エリザベス女王1世の功績と結婚・恋愛話 人物像も良く分かる!

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こんにちは、たなかあきらです。

エリザベス1世は、一生独身を貫き、ヴァージンクィーン(処女王)などのあだ名がついていますが、イギリスの歴史上の中で、最も成功した君主の一人でイングランドの黄金時代を作った、と言われています。

イングランドを強国にした栄光の陰には様々なエピソードがあります。

・王位継承権を奪われ波乱万丈の生い立ち
・君主としてイングランド黄金時代を作った
・男嫌いではなく、様々な結婚話や多くの男性関係
・難しく扱いにくい性格

 

この記事を読んでいただくと、エリザベス1世の人物像が良く分かるのではないかと思います。楽しんでくださればありがたいです。 

 

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波乱万丈の生い立ち~女王になるまで

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エリザベス1世の生い立ちから、イングランド君主になるまでの波乱万丈の人生を紹介しましょう。

 

エリザベス1世の生い立ち

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父ヘンリー8世、母アン・ブーリン

 

1533年、エリザベスはヘンリー8世と2人目の王妃アン・ブーリンの王女として生まれた。2年半後に男の子が産まれないアンは、他の男との不義をねつ造されて処刑されたため、エリザベスは庶子とされ、王女の位は剥奪された。

アン・ブーリン – Wikipedia

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移り変わるエリザベスの王位継承権

 

3人目の妻ジェーン・シーモアは、エリザベスの腹違いの弟のエドワードを産んだ後に亡くなり、ヘンリー8世は4人目のキャサリン・パーと結婚する。

キャサリンは腹違いの姉メアリー、エリザベスと良い関係を築き、庶子の身ながら王位継承権は復活した

 
 
1547年に父ヘンリー8世が亡くなると、弟エドワード6世がイングランド王位を継承した。実権を握ったのはノーザンバランド公ジョン・ダトリーで、メアリーとエリザベスの王位継承権はダトリーの陰謀によりはく奪されてしまった。
 
そして、ヘンリー8世の妹の孫、ジェーン・グレイに王位継承権が移ってしまったのである。エドワード6世は15歳の若さで亡くなってしまうと、ジェーン・グレイが王位を継ぎ、イングランド王として初めて女王となった。
 
メアリー派は反攻し、ジェーン・グレイとノーサンバランド公を捕らえて処刑し、メアリー1世として即位したのである。
 

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姉メアリー1世との対立~幽閉~女王へ

 
これで、エリザベスの立場も安泰かと思われたが、姉妹の仲は崩壊へと向かった。
カトリックのメアリー1世は、プロテスタントのエリザベスを弾圧し始めたのである。
 
1554年にイングランドとウェールズで宗教政策の反対勢力が反乱を起こし、反乱が鎮圧されると、エリザベスは陰謀を企てたと捕らえられ、ロンドン塔へ送還されてしまった。その後一年間、エリザベスは幽閉されたのであった。
 
メアリー1世はプロテスタントに対する過酷な弾圧を行い「血まみれのメアリー(ブラッディー・メアリー」と呼ばれ不評を買い、エリザベスの方が王位にふさわしいとも言われるようになった。 
 
メアリー1世は、スペイン王カルロス1世のフィリペ王子との結婚したが、子供が生まれなかった。1558年にメアリー1世は病に倒れると、エリザベスの王位継承を承認した。
 
そして、メアリー1世がその年に亡くなると、25歳のエリザベスがイングランドの王位に就いたのである。

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戴冠したエリザベス1世

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ブラディー・メアリーと呼ばれたメアリー1世の波乱人生 

 

エリザベス1世の政治

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エリザベス1世は1558年から1603年まで約45年にわたってイングランンド君主を務め、強いイングランドを作りました。

エリザベス1世の政治によって得られた成果を、以下の3点に纏めました。

 

①イギリス国教会の確立
②国際的地位の向上
③経済力が上がった

 

宗教改革を行い、国王の権力を強めた

 ・三十九か条信仰告白(1571年)

イングランド国教会体制を設立し、カトリックではなく、極端なプロテスタントでもない、イングランド独自の英国国教会を構築した。

39箇条 – Wikipedia

 

・国王至上法の再発布(1559年)

カトリック政策を改めプロテスタント政策に基づく教会法を、イングランド国王を「唯一最高の統治者」とする国王至上法を定めた。全ての役人は国王への忠誠を誓約させ、さもなくば資格をはく奪した。

国王至上法 – Wikipedia

 

国際的な地位の向上  

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アルマダの海戦

 

エリザベス1世が君主となった16世紀中ごろは、まだイングランドの力は強くなくフランスやスペインに後れを取っていた。

当時の艦隊数で比較すると、

・ヴァロア朝フランス・・・800万
・無敵艦隊と言われたハプスブルグ家スペイン・・・1500万

・イングランド艦隊・・・300万

 

しかし1588年、イングランド人として初めて世界一周をしたフランシス・ドレークを艦隊の司令官として、アルマダの海戦でスペイン無敵艦隊を破ったのである。
この勝利により、国際的評価だけでなくエリザベスの評価も上がった。

アルマダの海戦

世界一周したフランシス・ドレーク にペンギンの名前の由来

 

また、1562年~1598年の40年も続いたフランスでのユグノー戦争でも、イングランドの地位を高めた。フランスでのカトリックとプロテスタントの戦いではあるが、

カトリック:フィリペ2世 
プロテスタント:エリザベス1世

がバックアップし、事実上はイングランドとフランスの代理戦争と言われている。

 

最終的には、プロテスタントのアンリ4世がカトリックに再改宗し、プロテスタントの自由を認めて終結した。 

ユグノー戦争 – Wikipedia

工業の発達と経済力の向上

当時の財政難を救うために、エリザベス1世はフランシス・ドレークに海賊行為をさせた。また、羊毛産業を基礎とした毛織物工業が発達し、経済力が上がった。

毛織物工業製品を、アメリカへの進出を積極的に行い重商主義政策をとった。1600年にイギリス東インド会社を設立し積極的な発展策をとった。

※政府が免許状を出し、新大陸との貿易をしているスペイン船を襲うなど、海賊行為を行った
※重商主義:貿易などを通して貴金属や貨幣を蓄積し国富を増やす

フランシス・ドレーク

イギリス東インド会社  

 

エリザベス1世の人物像

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エリザベス1世の性格は嫉妬深くて短気だったと言われます。
  ・性格は嫉妬深く短気。女性に対して嫉妬心を持ち、殆ど女性の使用人はおらず男性ばかり。

・優柔不断で抽象的な表現が多い。優柔不断は、核心に触れず相手を煙に巻く、外交術をとったためとも言われる。

・仲良くせず仲悪くせずが外交や人間関係の秘訣
・ラテン語、イタリア語、フランス語を話し政治の話よりも宗教、芸術、詩などの話を好んだ。

・奇抜なデザインを好み、3000着ものドレスを持っていた。顔を真っ白に塗る化粧方法は当時の流行となり、メイクアップの言葉もエリザベスの化粧から生まれたと言われる。

 

参考:パロディー的な動画を集めてみました。
エリザベス1世の性格を表した面白い動画 

 

エリザベス一世の結婚・恋愛話

 

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エリザベス1世は、イングランドを代表する君主の一人でしたが、生涯独身を通し子孫を残さず処女王、ヴァージンクィーンなど呼ばれました。

 

王座においては処女王

教会に対しては母

貴族に対しては伯母

評議員にたいしては小言を言う妻

延臣にたいしては誘惑者

と言われました。

延臣にたいしては誘惑者とあるように、嫉妬深く、自分の周りには女性は殆ど置かず男性を並べたそうです。

 

エリザベス1世が結婚しなかった理由は

・母アン・ブーリン、キャサリン・ハワードやトマス・シーモアの処刑を経験し、精神的な影響があった
・不妊体質?

等とも言われています。

実際の所、エリザベスには多くの恋愛話、求婚話があったのです。  

エリザベス1世の恋愛話 

①トマス・シーモア

父ヘンリー8世が最後に結婚した王妃キャサリン・パーの再婚相手。

トマスはセックスアピールが強く、下着姿で少女のエリザベスの寝室に入ったりしていた。二人が抱き合っているところを、キャサリンに目撃されたこともある。このため、エリザベスは邸宅を追い出されて関係は終了した。

トマス・シーモア

 

②ロバート・ダドリー

ノーザンバランド公の4男で、エリザベスとは幼なじみ。友情が愛情へ変わり、交際もしていたとの話も。

ダドリーは結婚しており、1560年にダドリーの妻が階段から転落死した事件が起きた。エリザベスと結婚するため? などと噂され、当時のスキャンダルとなった。

エリザベスもダドリーとの結婚を考えたそうだが、貴族たちの反感を恐れたため結婚することはなかった。

エリザベス1世が最も気になった男性で、ダドリーの恋愛には、ひどく嫉妬したそうだ。

ロバート・ダドリー (初代レスター伯)

 

③エセックス伯ロバート・デヴァルー

エリザベス1世の寵臣で美男子。エリザベスの寵愛を受けて1587年ごろ、アイルランド総督になった。しかし、1599年に起きたアイルランド反乱の鎮圧に失敗し、独断でイングランドに帰国。さらに、エリザベスの寝室に押し入ったため、逆鱗にふれ失脚した。

復権を期して1601年にクーデタを起こすも失敗し処刑された。

ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)

 

④ウォルター・ローリー

アイルランドの出身の地主。ノースカロライナ州のロアノーク島を探検し、エリザベスにちなんで、その地をバージニアと名付けた。

ローリーはひそかに女官と結婚していたことが、エリザベスに発覚。エリザベスは激怒し、ローリーは投獄され、女官は解雇された。

ウォルター・ローリー

 

さまざまな求婚話

 ・スペイン王フィリペ2世

エリザベス1世の姉メアリー1世の夫で、共同統治者としてフィリップ1世の称号もある。イングランドをカトリックの国にする目的でエリザベスへ求婚したと言われる。

フェリペ2世 (スペイン王)

 

・オーストラリア大公カール2世

エリザベス1世と結婚の交渉もあったが、エリザベスは「結婚した女王より独身の乞食女」を望む、と言って結婚に至らなかった。

カール2世 (オーストリア大公) 

 

・アンジュー公アンリ

後のフランス王アンリ3世で、エリザベス1世のスペイン挑発が目的と言われる。宗教間の違いなどから、結婚には至らず。

19歳のアンリは37歳のエリザベスに対して、「下賤の売春婦」「足を痛めた老いぼれ」と表現した。

アンリ3世 (フランス王)

 

・アンジュー公フランソワ 

アンリ3世の弟でエリザベスも真剣に考えたようだが、カトリックとプロテスタントの宗教問題で結婚しなかった。フランソワは早世し、エリザベス1世も深く悲しんだ。

フランソワ (アンジュー公)

 

女王は50歳を過ぎても、若い美男子たちの甘美な賞賛がなければ、生きた心地がしなかった。このため寵臣を作り、恋愛の雰囲気に浸るのを病的に欲したらしい。

 

エリザベス1世のまとめ

 
 

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1588年のスペイン無敵艦隊を破ったことで、英国史上もっとも偉大な勝利者として知られています。在任時は、あまり人気がなかったようだが、没後20年ほどすると状況は変化し、イングランド黄金時代の統治者として称えられるようになりました。

処女王と呼ばれましたが、多くの恋愛話、結婚話もあり、嫉妬深く男性との恋愛心を持ち続けた人物でもありました。

生涯独身を貫いたのは、結婚による外国の干渉を恐れた、未婚で逆に外交を有利に運ぼうという政策、とも考えられます。

 

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最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

コメント

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