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イギリスの世界遺産 「ハドリアヌスの長城」の歴史

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こんにちは、たなかあきらです。

イギリスの世界遺産の中に「ハドリアヌスの長城」があります。

今回は、ハドリアヌスの長城建築された当時の歴史的背景、建築した人物、また現地での観光についてご紹介いたします。

 

ハドリアヌスの長城とは?

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ハドリアヌスの長城(英語: Hadrian's Wall)は、現在のイングランド北部とスコットランドの国境近くにあり、ローマ帝国の国境線を防御する防御壁のことです。

イングランド北部の西岸のタイン河口から、東岸のソルウェイ湾まで全長約117km、高さの平均は6~7mあります。

第14代ローマ皇帝であるハドリアヌス帝が122~126年に建設し、ローマ帝国の支配下にあったブリタニアへの、ピクト人やスコット人などの北部民族が侵入してくるのを防ぐために築かれました。

 

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ハドリアヌスの長城は、1987年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

2005年には「ローマ帝国の国境線」と名称変更になり、2008年にはハドリアヌス帝の後継となったアントニウス帝が築いた「アントニヌスの長城」も含まれることが決定しました。

 

※「ローマ帝国の国境線」に登録されている、「ハドリアヌスの長城」と「アントニヌスの長城」の位置

 

 

ハドリアヌスの長城の歴史的背景

 

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ローマ帝国支配下のブリタニアの状況

 

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紀元43年に南部のブリタニアはローマ帝国に征服され、その後約40年の間にブリタニア全域は、ローマ帝国の支配下となりました。


ローマ帝国にとってのブリタニアを支配する意義は、勢力範囲を広げることにより近隣諸国やローマ市民たちに、ローマの威厳を示すことにありました。

ローマ帝国は更に支配する領土を広げようと、現在のスコットランドにもローマ軍は進軍していきました。

しかし、当時のブリタニアを見ると、周囲は外敵に取り囲まれていました。

ピクトランド(カレドニア)に住むピクト族、アイルランド(ヒルベニア)に住むスコット族、またヴァイキングなどの外敵が脅威でした。

領土を広げていく上で、また領土を守る為にも、外敵と戦う必要がありました。

 

 

参考記事:👉<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア

 

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このため、ローマ軍がブリタニア各地の要塞に駐在するとともに、高級軍人がブリタニア司令官として派遣され、この司令官のもとローマ軍やブリトン人たちは、ピクト族やスコット族などの外敵から守る辺境警備をしたのでした。

そして、2世紀の初めの122年に、ローマ皇帝ハドリアヌス帝は、現在のスコットランドにハドリアヌスの長城の建築を開始し、ローマ軍を駐在させたのです。

 

ハドリアヌスの長城を作るに至ったハドリアヌス帝の考え

 

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プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス Publius Aelius Trajanus Hadrianus 、76年1月24日 - 138年7月10日)

 

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ハドリアヌスは第14代のローマ皇帝で(在位は117~138年)、五賢帝の3番目の皇帝になります。

第13代のローマ皇帝はトラヤヌスで、領土の拡大路線をとりローマ帝国で最も領土を広げた皇帝でした。

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※117年のローマ帝国最大領土

 

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ローマ帝国は広大な領土を支配下に置きましたが、117年すぐにアルメニアやメソポタミアなどの征服地で反乱がおきました。 

しかし、117年にトラヤヌス帝の健康状態が悪化し、亡くなってしまいました。

息を引き取る直前に、ハドリアヌスを養子に指名し、皇后ポンペイアが証言しました。こうして、ハドリアヌスはローマ皇帝になりました。

 

 

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ハドリアヌス帝は、トラヤヌス帝がとっていた拡大路線を止め、平和的な手段による路線へと政策を変更しました。

ハドリアヌスは帝国の統一し安定を保つためには戦争による拡大ではなく、平和を維持することが大切であると考え、ローマ帝国の防衛力を整備する方針を取りました。

 

・反乱も起き、莫大な兵力や予算が掛かっていた3つの属州、アルメニア、メソポタミア、アッシリアの放棄を宣言しました
・帝国各地を自ら視察して帝国の現状把握に努めました
・軍事的脅威を受けている地方では、防壁(リメス)を建築し防御を固めました


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ブリタニアにおいては、北部からの脅威である、ピクト人やスコット人などの紛争が続いていました。ハドリアヌスは122年にブリタニアを視察し、防壁(リメス)を建築する指示を出しました。

これがハドリアヌスの長城となり、現在もその一部が残っているのです。

※防壁はゲルマン人との境界のライン川やドナウ川地域、アフリカでも造られています 

 

参考記事:👉<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア 

ハドリアヌスの長城がもたらした影響

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ハドリアヌスの長城が建築されてから約20年後の142年~144年の間に、約160kmほど北にアントニヌスの長城が建築されました。

アントニヌスの長城はハドリアヌス帝の後継者アントニヌスによって、同じくピクト人などの攻撃を防ぐために建築されたものです。

この2つの防壁の間では幾つかの国々に分かれ、ローマ帝国の影響下で、ピクト人などの侵略を防ぐ役割を果たしていました。

 

※地図中の北部にある赤色(ブリタニア)と灰色のピクト人の住むカレドニアに挟まれた地域

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Roman Britain in Mapsより

 

この記事を参考:👉スコットランドの歴史 イギリスがローマ帝国に支配された時代

 

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ハドリアヌスの長城と辺境の国々を巻き込んだローマ軍の防御により、ローマ帝国の支配が終わる5世紀初め(410年)まで、ブリタニアに外敵の侵略を許すことはありませんでした。

また、ハドリアヌスの城壁は5世紀以降も、スコットランドとブリタニア、その後はスコットランドとイングランドの国境としても認識されていました。

現在のイングランドとスコットランドの境界線を見ても、ハドリアヌスの長城は影響を与えています。

 

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Hadrian's Wall | Roman wall, England, United Kingdom | Britannica.comより

 

参考記事:👉スコットランドの歴史 イギリスがローマ帝国に支配された時代

 


最後に

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ハドリアヌスの長城は、イギリスがローマ帝国に支配されていた証として残されており、文化的な価値はとても高いです。

スコットランドの南部にあり、イングランドの有名な観光地である湖水地方にも近く、イギリスの観光に訪れた際には、足を運ばれてはいかがでしょうか。 

 

※世界遺産ハドリアヌスの長城やローマ軍博物館といった、紀元2世紀から軍事の要所となってきたこの地ならではの見どころがたくさんあります。湖水地方の自然美の中で悠久の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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