イギリス史上に残る女傑ブーディカ 最強の女王

イギリスの歴史
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こんにちは、たなかあきらです。
今回は、イギリス史上に残る女傑のお話をします。2000年近く経った現在でも、語り継がれている勇敢な女王です。

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女傑ブーディカはどんな女性?

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古代のイギリスには(ブリタニア)、自由を守る為に戦った勇敢で高貴な戦士たちは多くいました。その中で、紀元一世紀の古代に勇敢に立ち上がり、決して歴史上の人々に忘れられない凄い女性がいました。
彼女はブーディカ女王、ボアディシアと呼ばれていました。

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ブーディカはどんな女傑だったのですか?

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当時の歴史背景から説明しましょう。
ブリタニアがローマ帝国に征服された時代、ブーディカ女王は夫プラスタグスと共に、イケニ族が住むイーストアングリア地方(現在のイギリス東部)を支配していました。

プラスタグス – Wikipedia

ブーディカは人として、とても強烈な印象を与える女性でした。ブーディカはとても背が高く、視線はとても強く、ハスキーヴォイスでした。
ボリューム感のある真っ赤な髪は腰のあたりまで達していました。ブーディカの外見は威圧感があり、非常にインパクトの強い女性だったのです。

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頼りがいのある、大ボスって感じですね。

youtu.be

ブーディカがローマから受けた試練と屈辱

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ところが、ブーディカに大きな試練がやってきます。この試練が彼女の人生を大きく変えるのです。
夫のプラスタグスは、ブリタニアを征服しに侵略してきたローマ軍と上手くやっていこうと考えます。当時のローマ皇帝ネロと、プラスタグスの娘たちを自分の後継者にし、ブリタニアの広大な土地と莫大な富を分け与えるようにしました。この決定により、イケニ族の国と王室を、ローマ帝国の攻撃から守ろうとしたのです。

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なるほど。ケルト系の民族たちは、自分たちのアイデンティティーを認めてもらい平和に暮らせれば、敵であったとしても受け入れて共存できるって、聞いたことがあります。

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この決断はうまく行ったかに見えました。しかし、思いがけない不幸がブーディカに押し寄せてくるのです。

当時のブリタニアはローマ支配下であり、ローマから派遣されたブリタニア長官はスエトニウス・パウリヌスでした。スエトリニウスは、イケニ族の領土と財産を狙っていたのです。そんな時に、夫ブラスタグスが馬から落馬して亡くなってしまったのです。

ガイウス・スエトニウス・パウリヌス – Wikipedia

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不穏な予感がしますね。

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夫プラスタグスが亡くなると、スエトニウスは動き出しました。ローマ帝国の法律では、領土や財産を後継出来るのは男子のみでした。
スエトニウスはこの法律をブーディカ達に押し付け、娘たちが後継するはずだった半分の領土と財産を奪ったのです。

ブーディカと娘たちが反発すると、スエトニウスは実力行使に出ました。スエトリウスはブーディカを捕らえ、公衆の面前でむち打ちを行い、娘たちはローマの奴隷たちにレイプさせたのです。

他のイケニ族の長たちやその家族たちも、ローマ軍から同じように奴隷以下の扱いを受けたのです。

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ブーディカはもちろん怒り心頭で、黙っていないでしょう?

ブーディカの反乱

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各地で起きた反乱(勢いの乗るブーディカ)

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この約束を破ったスエトリウスやローマ軍の非道な行いに対して、ブリタニアの同胞たちは黙ってはいませんでした。
復讐の怒りに燃えるブーディカのイケニ族だけでなく、トリノヴァンテス族など他のブリタニアに住む種族たちは(ケルト系のブリトン人たち)、ローマ帝国に対して怒りを示し、反乱を起こしたのです。
トリノヴァンテス族 – Wikipedia

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ケルト系の民族は、自分たちのアイデンティティーが壊されると、皆が協力して一丸となり、勇敢に敵に立ち向かう、って聞いたことがあります。そうなった時は、手が付けれないほどの勢いになるんですね。

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そうなのです。ブリトン人たちの戦いは、大きな勝利を得たのです。ローマ軍たちの植民地になっていた、カムロドゥヌム(コルチェスター)などを攻めて勝利し、ローマの長官たちは辛うじてだしゅつしてゴールに逃げ延びたのでした。

勢いに乗るブーディカたちは、その勝利だけでは終わらず、ローマ軍に対して慈悲を示しませんでした。61年頃、反乱軍はロンディニウム(ロンドン)を攻めました。

当時のロンディニウムはローマ人が多く行き交う商業都市として栄えていましたが、すべて焼き払われ廃墟となり、ローマ軍は残らず惨殺されました。焼かれたとみられる酸化物の赤色層が堆積しているのが、発掘調査でも確認できるそうです。

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ひゃー、それは凄まじい焼け方だったんですね。

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ウェルラミウム(セント・アルバンズ)を嵐のように攻め、大勢の人々が殺されローマ軍たちは逃亡し、街は略奪されて焼かれました。

ブリトン人の反乱軍は、ローマ人の墓地を荒し、像の手足を切断したり、墓石を壊したりさえしました。その時壊した像は、現在もコルチェスター博物館で見ることが出来ます。

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そこまで徹底してローマ軍をつぶすということは、ローマに対して相当の恨みがあったんでしょうね。ローマ軍もむごいこををやったのかも知れませんが、ちょっとやり過ぎでしょうか。

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この激しいブーディカ達の反乱に対して、ローマ軍を退却させ安全な場所に避難させていたスエトリウスでしたが、ついにブーディカに対抗する決断をするのです。

同じ時代に生きたローマの歴史学者タキトゥスは「ローマ年代記」の中で、61年にイングランドの中央部で激突したブーディカとスエトリウスの最後の戦いを、とても生々しく描いていたのです。
タキトゥス – Wikipedia

ワトリング街道の戦い(ローマの逆襲)

www.youtube.com

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ブーディカと娘たちは、戦争の前にブリトン族の人々と共に二輪戦車に乗り込み、皆を激励して勇気を奮い立たせました。(ローマ時代に戦争などで使われた、馬が引いて立ったまま乗れる戦車)

 ブーディカは、ブリトン人の崇高なる王の子孫であるのに、鞭うたれ傷だらけになった体と犯された娘たち、そして奪われた自由のためにただの人になって戦う、と叫びました。更にこう語ったと言われています。

「戦いに勝つか、それとも死か。女性が出来るのはどちらかだ。男性ならもし望むのであれば、奴隷として生き延びることもできるのだが」

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世か死か、ブーディカのこの戦いに対する、相当の決意が感じ取れますね。戦いの結果はどうだったのでしょうか。

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ブーディカたちの連戦連勝、また力強いこの呼びかけにより、ますます反乱軍は膨れ上がり、23万人にのぼる超巨大勢力になりました。

これに対してローマ軍は、スエトリウスは1万の兵力と予備軍を集めました。

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23:1じゃないですか。これじゃあ、戦う前から勝負が見えてますよね。

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両軍は、ロンディニウムとウィロコニウム(現在のロクシター)の間にあるワトリング街道で激突したのです。

ブーディカ率いるブリトン族連合の大軍は、ローマ軍の防御ラインに襲い掛かりました。両軍は押しあいになり、兵数に勝るブリトン軍は、ローマ軍を押し戻し始めました。これに対し、幾つかの数千人の重装備したローマ軍隊は迫りくるブリトン軍に向かって、投げ槍で応戦を始めたのです。

この戦いのキーポイントは、ワトリング街道の地形でした。ブリトン軍は多くの兵力が狭い街道で密集してしまい、身動きがとりにくく、そして二輪戦車も有効に使えなくなりました。そこをローマ軍は巧みに突いたのです。

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ローマ軍の槍は、投げ入れられると直ぐに次の槍が投げられ、軽装のブリトン軍は、ローマ軍の反撃が始まって僅か数分の間に、多くの犠牲者を出してしまいました。次にローマ軍は、強固な戦いのフォーメーションを取り、短剣を突き出しながら押し寄せてきたのです。

更に、勝利を引き寄せるため、ローマ軍は騎馬隊を放ち、たちまちの間にブリトン軍を取り囲みました。そして、背後から攻撃に出ました。

辺りはブリトン軍の血の海となり、タキトゥスの記述によると、兵士、婦人、子供たちを含む8万人のブリトン人が殺されました。それに比べ、ローマ軍は400人の死者と、それをチョット超える程度のけが人を出した程度でした。

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うう、ざんねん。数は圧倒的にブーディカ率いるブリトン軍が勝ってましたけど、ローマ軍は組織的に訓練された軍隊、それに引き換えブリトン軍は民衆が集まった群衆、その差が出てしまったんですね。

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反乱軍のリーダー、ブーディカは殺されず、ローマ軍によって生け捕りにされ、牢にぶち込まれました。ブーディカは毒を飲んで自死したとも、病気で亡くなったとも言われています。

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ワトリング街道の戦い – Wikipedia

語り継がれる女傑ブーディカ

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ローマの圧力に対して、自分たちの部族を守る為に果敢に立ち向かった女王ブーディカ。イギリスの歴史の中で、ブーディカの勇敢さは決して忘れることはありません。

ブリタニアにおけるローマ軍の首都であったロンディニウム、現在のロンドンにある国会議事堂の隣に、1902年に二輪戦車に乗って戦う姿のブーディカ像が建てられました。

The ultimate in Girl Power!

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※ブーディカのあらすじの動画

youtu.be

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