ブリタニアの歴史 ローマ支配から消滅までの分かりやすい概要

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1-4世紀のブリタニア地図

 

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こんにちは、たなかあきらです。

今回は、ブリタニアの歴史について紹介いたします。

ブリタニア(Britannia)とは古代のグレートブリテン島が、1世紀~5世紀初めまでローマ帝国の属州であった頃を中心とする呼び名です。

(ケルト系民族が移住し始めた紀元前11世紀頃から、アングロサクソン族の支配が広がった7世紀までとする説もあります)

 

今回は主に、ローマ帝国支配の始まりから、アングロ・サクソン族の支配が広がった7世紀中盤までの歴史をわかりやすく纏めました。
(紀元43年~655年頃まで)

ブリタニアはいつから始まったのか?

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※ローマ支配前1世紀頃のブリタニア。水色の部分で、数多くの部族に分かれていた。

 

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ブリタニアがいつ始まったのか? 諸説ありますが、伝説では紀元前12世紀頃にローマの執政官ブルータス・オブ・トロイ(トロイのブルータス)がブリタニアを建国した、とされています。

 

そして、「ブリタニア:Britania」の名前の由来も、「ブルータス:Brutus」にあるとも言われています。

この内容は、歴史書「ブリトン人の歴史」や「ブリタニア列王史」に記述がみられます。

 

確かにブルータスの子孫の家系図を見ると、ブルータスの子孫がブリタニアを支配して数々のケルト民族の神(水)となり、ウェールズの王室やスコットランドの王室へ、血筋が続いている様子がうかがえます。

 

ローマ帝国支配の始まり

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紀元前後、
ブリタニアはケルト系ブリトン人の種族の国々に分かれ、それぞれの首長が統治していました。

ローマ帝国は支配をブリタニアにも広げようと、ユリウス・カエサルが紀元前55年から54年にかけて行ったブリタニア遠征しました。

嵐で船が壊滅するなど打撃も受け、得るところはほとんどなく引き上げました。本格的なローマ帝国の侵略は紀元1世紀になってからになります。

 

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紀元1世紀頃のブリタニアには、最大勢力のカトゥヴェラウニ族(Catuvellauni)の首長カラタクス(Caratacus)がおり、事実上ローマ帝国が治めていた隣国アトレバテスを攻め領土を奪いました。

 

これに対し、ローマ皇帝クラウディウスはブリタニア侵攻を決めました。

紀元43年にアウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)を将軍とする、総勢4万人とも言われるローマ軍がブリタニアに攻め入りました。

 

カラクタスも15万とも言われる兵力を率い戦いましたが敗れ、カラクタスの領土はローマ帝国に奪われました。

 

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抵抗し続けたブリタニア

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カラタクスの後、だんだんとローマ帝国の支配が広がっていくものの、ブリタニアの抵抗は次々と根強く起こりました。

 

もっとも代表的な抵抗は、60-61年に起きたイケニ族(Iceni)の女王、ブーディカの反乱です。

ローマ帝国に国を奪われ、娘たちも辱められたことに怒り心頭し、総勢23万の大軍をつくり、ローマ軍に対して大反乱を起こしました。

 

さすがのローマ軍も手こずりますが、奇襲作戦で反乱軍を破り、女王ブーディカを捕らえました。

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ブリタニアの。抵抗は約40年ほど続きますが、ローマ皇帝アグリコラの時代にようやくブリタニアのほぼ全域はローマ帝国の支配下となりました。

👉参考記事
<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア

  

ローマ支配下のブリタニア

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 ※200~300年頃、ローマが支配していたブリタニア(赤色の部分)。北部のハドリアヌス城壁とアントニヌス城壁に囲まれた地域は、ローマ帝国の影響下で自治をしながら外敵からの侵略に備えていた。

 

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ローマ帝国にとってのブリタニアを支配する意義は、勢力範囲を広げることにより、近隣諸国やローマ市民たちに、ローマの威厳を示すことにありました。

一方、ブリタニアにとってローマ帝国の存在意義もあったと考えられます。

 
当時のブリタニアを見ると、周りを外敵である近隣諸国に囲まれていることが分かります。

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ブリテン島の北部(ピクトランド:当時はカレドニアと呼ばれていた)にはピクト族、西のアイルランド(当時はヒルベニアと呼ばれていた)にはスコット族、また海からやってくるヴァイキングもおり、絶えず攻撃を受けていました。

このため、辺境警備と外敵の侵入を防ぐため、ローマ軍をブリタニア各地に駐在させました。

 

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2世紀の初めに、ローマ帝国はピクト族の侵入を防ぎ、ブリタニアの支配力を拡大するため、現在のスコットランドにハドリアヌスの長城とアントニヌスの城壁を建築し、ローマ軍を駐在させました。

 

※南がハドリアヌスの長城(ハドリアヌス帝の時代、122年~に建設)。北はアントニヌスの長城(アントニヌス帝の時代、142~144年に建設)。いずれもユネスコ世界遺産に登録。

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ハドリアヌスの長城

 

👉関連記事

イギリスの世界遺産 「ハドリアヌスの長城」の歴史 

 

傾くローマ帝国の支配力

 

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ブリタニアはローマ文化と融合しつつも、ブリトン人独自のケルト文化を守りながら、
ローマ支配のもとで自治を続けていました。

しかし4世紀になると、ローマ帝国は東西に分裂して帝国の力も弱まってきました。ローマ帝国は自国の軍備が必要となり、ブリタニアの駐在兵を抑えなければなりませんでした。

 

そこで、ブリトン人の首長に自治権を与える代わりに辺境警備をさせるようになりました。ブリトン人の首長たちの中には力をつけて、ローマ帝国に反乱を起こす事件も起きるようになりました。

 

 

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・4世紀初め:コルチェスターのコエル・ゴデボグがローマ皇帝の虐殺に対抗し反乱を起こし、ブリタニア司令官の座を奪った。コンスタンティウス1世と面会し和解。

・4世紀中頃:北ウェールズのエウダヴ・ヘンは、ローマ帝国から侮辱を受けたと反乱を起こし、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は鎮圧できず。その後和解。

・368年:ローマから派遣されたブリタニアの長官が反乱を起こし、ブリタニアの首長たちも反乱に参加。ローマ帝国はテオドシウス・エルダーやマグヌス・マキシムスを派遣し、反乱を鎮圧。

・383年:ローマ軍人でブリタニア長官であったマグヌス・マキシムスは反乱を起こし
西ローマ皇帝のグラティアヌス(グラティアン)を倒し、西ローマ皇帝を宣言。
マグヌスは東ローマ皇帝テオドシウス1世と戦い、388年のサウァ河畔の戦いで敗戦し、処刑されました。

 

👉マグヌスに関する記事
ブリタニアでアーサー王のモデルと言われる伝説王は反逆者か?

 

 

ローマ帝国支配の終焉

 

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マグヌスの乱が終わり4世紀末になると、ローマ帝国自体がバンダル族やゴート族に激しく攻め込まれるようになり、ローマ帝国の影響力が低下していきました。

 

そして、410年にローマ帝国の一部が西ゴート族に奪われ兵力が必要となり、ホノリウス帝はブリタニアからローマ軍を撤退させ、事実上、ブリタニアのローマ帝国支配が終焉しました。

 

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ローマ軍が去った後の5世紀初めごろ、ブリタニアは主に4つの地域に分かれており、
北部はコエル・ヘン(Coel hen)と呼ばれる首長が、ウェールズを含む南部はヴォーティガン(Vortigern)と呼ばれる首長が実力を持っていた。

 

※赤い部分がブリタニアで、コエル・ヘンは地図中で北部のNorthern Britain、
ヴォーティガンは南西部のPagnsesに拠点をおいていました。

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Roman Britain in Mapsより

 

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ブリタニアの北にはピクト族、西にはスコット族、さらにヴァイキングなどの外敵がいて、ローマ軍が撤退してからは、自分の国は自分で守らざるを得ませんでした。

北のコエル・ヘンは、北からのピクト族や西からのスコット族、ヴァイキングの侵略に備え、 南部のヴォーティガンも、西からのスコット族の侵略に対して戦う必要がありました。

👉参考記事:
映画キング・アーサー、悪王のヴォーティガンは何者だ、実在人物か? 

ウェールズの建国

 

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ヴォーティガンが、スコット族の侵略への対策を取るため、440年頃にキネダ(Cunedda ap Edern、380-445年頃)と呼ばれる人物を呼び寄せたと考えられています。キネダは、ブリタニア北部のマナウ・ゴドッディン(地図中ではGoutodin)を統治していた首長でした。

 

キネダは現在の北部ウェールズに移住してスコット族と戦い完全に追い払ったと歴史書には書かれています。

その後キネダは、北部ウェールズにウェールズの原形となるグウィネズ国(Gwynedd)を建国してウェールズ王室を始めました。

キネダの息子エイニオン、孫カドワロンやオウァインの時代に着々と勢力を固め、カドワロンの息子マエルグウィンの時には勢力は強大になり、ブリタニア全域に影響力を及ぼすようになりました。

 

このキネダが創始者となったウェールズの王室は、13世紀末にウェールズがイングランドに征服されるまで続きます。

 

👉 参考記事:
イギリス王室より歴史が長いウェールズ王室の起源 

  

アングロ・サクソン人の出現

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上陸するヘンギストとホルサ兄弟

 

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ヴォーティガンはスコット族などの脅威に対するため、他の対策も取りました。

ゲルマン系民族であるジュート人、ヘンギストとホルサ兄弟を傭兵として雇い入れました。

しかし、ヘンギストとホルサは、自分の娘をヴォーティガンに差し出して罠にはめ、
東岸のケントの領土を奪いました。(西暦450年あたり、Night of the Long Knivesと呼ばれる事件)

 

この事件がきっかけとなり、ジュート人、アングル人、サクソン人などブリタニアにやって来て領土を拡大していきました。

いわゆるアングロ・サクソン人のブリタニア侵略が始まったのです。 

 

👉参考記事:
イギリスの歴史に絶大な傷跡を残したH兄弟 

 

拡大するアングロ・サクソン勢力

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アングル人、ジュート人、サクソン人は、450 – 500年に本格的にグレートブリテン島東岸への侵略を開始し、西へと侵攻を広げました。

477年にはエラ王と息子達が率いるサクソン軍は、新たにブリテン島に到着し、対抗するブリトン人と戦い追い出していきました。

アングロ・サクソン人が占領した領土は、 北から主に、ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスの国々で構成され、これらの国々は「アングロサクソン七王国」と呼ばれるようになりました。

 

👉参考記事:
イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要 

 

アーサー王の活躍?

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アングロ・サクソンの拡大する勢力を止めようと、戦いに挑んだ人物もいました。
5世紀終わり頃にアンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus)です。

アンブロシウスは、悪王ヴォーティガンを倒した後、ブリタニア長官となりました。
さらにヘンギストとホルサ兄弟が率いる、アングロ・サクソン族と戦い勝利をつづけました。

496年頃に 「ベイドン山の戦い」が起きたと記されています。
アエラ率いるサクソン軍とブリトン軍の間で起き、ブリトン軍はアエラ率いるサクソン軍に大勝利したと言われています。

 

このブリトン軍を率いていたのが、アーサー王であるとの伝説があります。
アンブロシウスのアングロ・サクソンに連戦連勝した様子が、アーサー王のモデルになったのではないか、とも言われています。

 

👉参考記事:
アーサー王の実在のモデル人物を集めて アーサー王物語を構築してみた 

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しかし、アンブロシウスの活躍は一時的で、アングロ・サクソン族の勢力拡大を止めることはできませんでした。

アングロ・サクソン人が侵略した領土は、時代を追うごとに西岸のケントから西へ北へ急速に拡大していくことが、よく分かります。

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アングロサクソン王国の拡大とブリタニアの終焉

 

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※アングロサクソン七王国。北から主に、ノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、エセックス、ウェセックス、ケント、サセックスの国々で構成されていた

 

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アングロ・サクソン七王国のひとつ、ノーサンブリア国北部デイラ(Deira)出身のエドウィン(Edwin)は、アングロサクソン王国間の争いに敗れ国を追われましたが、イースト・アングリア国の援助を得て、ノーサンブリア国を奪回しました。

 

627年にはケントとも同盟を結び、エドウィンはアングロ・サクソン諸国の中で、
最も権力を振るうようになりました。

629年に、ブリタニアは勢いに乗るエドウィンに攻撃され、当時の統治者カドワロンは国外に追放され、ブリタニアはさらに占領されました。
(現在の北部ウェールズ)

 

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これに対しカドワロンは、アングロ・サクソンの強国マーシアのペンダ王(Penda)の助けを借り、エドウィンに対抗しました。

 

632~633年頃にカドワロンとペンダ連合軍は、エドウィン軍と戦い勝利をおさめ、
カドワロンは領土を取り戻しました。(ハットフィールドの戦い)
勢いに乗るカドワロンは、残忍・残虐な手段で殺戮や略奪をしながら進軍し、ノーサンブリアの国々を荒らしていきました

634年に、カドワロンは総力を挙げたノーザンブリア軍と戦いますが、敗れ戦死しました。(ヘヴンスフィールドの戦い(現在のイングランド北部))

 

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この敗北により、ウェールズを中心とするブリタニア内でも内乱が起き、さらに疫病がはやり飢饉も起こりました。

655年に内乱を鎮めたカドワラドルが統治者となりますが、すでにアングロ・サクソン諸国の勢力が広範囲に広がっていました。

かつてブリテン島のほぼ全域を占めていたブリタニアは、西のウェールズや北のスコットランドに残るのみとなってしまいました。

ブリタニアの呼び名もこの時期で終わりとなり、カドワラドルが最後のブリタニアの王となりました。

 

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※8世紀頃のグレートブリテン島。緑色の部分が、アングロ・サクソン七王国。 

 

ブリタニアの年表 

・410年:ローマ帝国のブリタニア撤退

・420年頃:ヴォーティガンが南部ブリタニアの長官となる

・440年頃:キネダ一族が北部よりウェールズに移住。キネダがグウィネズを建国

・449年:ヴォーティガンが、ジュート人のヘンギストとホルサ兄弟を呼び寄せる

・455年:ヘンギストがケント王国を建国し、アングロ・サクソン諸国の侵略が始まる

450 – 500年

アングル人、ジュート人、サクソン人が、グレートブリテン島東岸への侵略を開始。西へと侵攻を広げる。

 

・477年:エラ王と息子達が率いるサクソン軍は、新たにブリテン島に到着し、対抗するブリトン人と戦い追い出す。

・488年頃:アンブロシウスが活躍し、ヘンギストを破る

・496年頃:ベイドン山の戦いで、ブリトン軍はサクソン軍を破る

・586年頃:ノーサンブリアのエドウィンが、ウェールズのカドヴァンに助けられる

・632~633年:ハットフィールドの戦いで、ウェールズのカドワロンはノーサンブリアのエドウィンを破る

・634年:カドワロンはオスワルドに敗れる

・664年 or 682年:アングロ・サクソン諸国が強大化し、ブリタニアの終焉

 

 ※緑色がアングロ・サクソン諸国

 

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<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで

 

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 

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