イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

ブルターニュの歴史  名前の由来とケルト人が建国したエピソード

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こんにちは。たなかあきらです。

ブルターニュはフランスの北西部にあり、イギリス海峡に面したブルターニュ半島に位置する地域です。

ブルターニュに住んでいる人々は、ケルト系民族でブレトン人やブルターニュ人と呼ばれています。

この「ブルターニュ」という名前は、現在のイギリスやイタリア(ローマ帝国)との関連も深く、歴史を振り返ってみると起源が分かります。

今回は古代~中世のブルターニュの歴史を簡単に述べながら、ブルターニュの名前がついた由来に関するエピソードをお話いたします。

 

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ブルターニュの位置(Google mapより)

 

ブルターニュの歴史 アルモリカと呼ばれた時代

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紀元前3~4世紀ごろには、ブルターニュ地方に関するローマの書物でケルト語の地名が記されてることから、既にケルト系民族が住んでいたと考えられます。

フィニステール地方のオシスミ族、ヴァンヌ周辺のウェネティー族、ナントのナムネテス族、レンヌのリエドネス族、アルモリカニ族、コリオソリテス族などが住んでいたとの記述もあります。

ブルターニュではローマ帝国の文化の影響を受けながらも独立を保っていましたが、紀元前1世紀ごろからは、ローマ帝国の支配を受けるようになりました。


・紀元前57年:マルクス・リキニウス・クラッスス、その後のユリウス・カエサルの遠征によりローマ支配がはじまる
・紀元前52年:ガリアとアルモニカの連合軍はローマ軍と戦いますが平定され(アレシアの戦い)、ローマ支配下におかれました


ローマ支配下ではブルターニュ地方一帯はアルモリカ(Armorica)と呼ばれるようになりました。

アルモニカはローマ支配下ではありましたが、ケルト民族独自の文化と言語は保たれていました。

アルモリカ - Wikipedia

 

ブルターニュの名前の始まり

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「ブルターニュ」の名前は、なんとなくイギリスの「グレート・ブリテン島」に似ているとは思いませんか?

ブルターニュも古代よりイギリスと影響をしあっていたと考えられています。

ブルターニュとブリタニアの交流

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古代~中世前期にかけて、グレートブリテン島の南部は「ブリタニア」と呼ばれ、ケルト系民族であるブリトン人が住んでいました。

ブルターニュは紀元前からグレートブリテン島とイギリス海峡を隔てて交流があり、当時からブリトン人の移住はあった、という説があります。

 

また、305年にローマ帝国の西側(アルモリカを含む)の皇帝となったコンスタンティウスは、副帝時代の296年にブリタニアの反乱を鎮め、支配しました。

また、ブリタニアを統治する司令官の多くはローマ帝国から派遣されました。

このように、ブリタニアとアルモニカを含むローマ帝国は深い関連があり、ブリトン人がアルモリカに移住をすることは、何ら不思議はなかったと考えられます。

ブルターニュに国を作った男のエピソード

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1つの有力な説は、4世紀に入ってからになります。

ブリタニアもまた1世紀から5世紀前半まで、ローマ帝国の支配下にありました。
現在のウェールズ北部は、エウダヴ・ヘンという首長が自治しており、甥にコナン・メリアドクがいました。(Cynan Meriadoc)

 

コナンは自分の地位を上げるために、なかなか策略を練っていたようです。


コナンは男の子供がいない南部のドゥムノニア王(現在のコーンウォール)の娘と結婚し、娘は北部のマナウ・ゴドッディン王に嫁がせて、地盤を強化していました。
そして、後継者のいないエウダヴの後継を狙っていました。

 

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ところが、エウダヴは娘婿マグヌス・マキスムスを自分の後継者にしてしまいました。
計画が大幅に狂ってしまったコナンは、娘婿を倒し後継者の座を奪い取ろうと戦いをしかけました。

しかし、叔父エウダヴの娘婿はマグヌス・マキシムスという、ローマ帝国軍のNo.2の指揮官で、スコットランドで起きた大規模な反乱を鎮圧した優秀な人物でした。

※367年に起きたGreat Conspiracyと呼ばれる、ブリタニアに駐在しているローマ兵の反乱

 

とてもコナンが敵う相手ではなく、あっさりと負けてしまいました。
コナンは自分の負けと相手の優れた人物を認めて和解し、一生マグヌスのもとで右腕として働くことを決めました。


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このことで、コナンの人生は大きく変わりました。
当時の西ローマ皇帝グラティヌスはローマ兵達への待遇を軽んじ、海外から雇い入れた傭兵を手厚く扱い、ローマ兵たち不満は大いに募っていました。
そこで立ち上がったのがブリタニアを統治する司令官となっていたマグヌスでした。

 

多くの人々の支持を受けたマグヌスはグラティヌスを倒すことに成功し、西ローマ皇帝になりました。コナンはマグヌスの右腕として大いに活躍し、その功績からアルモリカの地を報酬として譲り受けました。

 

そして、コナンはコーンウォールに住むケルト系の人々を大勢連れてアルモリカに移住したという伝説があります。

 

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グレートブリテン島はフランス語ではGrande-Bretagne(グラーンド・ブルターニュ)となる)と呼ぶのに対し、コナンが治めるようになった領土は小さなブリテンという意味で、ブリタニー(Brittany、フランス語でブルターニュ)と呼び始めました。

この出来事が、ブルターニュの名前の由来ではないかと言われているのです。

  

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参考:
西ローマ皇帝マグヌス・マキシムスの記事

マイナー過ぎる西ローマ皇帝「マグヌス・マキシムス」の夢を与えた出世街道 

今回の主人公コナン・メリアドクはアーサー王の祖先だ、という記事

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