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イギリスとフランスの100年戦争の分かりやすい概要

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クレシーの戦い

 

こんにちは、たなかあきらです。
今回は、イングランドとフランスの間で起きた、100年戦争について、概要を分かりやすくお話したします。

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100年戦争が起きるまでの、イングランドとフランスの関係について、100年戦争が起きた直接の原因、実際の100年戦争はどんな戦いだったのか、お話いたします。

 

100年戦争とは?超概要

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100年戦争とは、1337~1453年の間(諸説はあります)、フランスを戦場にイングランド王とフランス王の間に起き、約100年間断続的に続いた戦争のことです。イングランドとフランスの国家間の争いではなく、フランス王位継承および、フランス領土の所有権に関する、フランス王とイングランド王の戦争です。

イングランド軍が優勢に進め、一時はフランスの半分の領土を占領しました。しかし、ジャンヌ・ダルクが登場してから形勢は逆転し、イングランド軍は最終的には敗北しカレー以外の領土を失いました。

 

100年戦争の起きた背景(イングランド王とフランス王の対立)

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100年戦争が始まる250年ほど前の1066年、フランスのノルマンディー公ギョーム2世が、イングランドを征服してウィリアム1世としてイングランド王になりました。

イギリスの歴史を変えたノルマンコンクエスト

その時以来、フランス語を母国語とするノルマン人がイングランド王となり、同時にフランスにも領土を持っていたのです。

4代目のイングランド王はヘンリー2世で、ヘンリー2世の父はフランス王国の有力貴族であったアンジュー伯ジョフロワ4世の息子です。ヘンリー2世はフランスにある父の領土とイングランドの領土と、広大な領土を受け継ぎ、アンジュー帝国と呼ばれたのです。

 ヘンリー2世の名作映画「冬のライオン」のイングランド王室の歴史背景

※図中のピンク系の色と褐色の部分がヘンリー2世のフランス領土(西の大部分)
南部がアキテーヌ、北部がノルマンディー、北西部がブルターニュ、中央部の一部がアンジュー

ウィキペディアより)

 

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その後のイングランド王フランス領内での勢力を広げようとし、逆にフランス王はイングランドが所有している領土を支配しようと、両国王の対立は続いていました。

13世紀のイングランド王、ジョン王の時には、ノルマンディーの領土などをフランス王のフィリップ2世に奪われていました。イングランド王はノルマンディーなどを取り戻そうと、フランス王はさらに領土の所有権を広げようと、対立を深めました。

名前の永久欠番 イングランド国王のジョン王 

 

そして、この対立は複雑なものになっていきました。
フランス内の有力貴族である、フランドル伯とブルゴーニュ公はイングランドと同盟を結び、一方フランスはスコットランドと同盟を結び、国家がバラバラになる状況でした。

 

100年戦争が始まった直接の原因

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100年戦争が、イングランド王とフランス王の間で起きた直接の原因は、フランス王位継承の争い、フランス領土の所有権をめぐる争いでした。

 

①王位継承の争い

カペー家のフランス王シャルル4世が世継ぎを残さずに亡くなり断絶すると(カペー家からのフランス王15代、約340年続いていた)、イングランドエドワード3世は王位継承を要求してきました。(プランタジネット家)

というのも、エドワード3世の母イザベラはカペー家出身で、フランス王フィリップ4世の娘だったからです。

 

これに対して、フランス側はシャルル4世の従兄にあたるバロア伯を擁立し、フィリップ6世としてフランス王にしたのです。(バロワ家)

これにより、イングランド王とフランス王の間に対立が生じました。
プランタジネット家とバロワ家の王位継承争い)

カペー朝 - Wikipedia

プランタジネット朝 - Wikipedia


②領地の争い

フランドル地方とギエンヌ地方(アキテーヌの西岸)の領土あらそいです。イングランドから輸入する羊毛を原料として、毛織物産業が盛んであったフランドル地方の支配権をめぐる争いと、ワインの産地として重要なギエンヌ地方をイングランドからフランス王が奪回しようとした争いです。

 

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ローマ教皇の権力低下

中世のヨーロッパでは国王間で王位継承や領土問題で対立が生じた場合、ローマ教皇が争いの仲介役をになっていました。しかし、100年戦争が起きた頃、ローマ教皇はフランス王と対立したアヴィニョン捕囚の時代で(1309年~1377年)、ローマ教皇の座がローマからフランスのアヴィニョンに移されて監視され、フランス王の言いなりになっていました。

またローマに教皇が戻った後、1378年からはアヴィニョンとローマにカトリック教会が分裂し(教会大分裂)、長きにわたって、ローマ教皇が国王間の対立を調停する役割を果たせませんでした。

このことが、イングランド王とフランス王の戦争を長引かせた原因の一つに挙げられます。

 

戦争(交戦)の概要

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100年戦争はイングランドとフランスの両国の情勢にもより、和平協定を繰り返しながら継続しました。

100年戦争の初期(イングランドの攻勢)

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ポワティエの戦い

 

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イングランドエドワード3世が、フランス王位の継承権を主張してヴァロワ朝のフィリップ6世に挑戦状を叩きつけ、100年戦争は始まりました。

イングランド王のフランス遠征は1339年に始まり、実際の戦闘は1340年に始まりました。スロイスの海戦(1340年)ではエドワード3世が、ロングボウ隊を引き連れフランス艦隊を撃破し、ドーバー海峡制海権を握りました。

その後、エドワード3世の息子、エドワード 黒太子 の活躍により、クレシーの戦い(1346年)、ポアティエの戦い(1356年)でロングボウを操るイングランド軍が、フランス騎士軍を破り、フランス王ジャン2世はイングランド軍の捕虜となってしまいました。

その他:イングランドの拠点となったカレー包囲戦(1346-47年)での勝利

そして、1360年にプレティニー・カレーで条約が成立し、ジャン2世は解放され、イングランドは領土を拡大しました。

 

※しかし1347年に黒死病(ペスト)が大流行し、英仏両国に大きな打撃を与え、また1358年にはフランスではポアティエの敗北にともなう重税に苦しむ農民がジャックリーの乱を起こすなど、国内情勢も悪化しました。

 

100年戦争の中期(休戦そして両国内の対立) 

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その後、フランスが一時戦勢を戻し、エドワード黒太子の息子でイングランド王リチャード2世とフランス王シャルル6世の間で、1375年に和平条約の締結が話し合われ始めました。

その後散発的な戦闘が行われましたが、1396年にリチャード2世とシャルル6世との間で1428年までの全面休戦協定が結ばれました。

この休戦はイングランド内で対立が生じたのも要因でした。側近を重用しすぎるリチャード2世と議会側がなどが争い、1399年に議会はリチャード2世を逮捕しロンドン塔に幽閉しました。

そして、1399年にリチャード2世は退位させられ、ヘンリー4世が後継しランカスター朝が始まったのです。


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また、1400年に入るとフランスでも内乱が勃発しました。ヴァロワ朝のシャルル6世が脳神経疾患を発症し、弟オルレアン公ルイと従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世が権力を競い合ったのです。

1407年にブルゴーニュ公がオルレアン公ルイを暗殺したため、ブルゴーニュ派とオルレアン・アルマニャック派が激しく争ったのです。

両国内でも争いが激しく生じたのです。

100年戦争の後期(ジャンヌの登場)

英仏合体か??

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イングランドはフランスの内乱に乗じてノルマンディーに上陸します。そして、当時のイングランド王ヘンリー5世はブルゴーニュ派と1415年に同盟を結び、アジャンクールの戦いで大勝したのです。さらに、イングランド軍はルーアンを陥落させてノルマンディー一帯を掌握しました。

そしてヘンリー5世とシャルル6世は1520年に休戦協定を結びます(トロワ条約)
シャルル6世のフランス王は認めるものの、娘であるキャサリン・オブ・ヴァロワとヘンリー5世は結婚し、ヘンリー5世および彼らの息子(ヘンリー6世)を、シャルル6世の後継者とするものでした。

1522年にヘンリー5世は病に倒れ早世し、同じ年にシャルル6世もなくなってしまいました。

 

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ブルゴーニュ派と同盟を結んでいるイングランドは、ヘンリー5世の息子で幼児のヘンリー6世が、イングランドとフランスの両国の王として即位します。

これに対し、オルレアン・アルマニャック派はシャルル6世の子のシャルル王太子をシャルル7世として即位させフランス王は分裂しました。

ジャンヌ・ダルクの登場

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ブルゴーニュ派と手を結んでいたイングランド軍は、オルレアンを陥落させ一気に勢力を広げる作戦にでました。

1428年にイングランド軍がオルレアン・アルマニャック派とシャルル7世の拠点オルレアンに対する総攻撃を開始、シャルル7世は包囲され危機に陥ってしまいました。

 

そこで登場したのが、ジャンヌ・ダルクです。

1429年、ジャンヌに勇気づけられたフランス軍は反撃を開始し、オルレアンを解放し、シャルルも無事にランスで戴冠式を行うことができました。

ジャンヌ率いるフランス軍はパリ攻略に向かいましたが、ブルゴーニュ派の兵士に捕らえられてイングランド軍に引き渡されます。宗教裁判にかけられ異端の判決がくだり、1431年にジャンヌは火刑になってしまいました。

ジャンヌダルクの生涯が分かる映画 「ジャンヌ・ダーク」

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しかし、ジャンヌの登場によりフランス軍に欠けていた士気と団結の機運が高まり、オルレアン解放の後は、形勢が逆転しました。

1431年にフランスはブルゴーニュ派と休戦し、さらに1435年にシャルル7世はブルゴーニュ派とアラスの和約を締結して同盟を結びました。これによりブルゴーニュ派とイングランドの同盟は破棄され百年戦争終結へ向かいました。

フランスは一致して反撃に転じ、1436年にはパリを奪回し、1450年に、フォルミの戦いでイングランド軍を破りノルマンディーを奪取、1451年にはルーアンを解放、1453年のカスティヨンの戦いでフランス軍は対象しボルドーを奪取しました。


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これによってカレーを除いてほぼフランス本土からイギリス支配地はなくなり、百年戦争終結しました。

 ※イングランドとフランスの領土の変遷 

 

 (ウィキペディアより)

 

100年戦争の後のイングランドとフランス

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両国とも封建領主や騎士の力が没落し、王権による統合が進み、国家のしくみが変わりました。

フランスは国土の統一的な支配を実現してヴァロワ朝のシャルル7世のもとで王権による支配(絶対王政)が強化されていきました。

ところが、イングランドでは100年戦争で敗北したヘンリー6世は気が狂う発作が起き、国政を行えなくなってしまいまいした。ランカスター家とヨーク家の王位継承争いから諸侯が二陣営に分かれて争うバラ戦争に突入していったのです。

www.rekishiwales.com

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100年戦争を舞台にした漫画

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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