こんにちは、たなかあきらです。
イギリスでは主に、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの諸国で成り立っています。
その中の、イングランドの10世紀以前の中世において、アングロ・サクソン人の国々が存在していました。
それらの国々はどのようにして生まれ、イングランドを形成していったのか? お話いたします。
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・分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)
・分かりやすい中世のイギリスの歴史②(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)
- アングロ・サクソンとは?
- アングロ・サクソンがブリテン島になぜ来た?
- アングロ・サクソン人のブリテン島征服
- アングロ・サクソン七王国(へプターキー)の成り立ち
- とてもシンプルなアングロ・サクソン七王国の年表
アングロ・サクソンとは?
アングロ・サクソン人はゲルマン系の民族で、アングル人、サクソン人、ジュート人のことを指します。
もともとアングロ・サクソン人はともにエルベ川下流域のユトランド半島の付け根付近に住んでいました。
※もとの意味は「アングロとサクソン」ではなく、「アングリアのサクソン」であり、大陸のサクソニアと区別する意味で使われたものである。
5世紀半ばに、ゲルマン民族の大移動が行われ、アングロ・サクソン人たちは北海を越えてグレートブリテン島に侵入し、アングロ・サクソン七王国(へプターキー)を作ったのです。
アングロ・サクソンがブリテン島になぜ来た?
彼らが移り住むきっかけについての説は次になります。※
紀元前数世紀よりグレートブリテン島(ブリタニア)は、ケルト系民族のブリトン人が主に住んでいましたが、紀元43年頃からローマ帝国が侵略して支配下にしていました。
ところが、410年西ローマ皇帝ホノリウスは、ローマ軍を撤退させ、ブリタニア支配を放棄しました。
ローマ軍の駐在により、北からやってくるピクト人(現在のスコットランド北部)、西からやってくるスコット人(現在のアイルランド)などの外敵を防いでいましたが、ローマ軍撤退後はブリトン人みずからの手で防御する必要がありました。
当時のブリタニアの有力者、ヴォーティガンはローマ帝国からの援助を絶たれて困った末に、傭兵としてジュート人のヘンギストとホルサ兄弟を雇います。
ヘンギストとホルサ兄弟は、ヴォーティガンに反乱を起こし、ブリテン島東部のケントを奪い取り定住しました。その後、本国からの移住者が増え、領土を拡大していきました。これが、アングロ・サクソン人がブリタニア侵略を始めたきっかけと言われています。
また、アングロ・サクソン人の侵略が加速した理由の一つに、彼らの本拠地にヴァイキングのデーン人が侵略したため、とも言われています。
👉アングロ・サクソン人が来たきっかけについての記事
<改訂版>第2章 ローマが去りアングロ・サクソンとウェールズ王室がブリタニアにやってきた
アングロ・サクソン人のブリテン島征服
領土侵略を続けるアングロ・サクソン人に対して、ブリトン人たちも反撃をしました。
「ベイドン山の戦い」と呼ばれる一連の戦いで、アングロ・サクソン人は大敗北し、5世紀終わり頃~6世紀初めにかけ数世代に渡ってその勢いが止められた時期もありました。
「ベイドン山の戦い」の詳細は場所は不明ですが、ブリトン人たちを指揮し勝利に導いたとされる人物がモデルとなり、アーサー王伝説がうまれた、と言われています。
このようにブリトン人が勢いづく時期もありましたが、アングロ・サクソン人の侵略がこう着したのは一時的なもので、5世紀中旬~7世紀にかけて領土を着実に広げ、ウェールズやスコットランド付近を除く現在のイングランドにあたる領域を支配下におさめました。
アングロ・サクソン人は七王国を作り、「アングル人の土地」の意味からイングランドの名前がうまれ、9世紀にイングランド王国に統一されました。
※実際にはアングロ・サクソン人が建国した王国は7つのみではなく、小国や群小国が存在しましたが、国同士で覇権を争ったすえ7つの有力な国に代表されるようになりました。
アングロ・サクソン七王国(へプターキー)の成り立ち
代表的なアングロ・サクソン人七王国は以下となります。
8世紀初めのアングロ・サクソン諸国 The Anglo-Saxon Kingdoms AD 700より
<アングル人の王国>
・ノーサンブリア王国: イングランド北東部を支配した
・マーシア王国: 7世紀頃に最大勢力を持ち、イングランド中央部を支配した
・イースト・アングリア王国: イングランド南東部イースト・アングリア地方、現在のノーフォーク、サフォーク周辺を支配した
<サクソン人の王国>
・エセックス王国: イングランド南東部、現在のエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス周辺を支配した
・ウェセックス王国: 当初は北部もイングランド南西部を支配し、イングランドを統一した
・サセックス王国: イングランド南部、現在のサリー、イースト・サセックス、ウェスト・サセックス周辺を支配した
<ジュート人の王国>
・ケント王国: 最も早い時期に侵略し、イングランド南東部、現在のケント周辺を支配した
王国が形成された6~7世紀の早い時期には、アングル人の建てたノーサンブリアとマーシアが勢力を持ちました。ノーサンブリア王のエドウィン、オスワルド、オスウィ、そしてマーシア王ペンダなど非常に強力な王が存在しました。
これら王国間での争いもあり、国境や覇権を持つ王国は移り変わりました。七国の中では、ケント・エセックス・サセックスは早くに衰え、ノーサンブリア、マーシア、ウェセックスの順番で、覇権を握りました。
とてもシンプルなアングロ・サクソン七王国の年表
450 – 500年
アングル人、ジュート人、サクソン人が、グレートブリテン島東岸への侵略を開始。西へと侵攻を広げる。
477年
アエラ王と息子達が率いるサクソン軍は、新たにブリテン島に到着し、対抗するブリトン人と戦い追い出す。
496年?
「ベイドン山の戦い」がアエラ率いるサクソン軍と、ブリトン軍の間で起きる。アエラはブリトン軍に大敗北したと言われる
627-632年
ノーサンブリアのエドウィンが勢力を持つ。エドウィンは、マーシアのペンダとウェールズ(ケルト人)連合軍に敗れ戦死する
7世紀~8世紀
8世紀初めごろまでには、アングロ・サクソン人はケルト人を西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を侵略した
※緑色がアングロ・サクソン諸国
<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで
ノーサンブリアとマーシアが覇権を奪い合い、8世紀にはマーシアが有力となる。マーシアのオッファ王は西のウェールズとの国境付近に「オッファの防塁」を築いた
👉参考記事
戦国化するウェールズと、アングロ・サクソンの国マーシアが勢力拡大していく時代
825年
ウェセックスのエグバート王がマーシアを撃破し勢力を伸ばし、マーシアは衰退した。
更にエグバート王は、マーシアだけでなくコーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配した。事実上初代のイングランド王とされる。
このイングランドに7つの王国が存在した825年までの約380年間は、アングロ・サクソン七王国時代と呼ばれる。
※エグバード王
830年頃~
デンマーク付近に住むノルマン人の一派、デーン人の侵攻が始まった。デーン人はヴァイキングとしてイングランドを荒し、アングロ・サクソンの王国を次々と滅ぼした。
👉ヴァイキングに関する記事
・ヴァイキングのことが良くわかるドラマ ヴァイキング ~海の覇者たち~
※9世紀のイングランド(黄色の部分がデーンロウ、緑色がイングランド)
878年
ウェセックスのアフルレッド王がデーン人に勝利。デーン人の支配地域を北東部に押しとどめ、そこをデーンローとして制限した区域にデーン人の居住を認めた。
927年
アルフレッド大王の孫のアゼルスタン王が、デーンローを奪取。イングランド王国を建国した。「アングル人の土地」を意味していたイングランドは、ウェセックス王家のもとで「イングランド王国」となった。
デンマークのスヴェン王がイングランド王エゼルレッドを破り、イングランド王となる
スヴェンの子クヌートがイングランド王に即位。クヌートは後にデンマーク王、ノルウェー王にも即位し、デーン人による北海帝国を築き上げた。
1066年
イングランド王 エドワード懺悔王がなくなると、 ノルマンディー公ギョーム2世がノルマン軍を引き連れ、ハロルド2世をヘイスティングスの戦いで破り、イングランドを征服した。(ノルマン・コンクエスト)
これにより、アングロ・サクソン人によるイングランドの支配は終焉し、ノルマン人によるイングランド支配がはじまった(ノルマン朝)
👉ノルマンコンクエストに関する記事
・イギリスの歴史を変えたノルマンコンクエスト(ノルマン征服)の再現が行われた
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