こんにちは。たなかあきらです。
ブルターニュはフランスの北西部にあり、イギリス海峡に面したブルターニュ半島に位置する地域です。
ブルターニュに住んでいる人々は、ケルト系民族でブレトン人やブルターニュ人と呼ばれています。
この「ブルターニュ」という名前は、現在のイギリスやイタリア(ローマ帝国)との関連も深く、歴史を振り返ってみると起源が分かります。
今回は古代~中世のブルターニュの歴史を簡単に述べながら、ブルターニュの名前がついた由来に関するエピソードをお話いたします。
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ブルターニュの歴史 アルモリカと呼ばれた時代
紀元前3~4世紀ごろには、
フィニステール地方のオシスミ族、
ブルターニュではローマ帝国の文化の影響を受けながらも独立を保
・紀元前57年:マルクス・リキニウス・クラッスス、
・紀元前52年:
ローマ支配下ではブルターニュ地方一帯はアルモリカ(Armorica)と呼ばれるようになりました。アルモニカはローマ支配下ではありましたが、
ブルターニュの名前の始まり
「ブルターニュ」の名前は、なんとなくイギリスの「グレート・ブリテン島」に似ているとは思いませんか?
ブルターニュも古代からグレートブリテン島と影響し合っていたと考えられています。
ブルターニュとブリタニアの交流
古代~中世前期にかけて、グレートブリテン島の南部は「ブリタニア」と呼ばれ、ケルト系民族であるブリトン人が住んでいました。
ブルターニュは紀元前からグレートブリテン島とイギリス海峡を隔
また、305年にローマ帝国の西側(アルモリカを含む)の皇帝となったコンスタンティウスは、副帝時代の296年にブリタニアの反乱を鎮め、支配しました。
また、ブリタニアを統治する司令官の多くはローマ帝国から派遣されました。
このように、ブリタニアとアルモニカを含むローマ帝国は深い関連があり、ブリトン人がアルモリカに移住をすることは、何ら不思議はなかったと考えられます。
ブルターニュに国を作った男のエピソード
1つの有力な説は、4世紀に入ってからになります。
ブリタニアもまた1世紀から5世紀前半まで、
現在のウェールズ北部は、エウダヴ・
コナンは自分の地位を上げるために、なかなか策略を練っていたようです。
コナンは男の子供がいない南部のドゥムノニア王(
そして、世継ぎのいない叔父エウダヴの後継を狙っていました。
ところが、エウダヴは娘婿マグヌス・
計画が大幅に狂ってしまったコナンは、
しかし、マグヌス・マキシムスはローマ帝国軍のNo.2の指揮官で、スコットランドで起きた大規模な反乱を鎮圧した優秀な人物でした。
※367年に起きたGreat Conspiracyと呼ばれる、ブリタニアに駐在しているローマ兵の反乱
とてもコナンが敵う相手ではなく、
コナンは自分の負けと相手の優れた人物を認めて和解し、
このことで、コナンの人生は大きく変わりました。
当時の西ローマ皇帝グラティヌスはローマ兵達への待遇を軽んじ、海外から雇い入れた傭兵を手厚く扱い、ローマ兵たち不満は大いに募ってい
そこで立ち上がったのがブリタニアを統治する司令官となっていたマグヌスでした。
そして、
グレートブリテン島はフランス語ではGrande-Bretagne(グラーンド・
この出来事が、ブルターニュの名前の由来ではないかと言われているのです。
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