ブラディー・メアリーと呼ばれたメアリー1世の波乱人生

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メアリー1世(1516〜1558年)は、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・アラゴンの娘です。

テューダー朝の五代目の君主となったメアリー1世は、ブラッディー・メアリー(Bloody Mary)とも呼ばれています。

 

メアリー1世とはどんな人物だったのでしょうか?
なぜブラディー・メアリーと呼ばれるようになったのでしょうか?

メアリー1世の波乱に満ちた人生を、分かりやすくご紹介します。

 

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父から愛される賢く美しい娘

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テューダー朝の家系図(〇は君主になった順番)

 


当初は男児誕生を願っていたヘンリー8世も、初めて生まれた子供メアリーが健康であると知ると「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なし、メアリーを愛しました。

 
勉強好きで賢いメアリーは、母キャサリンや公爵クラスの家庭教師に教育されました。また少女期のメアリーは非常に美しく、魅力的であり、そのことは他国にも伝わっていたといいます。

 

ヘンリー8世はメアリーの幼児期から、婿探しをしていたが、いずれも破談になっていました。

・2歳の時にフランソワ1世の王子フランソワ

・6歳の時に16歳年上の従兄で、神聖ローマ皇帝カール5世

・フランソワ1世の第2王子アンリ(のちのアンリ2世)

 
1925年には、公的なものではありませんでしたが、プリンセス・オブ ・ウェールズの称号をヘンリー8世から与えられました。

このように、メアリーはヘンリー8世から愛され、将来は有望でした。 

庶子へ脱落も頑固な性格で対抗

1520年代の初期からヘンリー8世は、アン・ブーリンと結婚するために、キャサリンとの離婚を考えていました。

キャサリンは早世したヘンリー8世の兄アーサーの元妻であり、ヘンリー8世との結婚は近親相姦にあたると訴えたのです。

しかし、ローマ教皇はヘンリー8世の訴えを認めませんでした。

 

1534 年にヘンリー8世は、ローマ教皇と決別して、新たにイングランド国教会を設立しました。こうしてヘンリー8世は男子が生まれないキャサリンと1533年に結婚を無効化させ、アン・ブーリンと結婚しました。

 

アン・ブーリンはヘンリー8世との間にエリザベスを産みました。このため、メアリーも王女の称号を剥奪され、非嫡子となり、エリザベスの侍女にさせられました。

 

メアリーは母キャサリンとと会うことを禁じられ、父との接触も制限されました。

実際メアリーは、2度と母親に会うことが出来ませんでした。しかし危険があるにもかかわらず、2人は連絡を取り合いました。

 
アン・ブーリンのメアリーへの激しい嫌悪は、メアリーは処刑を恐れました。

母親の励ましと父親からの頑固な性格で、自分が非嫡子であることを決して認めませんでした。また、修道院行きを命じられた時も、拒否しました。

 

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ヘンリー8世との和解

 

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メアリー王女

アン・ブーリンとヘンリー8世との仲が悪くなった後、ヘンリー8世は条件付きでメアリーに恩赦の提案しました。

ヘンリー8世がイングランド国教会のトップであること、メアリーは近親相姦の娘であることを認めよ、との内容からでした。

 

しかし、メアリーは拒否しました。

従兄である神聖ローマ皇帝カール5世から説得され、ようやく受入れはしましたが、深く後悔しました。

 

ヘンリー8世はこうしてメアリーと和解し、王室の地位に戻し、結婚のプランを再び始めました。

また、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモアとの間に産まれたエドワード王子の母親代わりとなりました。(ジェーン・シーモアは出産後に亡くなった)

 

 

こうして、メアリーはヨーロッパで最も重要な王女になりました。

メアリーは質素でしたが、コントラルト(女性で最低の音域)の美しい声で歌い、素晴らしい言語能力を持ち、人気の高い人物でした。

 

しかし、メアリーは、未だ庶子のレッテルは消えず、行動も厳しく制限されていました。

 

ヘンリー8世が1540年に5人目の王妃となったキャサリン・ハワードと結婚すると、メアリーは王宮に戻ることを許されました。

1544年には非嫡出子の扱いは変わりませんでしたが、エドワード6世の次の順位、または今後ヘンリー8世の嫡出子が産まれた場合その次の順位で、王位継承権を与えられました。

 

エドワード6世、ジェーン・グレイ

 

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メアリー王女

1547年にヘンリー8世が亡くなり、エドワード6世が9歳の若さでイングランド王を後継しました。

エドワード6世はプロテスタントへの情熱を持ち、また野心を持ったプロテスタントの摂政達によって操られていました。

メアリーも改宗を迫らせましたが拒否し、自分のチャペルでカトリックのミサを続け、再び生命の危機に面しました。

 

しかし、エドワード6世は1553年に早世し、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの企みで、王位継承権は奪われ、ジェーン・グレイが女王となりました。

 

メアリーは身の危険を感じ、ノーフォークへ逃れました。
しかしイングランド議会は、メアリーこそが正統な君主と考え、ジェーンは9日間で廃位となり、メアリーはロンドン入りし、37歳でイングランド女王となりました。

 

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プロテスタントの反乱とブラディ・メアリー

カトリックに拘るメアリー1世、対立

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メアリー1世

メアリーは、ヘンリー8世に似て、押しが強く、無愛想で、誠実、豪快な性格でしたが、ヘンリー8世と異なり、残酷な刑罰や死罪の宣告を嫌いました。 

メアリー1世は新女王としての注意や、新しい時代環境の感覚は薄く、また自分自身への興味もあまり持っていませんでした。

 

時代の流れはプロテスタントに向かっていましたが、メアリー1世は人々がカトリックに戻ることを望んでいました。

そして、メアリー1世ははカトリックのスペイン王フィリペ2世との結婚を決意しました。フィリペ2世は、従兄の神聖ローマ皇帝カール5世の息子で、メアリーより11歳年下でした。

 

ヘンリー8世の時代に、カトリック修道院が持っていた財産を没収した時に、プロテスタントの貴族たちは富と領土を手に入れました。

しかし、メアリー1世はローマカトリックをイングランドの宗教として立て直そうとし、プロテスタントの貴族たちはメアリーの敵となりました。

 

イングランド議会も、メアリー1世の方針に反対し、カトリックのフィリペ2世との結婚に反対すると申し立てしました。

ところが「私の結婚は私の私的なもの」、とメアリー1世は言い返して押し切りました。

 

※フェリペ2世:ハプスブルク家のスペイン王。メアリー1世との再婚でイングランド王フィリップ1世となった。1580年からはポルトガル国王も兼ねた。 

 

プロテスタントの反乱とブラッディー 

 

1554年に、メアリーとフィリペの結婚に反対し、トーマス・ワットをリーダーとするプロテスタントの反乱が起きました。

 

ワット軍の急速なロンドンへの前進を警告するため、メアリーは何千人もの市民を集めて、メアリーの為に戦うように、素晴らしい演説を行いました。

ワット軍は敗れて処刑され、メアリーはフィリペと結婚をし、カトリックを復興し異端者に対する法律も復活させました。

 
残忍行為を嫌っていたはずのメアリー1世でしたが、反乱を起こした処刑者を3年にも渡り絞首台にさらし、異端者は厳しく処刑され、約300人が火あぶりの刑に処せられまさした。

それ以後、メアリー2世はブラディー・メアリーとして知られ、人々から嫌われるようになりました。

 

さみしいメアリー1世の最期

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メアリー1世

ブラディー・メアリーと呼ばれるようになったメアリー1世は、夫フィリペ2世からも不信感を抱かれて悪口を言われ、残忍な殺害を非難されました。

互いの政略結婚でしたが、メアリー1世とフィリペ2世は性格が合わず、子供も生まれず1556年にフェリペ2世はスペインに帰国してしまい別居となりました。

 

更に、イングランドがスペインと同盟を結んでフランスと戦った第六次イタリア戦争に敗れて、大陸に残っていた唯一の領土カレーを失い、さらに人々の不評を買いました。

 

 

メアリー1世には子供が生まれず、体も丈夫ではなく病気がちで悲嘆に暮れ、2度の想像妊娠の際に体調を崩しました。そして卵巣種であることが見つかり、1158年に世を去りました。

 
母キャサリンを追いやったアン・ブーリンの娘であるエリザベスを生涯恨み続け、死の直前に渋々エリザベスを後継に指名しました。

 

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参考:Mary I| queen of England | Britannica

 

 

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