(18.7.28更新)
こんにちは。ウェールズ歴史研究家、たなかあきらです。
イギリスの長い歴史を振り返っていますと、中世までの概要は下記になります。
・1世紀~5世紀まではローマ帝国の支配下
・ローマ帝国がグレートブリテン島から撤退した後、しばらくはウェールズ人の祖先であるブリトン人が統治
・ウェールズ人同士の領土争いの内乱やアングロ・サクソン人(現在のイングランドの原形となる国々)との戦い
・更にフランスからやって来てイングランドを征服したノルマン人の侵略に合いやがてウェールズも征服
その中で、今回は現在のイギリスがブリタニアと呼ばれ、ローマ帝国に支配されていた時代について、お話いたします。
この記事の改訂版は下記になります。
※改訂版のウェールズ歴史一覧
※ウェールズ中世の歴史年表概要
ローマが去ってウェールズとブリタニアに国が戻った
イギリスがローマ帝国に支配されていた時代がったんですね。どんな時代だったのですか?
ブリタニアと呼ばれていたイギリスは、紀元43年にローマ帝国に侵略され支配をされたんだ。ローマ帝国の高級軍人が司令官として任命されていて、この司令官のもとブリトン人の首長たちは領土の自治を行ったり、ピクト族やスコット族などの外敵から守る辺境警備をした、という時代だよ。
(※ブリトン人は当時イギリス一帯に住んでいたケルト系民族でウェールズ人の祖先)
何か複雑ですね。
分かりやすく例えてみよう。日本の平安時代では、朝廷が国司である〇〇守を派遣して豪族たちを支配していただろう。ブリタニアではローマ朝廷が、ブリタニアの守を派遣して、ブリタニアの各首長たちを支配していました。という感じだね。
何となく~イメージがわいてきました。
ウェールズを含むブリタニアでは、ローマ朝廷の力が弱まって来ると地方豪族の各首長の力が強くなり各国を自治するようになったんだ。5世紀初めにローマ朝廷がブリタニアから去った後は、北部のコエル・ヘンなどの影響力を持った首長たちが王となって、ローマ帝国の代わりにブリタニアを治めるようになったんだよ。
そうすると、ブリタニアの領土がまた元のブリトン人の手に戻った、ということですか?
その通り。少しウェールズやブリタニアの歴史に慣れてきたようだな。
ブリタニアは拡大より安定、戦いより友好の考え
質問があります。ローマ支配の時にブリタニアの人々は、自分たちの国を取り戻そうとしなかったのでか?
おっ、良い質問だな。首長たちは、お互いけん制し合うことはあったものの、国を取り戻そうとローマに戦いを挑んだり、首長同士で自治権を争ったりはしなかったんだ。むしろローマ軍に従い、北からのピクト族(スコットランド)や、西からのスコット族(アイルランド)の侵略に対してする辺境警備に従事しながら、着実に自国を強くしてことに力を注いだようなんだ。
何というか地道というか・・・
そう見えるかもしれないが、君と違って弱気だったりしたわけじゃないんだよ
・・・・・
確かにローマに支配され始めたころは反乱が起きていたけれど、ブリタニアの人々は、自分たちのアイデンティティを認めてもらえれば、むやみに戦いはせず友好的な関係をつくろうという民族性があったようです。
そのためか、ブリトン人の末裔が住むウェールズやスコットランドの南部の人々も、領土を広げるような争いはあまりせず、自分たちの領土はしっかり守っていくという姿勢をとったので、かなり長く国が存続したと思うんだ。
なるほど。今の世界でも十分通用しますし、学べる考え方ですね。この時代で活躍した王にまつわる話など教えてください。
英雄が多く生まれたウェールズ
西ローマ皇帝になった人物
4世紀初め、コンスタンチン一世がローマ皇帝の時、さほど位の高くないローマ地方総督がブリタニア司令官に任命されました。
ブリタニアの人々はとても誇りが高く、低級軍人がブリタニア司令官であるということは、自分達が見下され軽く扱われている、植民地扱いでないか、とひどく腹を立てます。
当時のブリトン人の有力な首長の中で、現在の北部ウェールズに住んでいたエウダヴ・ヘンは兵を挙げ、ブリタニア司令官に反旗を翻しました。エウダヴはローマ軍に一度は勝利するものの、敗れてノルウェーに逃げ計画はいったんは失敗に終わりました。
ところが、エウダヴを支持する人々が再度兵を挙げました。仲間たちの協力でエウダヴは勢いを盛り返し、ローマ軍に勝利して司令官の座を奪取しました。
ところが、ここで大きな懸念が生じました。ローマ軍に勝利したものの、ローマ軍が本気になって攻めてくることを恐れがあったのです。
そこで、エウダヴはローマ帝国と和解する方法を考えました。ローマ軍ナンバー2の軍人、マグヌス・マキシムスを自分の娘と結婚させました。さらに、マグヌスを自分の後継に選んでブリタニア司令官の座を譲り、両国の間に出来た溝を平和的に解決しましたのです。
しかし、この後継選びが問題となり、今度はウェールズ内で争いとなりました。エウダヴの甥にコナン・メリアドクという男がおり、密かに「将来はブリタニアを支配するぞ」と野望に燃え、子供が居ないエウダフ・ヘン王の後継を狙っていたのです。
マグヌスに後継の座を譲られては、自分の野望計画が大幅に狂ってしまう。コナンは大いに腹を立て、マグヌスを倒し後継者の座を奪い取ろうと戦いをしかけたのです。
しかし、マグヌスはローマ軍のナンバー2の強者。コナンが敵う相手ではなく負けてしまいました。コナンは態度を大きく変えマグヌスと和解し、右腕として共に戦うことになりました。
※コナン・メリアドグの記事
一方、4世紀後半380年頃の西ローマ皇帝はグラティヌスで、ローマ軍人達への待遇を軽んじたため、大きな不評を買っていました。不満をもつローマ軍人たちはマグヌスの元へ終結します。マグヌスは軍人たちの支持をバックに反乱を起こし、グラティヌスを倒して西ローマ皇帝になりました。
コナンは報酬として現在のブルゴーニュー地方の領土を譲り受け、ケルト系のブリトン人を大勢連れて移住しました。このため今もブルターニュ地方には多くのケルト系民族が多く住んでいると言われています。
西ローマ皇帝に上り詰めたマグヌスは、勢力範囲を広げることを止めず暴走し始めます。とうとう東ローマ皇帝テオドシウスに破れマグヌス・マキシムスの乱は終止符を打ちました。
メン・オブ・ノース
その後ブリタニア司令官には北部の有力者コエル・ヘンが務め、ブリタニアで広く勢力を持ちました。コエル・ヘンの一族はメン・オブ・ノースと呼ばれ、ローマ支配時代以降、アングロサクソン族に占領されるまで広く北部ブリタニアの地を統治しました。
4世紀末になると、ローマ帝国自体がバンダル族やゴート族に攻撃されブリタニアに兵を置いておくことが困難となり、イギリスでのローマ帝国の影響力が低下していきました。410年のホノリウス帝の時にローマ軍はブリタニアから撤退して、事実上ローマ帝国支配が終焉しました。
※ローマ軍が撤退する前後のブリタニア司令官はコンスタンティン三世やコンスタンス二世であり、アーサー王物語によりますと、コンスタンス二世はアーサー王の叔父、コンスタンティン三世は西ローマ皇帝でアーサー王の祖父とされています。
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最後まで読んでくださり有難うございました。
コメント
ローマ朝廷の力が弱まって来ると地方豪族の各首長の力が強くなり各国を自治するようになったんだ。ローマ朝廷が去った後はコエル・ヘンなどの影響力を持った首長たちが王となってというところは、戦国時代みたいです。
外国の歴史もロマンがいっぱいですね。
ローマ時代はテルマエロマエの時代ですね。面白い記事、楽しいお話、ありがとうございます。
id:nezuzyouzi 様
ご興味持ってくださり、コメントもいただきありがとうございます。おっしゃる通り戦いあり、ロマンあり、その背景の人間模様あり、ウェールズの歴史もとても面白いです。ローマとの絡みも興味深く、テルマエロマエに出てくるハドリアヌス帝は2世紀の賢帝で、イギリスにはハドリアヌス城壁を建設するなど影響を残しています。また読んでくださると嬉しく思います。
イギリスとローマは関係ないと思っていたけれど違うんですね。ヨーロッパはつながっているから違う国でも何かしら国同士が影響しているんですね