イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、ウェールズとの関わりが深いアーサー王などを中心に記事を書いています。

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<改訂版> 第1章 ローマ帝国に支配されたブリタニア

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今回はグレートブリテン島の大半がブリタニアと呼ばれ、ローマ帝国に支配されていた時代について、お話いたします。

ブリタニアがどのようにしてローマ帝国に征服されたのか?
ブリタニアはどんなローマ帝国に支配を受けていたのか?

が今回のポイントです。

ウェールズ中世の歴史年表概要  

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※全体の記事 

www.rekishiwales.com

 

ローマ帝国ブリタニアにやってきた


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へえ〜。ブリタニアって、ローマ帝国に支配されていたのですね。ブリタニアは、どのようにローマ帝国に征服されたのでしょうか?

  

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ローマ軍がブリタニアに攻め入り征服したんだけど、ブリタニアの人々の抵抗が激しく、
当時最強を誇るローマ軍でも、簡単には支配に及ばなかったんだ。 

まず、ローマ軍が攻め入るに至った背景を話そう。

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British Map 54 BC-AD 43より

 

 

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ローマ帝国が攻めてくる前の1世紀初めごろ、ブリタニアケルトブリトン人の種族の国々に分かれ、それぞれの首長が統治していた。

この国々の中で、カトゥヴェラウニ族(Catuvellauni)の首長カラタクス(Caratacus)が最も強い勢力を持っていた。

※カラタクスは、シェイクスピア作のシンベリン(ローマ名:クノベリウス)の息子

 

カトゥヴェラウニ族の隣には、アトレバテス族の国があり(Atrebates)、ローマ軍人のヴェリカ(Verica)が事実上支配していた

カラタクスは勢力を広げようと、アトレバテスを征服し、ヴェリカは追放され、ローマに逃げ帰った。

 

やられたらやり返すのが日常茶飯事の時代。ヴェリカはカラタクスから受けた屈辱を、ローマ皇帝クラウディウス(Claudius)に訴えた。

このままではローマ帝国の面目もなくなると、クラウディウスブリタニア侵攻を決意した。

起源43年にアウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)を将軍とする、総勢4万人とも言われるローマ軍がブリタニアに攻め入ったのであった。

 

 

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ブリトン人の抵抗は激しかったとは言え、やはり、ローマ軍は強かったのでしょうね。

 

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カトゥヴェラウニ族の首長カラタクスは、ローマ軍の侵攻に受けてたつんだ。

 

 


ローマに負けるものかと、15万とも言われる兵力を率いたカラタクスはミッドウェイ川の戦いに挑んだ。

ウェールズはゲリラ戦法で戦うも、強力な武器を持ち統率のとれたローマ軍にはかなわず、カラタクスの弟も戦死し敗北してしまう。

カトゥヴェラウニの領土は、南東の大部分を占領され、強力な要塞があったコルチェスターはローマの居住地へと変わってしまった。

 

やられたらやり返す。カラタクスも反撃のチャンスをうかがっていた。

5年後の48年に、カラタクスは現在のウェールズにあった、シルレス族(Silures)とオードヴィセス族(Ordovices)を率いて徹底抗戦を続けた。

 

その際にブリタニアに派遣されたローマ長官はパブリウス・オストリウス・スカピュラで、カラタクスは再び敗北してしまい、妻と娘は捕らえられ、兄弟たちはローマ帝国に降伏してしまうのである。

カラタクスは辛うじて戦地を脱出し、同じブリトン人の女王カルチマンドゥア(Caltimandua)が治める北部のブリガンテス(Brigantes)に向かった。

カラタクスは助けをもとめたが、女王カルチマンドゥアに捕らえられ、ローマ軍に引き渡されてしまったのだ。

 

戦犯として捕らえられローマに送られたカラタクスは、ローマ軍の勝利パレードの後に、処刑される運命にあった。

その前に、幸運にもカラタクスはローマ元老院でスピーチをする機会を得た。 

そのスピーチが素晴らしく、ローマ人たちの心を打ったため、赦されて生涯を終えるまでローマで暮らしたと言われている。

 

スピーチの内容は、敗れはしたものの、ブリトン人としての高貴さと高いプライドを崩さず、ローマの栄光をたたえて、ローマとの友好を示すものであった。

ローマ皇帝をうならせたブリタニア王のスピーチ

 

抵抗し続けたブリタニア


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カラタクスが捕らえられ、これでブリタニアローマ帝国に征服されてしまったのでしょうか。

 

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カラタクスの後、だんだんとローマ帝国の支配が広がっていくものの、ブリタニアの抵抗は次々と根強く起こるんだ。ローマ軍とはいえ、ブリタニアの完全征服は簡単にはできなかったんだ。

 

 

女王カルチマンドゥアが治めるブリガンテスは、女王がローマ側についたことで内乱が起きた。元夫ヴェヌティウスが反乱を起こし、元妻を打ち負かしてブリガンテスを奪い取ったのだ。

また、カラタクスの共に反乱を起こし敗れたシルレスとオードヴィセスは、ローマの要塞を取り囲み攻撃したり、ローマ人を投獄して身代金を要求したりするなど、周囲の国々と協力してローマ帝国激しく抵抗を続けていた。

 

もっとも激しい抵抗は、60-61年に起きたイケニ族(Iceni)の女王、ブーディカの反乱である。

ローマ帝国に国を奪われ娘たちも辱められたことに怒り心頭し、ローマ軍に対して大反乱を起こしたのだ。

多くのブリトン人の種族を味方につけ、ブーディカの反乱軍は総勢23万にも及び、さすがのローマ軍も敗北してしまった。

 

ローマ軍は司令官を変えて軍を立て直し作戦を練った。ブーディカの反乱軍は、狭い場所に誘い込まれたところを、強力な武器で攻撃する奇襲作戦にハマってしまった。ブーディカは捕らえられ敗北したのだ

イギリス史上に残る女傑ブーディカ 最強の女王 

 

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そんな大反乱ばかり起きて、ブリタニアとローマの争いに収拾はつくのでしょうか? 

 

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ブリタニアの抵抗は約40年ほど続いたんだ。しかし、ローマ皇帝アグリコラの時代には、ウェールズ付近のシルレスやオードヴィセスも、北部のブリガンテスもローマ帝国服従するようになったんだ。

ローマ帝国が武力で抑え込んだ部分はあると思うけど、征服が始まって40年もたつと、ローマの文化もどんどんブリタニアに入っていきお互い融合し始め、歩み寄る部分があったんじゃないかなと思う。ブリトン人の性格も表れているんじゃないかと思うよ。

 

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へえ~。ブリトン人って、とても執念深くて頑固に抵抗するイメージをもったのですけど、どんな性質があるのでしょうか。

 

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確かに、ブリトン人は自分たちの生活やアイデンティティーが壊されると、愛国心を強く表し団結して徹底的に対抗する性質があるようだよ。 

しかし自分たちの安全、生活、文化などが守られると、相手を受け入れる寛容な面もあるようだよ。

ローマ帝国からブリタニアを支配する長官や、作った要塞にはローマ兵を派遣したけれど、ローマ植民地ではなく、それぞれの小国はブリトン人の首長たちが自治する、という仕組みになっていったんだ。

ローマの完全支配ではなく、ローマと融合しながら自分たちの生活や文化も守っていく、ということが出来たので、ある程度友好的な関係を築けたんじゃないかな、と思うな。お互い組むことで、利点もあったと思うし。

 

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なるほど。面白いですね。

 

※ローマ遺跡もたくさん残っていて、人々の生活の中に取り入れられた。例えば、スコットランドハドリアヌスの城壁、バースのローマ風呂、ウェールズのカールレオン付近にある円形劇場、ウェールズのローマ道などである。

 

  

ローマ支配下ブリタニア

 

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それで、ブリタニアとローマが組むことの利点って、何でしょうか。

 

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ローマ帝国にとってのブリタニアを支配する意義は、勢力範囲を広げることにより、近隣諸国やローマ市民たちに、ローマの威厳を示すことにあったんだ。

一方、ブリタニアにとってローマ帝国の存在意義も大きいんだよ。

 

 


当時のブリタニアを見ると、外敵である近隣諸国に囲まれている。

ブリテン島の北部(ピクトランド:当時はカレドニアと呼ばれていた)にはピクト族、西のアイルランド(当時はヒルベニアと呼ばれていた)にはスコット族、

また海からやってくるヴァイキングもいて、ブリタニアはこれらの外敵から絶えず攻撃を受けていたのである。

 

こんな感じで。
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ブリトン人たちのみで外敵に立ち向かうよりも、強力なローマ軍を味方にして自国を守った方が有利であった。

ローマ帝国の高級軍人がブリタニア司令官として派遣され、この司令官のもとブリトン人や首長たちは、ピクト族やスコット族などの外敵から守る辺境警備をしたのである。

外敵を抑えて勢力を増していけば、ローマ帝国としてもメリットがあるのだ。

 

2世紀の初めに、ローマ帝国はピクト族の侵入を防ぎ、ブリタニアの支配力を拡大するため、現在のスコットランドハドリアヌスの長城とアントニヌスの城壁を建築し、ローマ軍を駐在させた。

 

※南がハドリアヌスの長城(ハドリアヌス帝の時代、122年~に建設)。北はアントニヌスの長城(アントニヌス帝の時代、142~144年に建設)。いずれもユネスコ世界遺産に登録。

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ハドリアヌスの長城

参考:

スコットランドの歴史 イギリスがローマ帝国に支配された時代

 

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質問があります。ローマ支配のメリットは分かったのですが、やはり自分の国が他国に支配されているのは、屈辱と思うんですよ。自分たちの国を取り戻そうとする動きをした人はいたんでしょうか?

 


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おっ、良い質問だな。ブリトン人の首長たちは、国を取り戻そうとローマに戦いを挑んだり、首長同士で争ったりはあまりしなかったようだ。基本的にはローマ軍に従い、北からのピクト族(スコットランド)や、西からのスコット族(アイルランド)の侵略に対してする辺境警備に従事して、国を守ったようだ。基本はね。

しかし、ブリトン人としての誇りと愛国心を強く持ち、ローマに歯向かった人物もいるけどね。

 

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えっ

 

傾くローマ帝国の支配力

 
4世紀になると、ローマ帝国自体の力も弱まり東西に分裂した。

ローマ帝国は自国の軍備が必要となり、ブリタニアの駐在兵を抑えなければならなかった。そこで、ブリトン人の首長に自治権を与える代わりに辺境警備をさせるようになったのだ。ブリトン人の首長たちの力が強まってきた時代である。 

 

306年にコンスタンティウス1世が亡くなると、ブリタニアの長官であったコンスタンティヌス1世西ローマ皇帝となった。更に312年に東西合わせたローマ皇帝となった。

もはや、コンスタンティヌス1世ブリタニアに滞在し、直接統治する暇はなくなってしまった。そこで、さほど位の高くないローマ地方官をブリタニアの長官に任命したのだ。

 


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下級役人がブリタニアの長官ですか。ローマ帝国ブリタニアを侵攻しはじめた1世紀に、果敢にローマに対抗したカラタクスもそうですけど、ブリトン人はとても誇りが高いんですよね。下級役人が自分たちの長官となれば、怒りませんか?

 

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そうなんだ。伝説によると、4世紀初めのブリトン人の実力者で、現在の北部ウェールズ付近を自治していた首長に、エウダヴ・ヘンという人物がいたんだ(Eudaf Hen、オクダヴィウスOctaviusとも呼ばれる)。ブリタニアが見下されたと怒ったエウダヴは反乱を起こし、長官を追い出したんだ。

 

 

これに対し、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、新たな長官に祖叔父トラヘルンを指名すると同時に、エウダヴ討伐に乗り出した。エウダヴは最初はローマ軍に勝利するものの、結局トラヘルンに敗れてノルウェーに逃れた。

ノルウェーで再起をはかっていたところ、エウダヴを支持するウェールズ付近の人々が兵を挙げ、エウダヴは再びローマ軍と戦うことになった。仲間たちの協力でエウダヴは勢いを盛り返し、トラヘルン率いるローマ軍に勝利し長官の座を奪取したのだった。

 

 


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よかったですね、と言いたいところですが、やばいんじゃないですか。ローマ軍の面目は丸つぶれですね。ローマ軍が本気になって攻めてくるでしょう。


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エウダヴはそれを恐れたんだよ。

 

 

エウダヴはローマ帝国と和解する方法を考え、当時のローマ軍司令官カウント・テオドシウスの右腕、マグヌス・マクシムスを自分の娘と結婚させた。

エウダヴはさらに、マグヌスを自分の後継に選んでブリタニア長官の座を譲ることにした。こうして、両国の間に出来た溝を埋めることができ、ブリタニアはローマ軍に攻められることはなかった。

 

 

ブリタニアの長官になったマグヌスは現在のウェールズ北部に拠点を置いて、しばらくは平穏に暮らしていた。しかし、その暮らしも数年ほどしか続かなかった。

 

380年頃、西ローマ皇帝はグラティアヌス(グラティアン)であったが、ローマ軍人達への待遇を軽んじたため、大きな不評を買っていた。不満をもつローマ軍人たちは、ウェールズにいるマグヌスの元へ集まってきた。マグヌスは軍人たちの支持をバックに反乱を起こし、グラティアヌスを倒して西ローマ皇帝を宣言したのだ。

これに対して、かつての上司カウント・テオドシウスの息子で東ローマ皇帝テオドシウス1世は、グラティヌスの弟ヴァレンティヌスを助けマグヌスの討伐に乗り出した。

結局、388年にマグヌスはサウァ河畔の戦いで敗戦し、捕らえられて処刑されてしまった。

 

 


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ローマ帝国内でも内乱がおきちゃってるんですね。それに外敵が攻めてきたとすると・・・

 


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マグヌスの乱が終わり4世紀末になると、ローマ帝国自体がバンダル族やゴート族に激しく攻め込まれるようになるんだ。もはや、ブリタニアにローマ兵を置いておくことが困難となり、ローマ帝国の影響力がどんどん低下していくんだ。

410年にローマ帝国西ゴート族に奪われるなど危機的な事件がおき、ついにホノリウス帝はブリタニアからローマ軍を撤退させたんだ。事実上、ブリタニアローマ帝国支配が終焉したんだ。

西ローマ帝国 - Wikipedia

 


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ローマ軍がブリタニアから撤退。どうなるんでしょう、ブリタニアは・・・

 

つづく

 

おまけ)人と時代を見抜いた男


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ウェールズにはエウダヴ・ヘンにまつわる面白い伝説もあるんだよ。ローマ帝国との関係を修復するために、娘をマグヌス・マクシムスと結婚させて、後継者にしただろう。

 


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ええ。穏便に両国間の問題は解決しましたね。

 


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ところが、ウェールズ内では問題だったんだよ。内乱へと繋がってしまったんだ。

 

 


エウダヴの甥にコナン・メリアドクという男がいた。コナンは密かに「将来はブリタニアを支配するぞ」と野望に燃え、子供が居ないエウダヴ・ヘンの後継を狙っていた。

しかし、エウダヴはマグヌスに後継の座を譲り、自分の野望計画が大幅に狂ってしまった。コナンは大いに腹を立て、後継者の座を奪い取ろうとマグヌスに戦いをしかけたのだ。

 

しかし、マグヌスは百戦錬磨のローマ軍指揮官。コナンが敵う相手ではなく、敗戦してしまった。

 

マグヌスはとても強く自分が太刀打ちできる相手ではない、有能で前途有望な人物であると見抜いたのだろう。コナンは態度を大きく変えマグヌスと和解し、右腕として共に戦うことになった。 

 


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すごい変わり身で、ゴマをすったわけですね。

 


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そのゴマからちゃんと実がなったんだよ。

 

マグヌスは、西ローマ皇帝グラティアヌスを倒して、西ローマ皇帝になった際も、コナンはマグヌスの下で戦い功績を挙げた。

コナンは報酬として、ローマ帝国の一部で現在のブルターニュー地方の領土を譲り受けた。そして、ケルト系のブリトン人を大勢連れて移住したそうだ。

コナンの話:フランスに出稼ぎに行った、出稼ぎ勇者 第二話

 

ブルターニュー地方は当時、ブリタニーと呼ばれた

コナンはブルターニューの建国者と言われ、コナンの子孫はその後もブルターニュ地方の統治者を代々務めた。このため今もブルターニュ地方には多くのケルト系民族が多く住んでいる、という説もある。

 

この部分(写真はウィキペディアより)

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 ※ローマ軍が撤退する前後のブリタニア長官はコンスタンティン三世やコンスタンス二世で、彼らはブルターニュ地方に移ったコナン・メリアドクの子孫とされる。

コンスタンティン三世は後に西ローマ皇帝となり、アーサー王物語によると、コンスタンス二世はアーサー王の叔父、コンスタンティン三世はアーサー王の祖父とされている。

 

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・マグヌス・マクシムスに関する記事

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・コナン・メリアドクに関する記事 

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