラップスの起源となるゲームです。

クラップス - Wikipedia

youtu.be

 

 

参考:

Entertainment in the Middle Ages

 

Medieval Period: Leisure and entertainment

 

Activities in the Middle Ages | Middle Ages

 

※こちらの記事もお楽しみください

参考:中世の暮らし カテゴリーの記事一覧です

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最後まで読んでくださり有難うございました。 

アーサー・ペンドラゴンはアーサー王の本名か?

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こんにちは、たなかあきらです。

アーサー王の名前は、アーサーでよいのでしょうか?名字はないのでしょうか? 

アルトリウス、アルトゥース、ペンドラゴン、ウーサー・・・

アーサー王に関する色んな名前が出てきます。いったい、アーサー王の本名は何なのか?

今回は、アーサー・ペンドラゴンを例に挙げて、アーサー王の名前に迫ってみます。

アーサー・ペンドラゴンの名は?

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アーサー・ペンドラゴンはアーサー王の本名でしょうか?

まず、初めにこの話題から取り上げてみます。

 

ペンドラゴンという名前は、アーサー王の父と言われている、ウーサー・ペンドラゴンから来ている名前です。

ペンドラゴンが、仮に名字であるとしますと、アーサー・ペンドラゴンは、現在の欧米人の名前の通り、ファーストネーム(名前)+セカンドネーム(名字)と考えてもおかしくはないと思います。

 

しかし、ペンドラゴンという呼び名は名字ではなく、ウーサーの「あだ名」であると考えられます。

ペンドラゴンの意味は、ペン(ウェールズ語で頭)+ドラゴン(竜)の意味で、頭にドラゴンの鎧をかぶっている、または頭上にドラゴンの旗を掲げて戦場に出ている、と考えられます。

中世のブリトン人(ブリタニアの人々)は、名字を持たず、自分の名前の後にあだ名(動物や体の特長を意味する)を付けることが通常でした。

参考記事:そんな面白いあだ名をウェールズ王につけるの?

 

※ウーサー・ペンドラゴン
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つまり、アーサーもペンドラゴンと呼ばれていたのなら、ドラゴンを頭につけたり旗を頭上に掲げていたのでしょうか?

 

アーサーの本名はこう書く

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中世のブリトン人は名字を持たない代わりに、あだ名をつけるだけでなく、正式には、親の名前を自分の名前の前に付けていました。

例えば、ウェールズ王室の開祖と呼ばれているキネダ(Cunedda)は、父の名前がエダン(Edern)であり、

キネダ・アプ・エダン(Cunedda ap Edern、エダンの息子キネダ)

と呼んでいました。これが、一般的なブリトン人の正式な名前になります。

 

これを考慮するとアーサー王の本名は(アーサーが本当の名前だとすると)

アーサー・アプ・ウーサー(Arthur ap Uther)となります。

 

参考:

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アーサーは本当に名前か?  

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アーサー王(Arthur)の名前は、アルトリウス(Artorius)やアルトゥース(Arturus)が由来となっているという説があります。

いずれもラテン語でローマ的な名前ですが、この当時のブリタニアは、まだローマ帝国の影響力が残っており、名前もローマ的であっても何ら不思議はないと考えられます。

しかし、アルトリウスもアルトゥースという人物は実際にいなかったという説があります。

ブリトン語にはArtorī(gi)osという言葉があり、これは熊の王を意味し、ウェールズ語のArth「熊」+(g)wr「男」という意味です。

また、牛飼い座の恒星にアークトゥルス(Arcturus)があり、アークトゥルス古代ギリシア語に由来する言葉で「熊の守護者」を意味しています。

つまり、アーサー(アルトリウス、アルトゥース)も、熊を意味する「あだ名」ではないか、と推測できます。

では、アーサーがあだ名なら、いったい本当の名前は何なのでしょうか?

色んな憶測ができます。

 

アーサーがあだ名だったら本名は?

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アーサー王には数多くのモデル人物がいます。
例えば
・ルキウス・アルトリウス・カストゥス
・マグヌス・マキシムス
コンスタンティンⅢ世
・アンブロシウス・アウレリアヌス
・リオタムス
・オウァイン・ダントグウィン

などが挙げられます。

詳しくは:アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた

 

この中で、「アーサー」という名前に最も関連がある人物がいます。
5世紀に現在のウェールズで活躍したオウァイン・ダントグウィンです。ダントグウィン(Ddantgwyn)はあだ名で、白い歯(刃))という意味です。なんとなく、アーサー王の剣、エクスカリバーを彷彿させます。

※他の人物は、すべてローマ的な名前でローマ帝国との関連があります。

 

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オウァインの父は、エイニオン・アプ・キネダと言い、北ウェールズの王でした。エイニオンに、Yrth(せっかち)というあだ名がついており、エイニオン・イースと呼ばれていました。このYrthに男(g)wrをつけてみると、イーサー(Yrthwr、Yrthur)となり、アーサー王の父ウーサー(Uther)に似ていると思いませんか?

また、オウァインには、白い歯(刃)以外に、Bear(熊)というあだ名もあった、という説もあり、ますますアーサーを彷彿させます。


(※オウァインの息子、シンラス(Cynlas)はブリタニアの暴君と呼ばれ、シンラスのあだ名が熊である、という説もあります)

 

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纏めますと、アーサーは「熊」を意味するあだ名で、オウァインのあだ名がアーサーであったのではないか、という説です。(たなかあきらの)

そうすると、アーサー・アプ・ウーサーはあだ名を記したもので、

本名は、「オウァイン・アプ・エイニオン」であったのではないか、と言うことになります。

 

※オウァイン・ダントグウィンは、兄を後継して北ウェールズの王になるはずでしたが、甥のマエルグウィン(Maelgwn)との戦いに敗れて戦死した、という説があります。

マエルグウィンは、アーサー王物語に登場するモルドレッドのモデルとも言われ、マエルグウィンとオウァインは北ウェールズにあるカムランの谷で戦い、アーサー王とモルドレッドが最後に戦ったのもカムランの戦いであり、共通点が見られます。

  

※参考となる記事

・オウァイン・ダントグウィンに関する記事(ストーリー調)

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・マエルグウィンの記事

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中世ヨーロッパ ワインの歴史

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こんにちは、たなかかあきらです。
ワインは中世ヨーロッパでも広く飲まれ、最も高級だけでなく健康的な飲みものとされていました。

また、冷たく水分の多い水などやビールと異なり、適度なワインを飲むと(特に赤ワイン)、代謝を助け、良い血液を作り、気分的にも明るくなるとされていました。

中世のヨーロッパではどんなワインが飲まれていたのでしょうか?

中世イングランドのワイン事情

 

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ブリテン島を含め北ヨーロッパで作られていたワインは、白ワインが中心でした。
12世紀の間、大陸から海を渡って輸入されたワインは、軽く、酸味がある白ワインで、ワインを飲む人々の選択肢は白ワインでした。

 

イングランド国王のヘンリー二世は、フランスのルーアン自治都市の市民に、イングランドにワインを輸出する独占権を与えました。

※ヘンリー2世の時代、多くのフランス領土はイングランドが統治していた

詳しくはこの記事:名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景

 

13世紀になってルーアンがフランスの手に落ちた時、ワインの輸出地は数十年間ラ・ロシェルの港に変わりました。
当時、イングランド市場で売られたポワトヴァン・ワインは、酸味のある白ワインに似ていましt。
1224年に、今度はラ・ロシェルがフランスに奪われた時、イングランドは他のワインの地を探さねばならなりませんでした。

幸運にもボルドーはまだイングランドの統治下にあり、次の二百年はイングランドとフランス間のワイン取引の中心となりました。

 

ボルドー地方のワインは赤ワインでした。このため、白ワイン中心であったワインは赤ワインへと変わっていきました。
しかし、現在我々が店で見るような、血の色に似た濃い赤色ではありませんでした。
中世終わり頃のイングランドのワインはvin ordinaireと呼ばれ、現在のロゼに似た色でした。
現在のclaret(ボルドー地方産の赤ワイン)のもととなるclairetと呼ばれるワインがあり、ピンク色をしていました。

clarryと呼ばれるワインがあったが、claretとは関係がなく、スパイスワインで、はちみつて甘くし、ジンジャー、サフラン、コショウが加えられました。

 

ワインの作り方

現在のつくり方
参考:ワインができるまで | マンズワイン

白ワイン

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白ワイン用のブドウはバスケットに摘まれ、大きな樽の中に入れられる。そして、作業員に踏み潰されたり、木製の板で潰されて、最初のジュースはワインを作るために集められる。
残った搾りかすはプレスされて、さらに液体が抽出される。これは樽の中に入れられ、数日中に発酵が起きる。
樽は発酵のための倉庫に入れられ、発酵のプロセスが上手くいくかポイントとなる、温度は運任せであった。

寒すぎると発酵せず、暑すぎると発酵のプロセスが止まってしまった。
発酵が活発になり過ぎると、樽が破裂したりもした。ライン地方のワインを生産するドイツ人たちは、発酵を促進させるため、樽の倉庫を暖めたりした。

 

赤ワイン

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赤ワインを作る場合、発酵は白ワインよりも長い時間がかかりました。時々、発酵プロセスの前に、茎はブドウから取り除かれ、タンニンの含有量を減らし飲めるようになるまでの時間を短くしました。

赤ワインのブドウは急速に発酵するので、こぼれないように樽の縁まで一杯にする必要はない。またぶどうを踏み潰す人は、二酸化炭素中毒にならないように樽のベルト部分よりも頭を上げていました。

 

一度、発酵が始まると、たいていの場合、数時間のうちに樽は板でふたをしました。 発酵の真っ最中、皮、種、かすは浮いてくるので、すくい取ってワインプレスで圧搾されました。圧搾は3回行われ、回数を経るとともに苦くなりました。
発酵が長ければ、より濃い色のワインになる。 イングランド市場に出ていたpink roséやvin clairet は、1日で飲めるようになった。

 

全てのジュースが、潰したブドウから搾り取られると、残りカスは水と混ぜられ発酵の為に3日間放置された。これは、アルコール度数約2%のほとんど色の無い飲み物で、
piquette ピケット酒やbuvandeと呼ばれました。

安く貧しい人やのどが渇いた労働者が飲んだ。最後になったカスは、藁と混ぜて畑に廃棄された。

 

 

ワインの品質は、醸造年や地域、ぶどうの種類や何度目の圧搾を使うかによって大きく変わります。最初に圧搾したぶどうは、純度が高く洗練されていて、上流階級向けの最も高いワインとなりました。

2度目、3度目に圧搾したぶどうは、品質が落ちていき、一般の人々は2~3度目に圧搾した赤ワインを飲みました。さらに最も貧乏な人々は、水割りのお酢が唯一の選択肢でした。

高い品質のワインを熟成させるには、専門的な知識と高額な貯蔵庫と装置が必要で、さらにワインの値段は高くなりました。

 

ワインの品質を復活させる方法

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中世ヨーロッパの多くの文書から判断すると、傷む兆候のあるワインを回復させるには、保管方法が問題でした。

お酢は一般的な材料成分であるが、ワインに使われるのはわずかでした。 

14世紀の料理本ル・ビアンディエには、ワインを生き返らせる方法が書かれています。

《ル・ビアンディエ》(るびあんでぃえ)とは - コトバンク

 

当時は化学的なプロセスは分かっていませんでしたが、ワイン樽はいつも一杯にしておく、乾燥させて茹でたぶどうの種と、乾燥させて焼いた白ワインの搾りかすの灰を混ぜたものを加えると、殺菌効果が高かったそうです。

 

スパイスワイン

 

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砂糖や香料を入れて温めたワインは、裕福な人々に人気があっただけでなく、とても健康的な飲み物だと医者も考えられていました。

 

ワインには、潤いを与える加湿器のようにはたらいたり、食材の栄養素を全身に行き渡らせる導管の役割があり、香料やスパイスを加えるとより健康に良い、と信じられていたのです。

スパイスが加えられたワインは通常、赤ワインに、ジンジャー、カルダモン、ペッパー、グレインズ・オブ・パラダイス、ナツメグクローブ、砂糖を組み合わせました。

中世ヨーロッパでは、お金持ちは(当時とても高かった)スパイスをワインを入れていました、そして貧乏な人は、その地方のフルーツを入れていました。

これらのスパイスは小さな袋の中に入れてワインに浸したり、見せかけのワイン(hypocras)やスパイスワインを作った。

14世紀まで、小袋に入ったスパイスは、すぐ使える既製品として、スパイス商人から買うことができました。

  

※グレインズ・オブ・パラダイス

アフリカ・ガーナ産のショウガ科香辛料:スープやシチューに入れるスパイスとして親しまれると同時に、咳、気管支炎、消化不良、リウマチなどの生薬としても使用されています。

※Hypocras  の名前は hypocrite (偽善の、見せかけの)な vin (ワイン)と言う意味で、はあまり保存状態の良くないワインに、様々なスパイスやはちみつを入れて作りました。

 

 ※スパイスを入れ温めたワインの動画

 

youtu.be

 

参考文献:
The History Girls: WHEN CLARET WAS PINK: Wine production in the Middle Ages by Elizabeth Chadwick

Oldcook : hippocras, medieval spiced wine, ypocras, ipocras, hipocras

http://coquinaria.nl/en/clareit/

  

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中世ヨーロッパで最も進化した法律 ウェールズ法はどんな内容なのか

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時代は9世紀のウェールズ
ロドリ大王の時代にウェールズは初めて統一されましたが、子や孫に後継していく中で、領土争いが続いていたのでした。

ウェールズを安泰にするためにも、乱世を終了させて強い国づくりに取り掛かっていかなければなりませんでした。

 

[:contents]

 

当時のウェールズの情勢 

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中世のウェールズは主に4つの国に分かれており、今回お話をする10世紀では、
その中心となるウェールズ北部のグウィネズを治めるイドワル・ヴォエル(Idwal Foel)と、西南部のデハイバースを治めるㇵウェル・ザ・グッド(Hywel the Good)の対立が続いた乱世の時代でした。

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(当時の勢力図。右の緑色はイングランド

 

 

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当時のイギリスで最も最強な国はイングランドで、927年にイングランド王国を建国したアゼルスタンが王に就いていたんだ。そのアゼルスタンとイドワルは同盟を結び、ウェールズ内で力を誇っていました。

アゼルスタンはウェールズの他の国にも忠誠を誓わせようと、イドワルの敵であるㇵウェルとも同盟を結んだのです。

    

 

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イドワルは、アゼルスタンがㇵウェルと懇意にするのを妬み、さらにハウェルの勢力が強くなるのを恐れるようになりました。

アゼルスタンが亡くなった後、エドムンドが後継し王となり、ハウェルは引き続きエドムンドと同盟を結んだけれど、イドワルはエドムンドと同盟は結びませんでした。

 

 

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そしてこのタイミングとばかりにイドワルはイングランドに攻め込み、エドムンドを倒しハウェルの勢いも止めようとしました。

イドワルの行動は無謀だったようで戦死し、その隙をついてㇵウェルがイドワルの領土グウィネズに攻め入り、再びウェールズをほぼ支配しました。

 

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軍配はㇵウェルに上がったわけですね。

 

ウェールズ法を作った理由

 

 

 

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再びウェールズを戦乱に陥らないようにする手を打たなければなりませんね。

 

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そうなんですよ。ウェールズで争いが起こらないように国を統治する仕組みを強化する必要があり、そのために法を作ることが必要不可欠だ、とハウェルは考えました。

ウェールズ内の内乱を防ぐだけでなく、イングランドなど強い外国からも身を守る必要がありましたからね。

 

 

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ところが、ウェールズにはきちんとした法律はなかったし、法律の知識をもった人物もいなかった。そこで、ㇵウェル自ら法律の猛勉強をしました。

ウェールズの王として初めてローマ巡礼をし、そこで最新の法律を学び、更にヨーロッパ、イスラムギリシャ、アラブ、ラテン諸国の法律も学びました。

そして、それぞれの法律の良いところを結びつけて独自の法律を作りました。

 

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すごいですね。ㇵウェルは努力家でアイディアマンなんですね。ウェールズ法はどんな内容なのですか?

 

ハウェルの作ったウェールズ法の内容

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ハウェル・ザ・グッド王

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ㇵウェルが作った法律の内容は、犯罪、財産、相続の内容から女性の自由と権利まで決められている現代的な法律であったのです。ちょっと紹介しておこう。

 

法廷に関する法律

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24人の裁判所で働く役人の役割について決められている。

王の従者の長、執事、鷹匠、王宮の詩人なども含まれており、使用する特別な椅子、役割、報酬、宮廷での地位が決められていた。

例えば、宮廷の馬の手入れをする人は、王の宮廷で寝たり食べたりを許され、主人のベッドを作り飲み物を注ぐ。報酬として、王の寝巻のお下がりも含まれる。

(解説)王を頂点とし、ウェールズの血を引く貴族、農民(彼らは自由民)、外国人から底辺の奴隷に至るまで、全ての人々は、社会の中で適切な地位を与えられた。

この階級社会の中を動くことは困難であった。農民が学者になることも、鍛冶屋になることも、詩人になることも、領主の許可が無ければ地位を変えることはできなかった。

 

領土の相続に関する法律

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領主が死去すると、領土は彼のすべての息子たちに均等に分配される。最も若い息子が領土を分割し、最も年長の息子から選んでいく。たとえ非嫡子(母親が側室)であっても、同じように財産を受け継ぐことが出来る。

(解説)これは、とても公平な法律であるが、世代世代を経て続いていくと、強い国家を形成する妨げになる可能性があった。ハウェルの努力にもかかわらず、彼の死後、統一されたウェールズの国は、ハウェルの息子や、イドワルの息子たちにバラバラに分断された。

 

犯罪や罰則に関する法律

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殺人に対しても死刑にはならなかった。その代わり、殺人犯の家族は7世代にわたって、被害者家族に補償金を支払わなければならなかった。その金額は、どんな社会的な地位の人物を殺人したかによって決められた。しかし、他人の財産を盗んで捕まった泥棒は、首吊りとなった。

法律は、すべての種類の物に関して非常に細かく正確に、価格を記した。たとえば、固いカシの木は120ペンス、きつねの毛皮は8ペンス、生まれたばかりの猫は1ペンスで目が開くと2ペンス、ネズミを捕まえるようになると4ペンスとなった。

食料を盗んで捕まった者で、飢えた家族を養うために3日間物乞いをして何も得られなかったことを証明できれば、寛容な処置がとられた。

 

女性に関する法律

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女性は弱く体格的にも劣っており、領主に守られる必要があると考えられた。女性の殺人や侮辱に対する罪は、その女性の保護者の社会的な地位によって決められた。

ウェールズ人の女性たちは特に結婚に関して、他のヨーロッパ諸国より自由でいろいろな権利を持った。

結婚は法的な契約であり、宗教上の儀式ではない。夫が深刻な病気になったとき、とても息が臭い場合、性的な交渉に欠陥が生じたとき、女性は夫と離婚することが出来た。7年以上結婚生活を続けていれば、夫の財産の半分を得る権利が与えられた。

 

 

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なるほど。ㇵウェルは先見の目があったかも知れませんね。 

 

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ㇵウェルの作ったウェールズ法は「ㇵウェル・ザ・グッドの法」とも呼ばれ、その後ヘンリー8世に書き換えられるまで約600年にも及び効力を発揮したという、当時では最新の法律で、法律の基礎になりました。

そのㇵウェルも当初は後継争いで親族と争い、その経験も生かされてたのではと思います。

 

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※英語とウェールズ語ですが分かりやすく纏められた本です。

 

最後まで読んでくださり有難うございました。

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