逆襲のプリンス、立ち上がる英雄、イングランドへのウェールズの抗戦

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こんにちは、たなかあきらです。
13世紀の終わり、1282年にネイティブのプリンス・オブ・ウェールズイングランドに倒されて、ウェールズイングランドに征服されてしまいました。

第8話では、13世紀後半~15世紀初めまでのウェールズの奪回をかけた反乱の時代について、お話しいたします。  

※時代の区切りや呼び方は筆者が独自に表現しているものです

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ウェールズ反乱と自称プリンス・オブ・ウェールズ

 

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1282年にラウェリン・ザ・ラストがイングランドエドワード1世に敗れ、プリンス・オブ・ウェールズの王冠を取られ、称号も取られ、ウェールズは征服されてしまった。

 

 

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ウェールズの人々や貴族・領主たちは、イングランドに抵抗はしなかったのですか?

 

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プリンス・オブ・ウェールズウェールズの人々にとって誇りある称号で、魂を取られたのも同然だ。奪い返さないと、自分がプリンス・オブ・ウェールズだ!と非公式にも宣言し、イングランドに反乱を起こした人物もいるんだ

 

ウェールズの大規模反乱を起こしたマドック

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1282年にウェールズイングランドに征服されてすぐの1294年~1295年、ウェールズの国中に反乱が広かったんだ

反乱のリーダーはマドック・アプ・ラウェリンと言うウェールズ王室の人物で、自らプリンス・オブ・ウェールズを名乗って、ウェールズ独立を試みたんだ

 

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やっぱり、そうこなくっちゃ。マドックは活躍したのですか?

 

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マドックは結構頑張って、イングランド軍を打ち破りコンウィ城に後退させ、立てこもったエドワード1世を包囲したんだ

 

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マドックやりますね。勝ったんですか?

 

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しかし、1295年にイングランドのウォリック伯がマドックに急襲し立て直したイングランド軍に形勢を逆転され、マエス・モイドッグの戦いで敗戦し、(the battle of Maes Moydog)投獄されてしまったんだ

 

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マドック残念 !

 

フランスで活躍したオウァイン

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ラウェリン大王の曾孫にオウァイン・ラウゴッホ(Owain Lawgoch、赤い手のオウァイン)と呼ばれる人物がいたんだ

ラウゴッホはフリーカンパニーと呼ばれる政府から独立運営していた傭兵団のリーダーだったんだ

 

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オウァインの傭兵団はどんな戦いに参加して活躍したのですか?

 

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オウァインは自称プリンス・オブ・ウェールズを名乗り、14世紀のイングランドとイギリスの100年戦争でフランス側に加担して、イングランドと戦ったんだよ(ポアティエの戦いなど)

 

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フランスじゃなくイングランドとですか? 

 

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直接ウェールズイングランドじゃなく、間接的にイングランドに挑んだのかも知れないね。だからと思うが、ウェールズに戻る前にフランスで殺されたんだ 

最後の英雄、プリンス・オブ・ウェールズが現る

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オウァイン・グリンドゥール像

 

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その後、14世紀のウェールズは暫くの間はイングランドに平定されていたんだ

しかしベストが流行し、またイングランドとフランスとの100年戦争の戦費を得るために、ウェールズに重税をかけたことから、ウェールズの人々のイングランド支配に対する不満がたまってきたんだ

 

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また、だれか救世主みたいな人物がウェールズに登場するといいですね

 

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その期待に応えて、14世紀末にウェールズの支配を取り戻そうと期待がかかったウェールズ貴族がいたんだ。オウァイン・グリンドゥール(オウァイン・アプ・グリフィズ)だよ  

 

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オウァイン・グリンドゥールはどんな人物で、どんな活躍をするんですか?

 

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オウァインはウェールズの中の国、ポウィスの統治者の息子で、母親からはグウィネズとデハイバースの統治者の血筋を受け継いだんだ

 

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オウァインはバリバリのウェールズ王室の王子じゃないですか

 

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そうだな。オウァインはほとんど全てのウェールズ王室の血筋を受け継いでいたんだ。

しかし、オウァインは楽天家で、人々の期待に答えなかったんだ。なかなか救世主が現れる道のりは遠かったんだ

 

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オウァインはダメだったのですか?そんな王室の血筋を引いているのに、なぜですか?

 

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オウァインは少年時代に父親を亡くし、イングランドの貴族に引き取られて、法律家になるよう英才教育を受けたんだ

オウァインはイングランド王室へ忠誠を誓いリチャード2世に仕え、ウェールズ人でしたがイングランド法廷へも出入りを許されていたんだ

 

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ウェールズ王室だけど、イングランドで育ちイングランドに雇われていたんですね

 

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そんな中、ウェールズの人々はヘンリー4世のウェールズに対する圧政に不満を感じ、オウァインにイングランドに対抗するように懇願したんだ。 オウァインはイングランドで、何の不自由もない恵まれた暮らしをし、戦いも好まなかった。 

だから、オウァインにはイングランドと戦う理由がなく人々の要望を断ったんだ

  

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なるほど。まあ、そうですよね。イングランド派ですよね

 

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さらに隣国のイングランド侯爵が、オウァインの領土を奪い始めた時も、オウァインは、気にもかけず静かに状況をみているだけで動こうとしなかったんだ

 

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自分の領土が奪われているのに、オウァインは何という楽天家なのですか!

 

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オウァインは法律家になりたかったので、少々土地を奪われても興味なかったかもね。争いを起こすより仲間と楽しく過ごす方が良かったようだ 

 

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しかし、ウェールズとオウァインの事態はどんどん悪くなっていったんだ。イングランドウェールズでの非道ぶりに耐えきれず、司教たちがイングランド議会に訴えますが無視されたんだ。さらに、ヘンリー4世からはオウァインは反逆者だとレッテルをはられ、討伐例が下ったんだ

 

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それは大変だ。今度はオウァイン、動かざるを得ないんじゃないですか?

 

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ハーレック城

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さすがに、オウァインも堪忍袋の緒が切れた様だ。1401年、世界遺産のハーレック城を拠点に、オウァインは自らプリンス・オブ・ウェールズを名乗り、イングランドに反乱を起こしたんだ

  

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とうとう、ウェールズを率いてオウァインがイングランドに立ち向かった。どうなるか、ワクワクしますね

 

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オウァインは持ち前の優しく温かな魅力を発揮して、イングランド王に不満を持つ諸侯を仲間に取り込み、次々とイングランド軍を破り、勢力を広げたんだ。そして、フランス王の協力まで得ることができたんだ

 

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これ、ひょっとしてウェールズの大逆転ですか??

 

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オウァイン・グリンドゥールの行動を年代ごとに見てみよう

 

1400年:オウァイン・グリンドゥールの反乱が始まる
1401年:反乱は広がりイングランド軍に初めて勝利(Mynydd Hyddgenの戦い)
1402年:イングランドは法律を作り( Penal Laws against Wales)、ウェールズ討伐にのりだす

 

1402年:ブリン・グラスの戦いで(the Battle of Bryn Glas,)、エドムンド・モーティマー率いるイングランド軍に大勝利。フランスなどもオウァインの反乱を支持
1403年:本格的に反乱はウェールズ全体に広がる

1404年:ハーレックに拠点を置き、プリンス・オブ・ウェールズを宣言。議会を置き法律も見直す
1404年:ヘンリー4世に反逆した、エドムンド・モーティマー(マーチ卿)、ヘンリー・パーシー(ノーサンバーランド伯)とイングランドウェールズの領土分割計画を立てる
1405年:フランスと協定を結びイングランド王打倒に乗り出す。フランス軍イングランドに上陸

 

1405年:フランスの方針が変わり、フランス軍は撤退。イングランド軍の反撃が始まりる
1407年:アベリストウィス城がイングランド軍に降伏
1408年:ヘンリー・パーシーはグラムハム・モールの戦いで戦死(Battle of Bramham Moor)
1409年:エドムンド・モーティマーがハーレック城で戦死

グリンドゥールの反乱は続くも、勢いを落とし、自然消滅的に消える
1415年:グリンドゥールは亡くなったとされる

 

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ん~残念

 

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一時は、ほぼウェールズ全域を掌握したんだけど、フランス軍が事情により本国に帰ってしまい、もうあと一歩というところでイングランド打倒計画は流れてしまったんだ

これによりイングランド軍は立ち直り、ウェールズ軍を崩し始めたんだ。オウァインもついにイングランド軍に大敗北し、反乱の勢いは徐々に衰え始めたんだ。

1415年頃、最後のプリンス・オブ・ウェールズ、オウァイン・グリンドゥールの反乱は自然消滅していったんだよ

 

その後のウェールズ 

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最後のプリンス・オブ・ウェールズも消えた。もうこれで完全にウェールズイングランドに征服されたんですね

 

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ウェールズイングランドの一部になるのは16世紀だ。その頃、実はウェールズの勢いが復活していたんだ

 

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ウェールズイングランドに吸収されたのに?なぜ、ウェールズの勢力が増すのですか?

 

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イングランド王室の権力争いである「ばら戦争」の最後の戦いとなったボースワース野の戦いが1458年に起きるんだ

ウェールズ王室の血を引き継ぐヘンリー・テューダーは赤薔薇のランカスター軍を率い、白薔薇のヨーク軍のリチャード3世を破り、ヘンリー7世としてイングランド王となったんだ。

こうしてウェールズ王室の血はイングランド王室に受け継がれることになり、多くのウェールズ貴族がイングランドの要職についたんだよ

 

番外編へつづく

 

※オウァイン・グリンドゥールに関する記事

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最後まで読んでくださり有難うございました。

 

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