イギリス・ウェールズの歴史ーカムログ

ウェールズ語ではウェールズの事をカムリ(仲間)と言います。ウェールズの歴史、イギリスの歴史、アーサー王、イギリスの歴史に関連する内容を中心に記事を書いています。

分かりやすい中世のイギリスの歴史②(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

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こんにちは、たなかあきらです。

中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら歴史は作られてきました。

今回の内容は後半で、

・百年戦争、ばら戦争
・テューダー朝
・ピューリタン革命、名誉革命

の影響を受けながら、イングランドへ併合、連合していく様子を分かりやすくお話いたします。
大まかなイギリス歴史の流れをつかんで頂ければありがたいです。

中世前半👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

百年戦争、ばら戦争の影響

百年戦争の勃発

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14世紀ごろになると、イングランドを支配してきたノルマン人の王室や貴族たちは、アングロ・サクソン人と同化し始め、宮廷や公の場で使用する言葉もフランス語から英語に変わってきました。

イングランドを治めフランスに領土を持つアングロ・ノルマン人と、フランスに住むノルマン人やフランス人たちと対立するようになってきました。

フランスの領土やフランス王継承権を主張するイングランド王(エドワード3世)と、対抗するフランス王(フィリップ6世)の間に戦争が起きました。これが百年戦争の始まりです。(1337年~1453年の説)

当初は、エドワード3世や息子のエドワード黒太子が活躍しイングランドが優勢でした。ヘンリー5世は次々とフランス軍に勝利し、勢力範囲を広げました。

しかし、ヘンリー6世のときに、フランス側にジャンヌ・ダルクが現れてから形勢は逆転し、フランスでのイングランドの領土をほぼ失う形で、百年戦争は終結しました。

 

※参考記事👉ウィリアム・ウォレスはなぜスコットランドの英雄なのか

ばら戦争の勃発

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百年戦争で敗れ、イングランドの領土を激減させたヘンリー6世は精神的にもダメージを受け、国を満足に治められなくなりました。このため、ヨーク公リチャードが国王の座を狙いました。

こうして、イングランド王家でランカスター家(ヘンリー6世側)と対抗するヨーク家(ヨーク公リチャード側)に分かれて争いがおこり、約120年に及ぶ「ばら戦争」が始まったのです。

※参考👉薔薇戦争の最後の戦いが、イギリスの歴史を大きく変えたワケ

 

アイルランドへの影響

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百年戦争、ばら戦争が起きる中で、アイルランドにおけるイングランドの支配力は低下していきました。

1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)が反イングランドのアイルランド人を味方にしてアイルランド王に推され、アイルランドに侵攻しました。

結果的にエドワードは敗北しましたが、この戦乱を利用して、アイルランド人たちは立ち上がり、イングランドに奪われた土地を取り戻しました。

ウェールズへの影響

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イングランドに征服されていたウェールズにおいても、イングランド支配に対して大きな不満が募っていました。

ウェールズ王室の子孫であるオウァイン・グリンドゥールがヘンリー4世に対して反乱を起こしました。
オウァインの反乱はウェールズ全土に広がり、一時はウェールズ全土を掌握するにまでになります。
しかし、あと一歩のところでイングランド軍に敗北し、ウェールズ独立は成せませんでした。

参考記事👉最も心に残る偉大なイギリスの英雄とは?

 

ばら戦争の終結


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イングランドは薔薇戦争が続いていましたが、ウェールズ王室の子孫でランカスター家の血も引くヘンリー・テューダーが、ヨーク家のリチャード3世を、ボスワースの戦いで破りました(1485年)

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世としてイングランド王となり、テューダー朝を始め、これでばら戦争は終結しました。

参考記事:アーサー王伝説が関わっている
👉ヘンリー7世がアーサー王を利用して薔薇戦争を制した方法とは?

 

イングランド王ヘンリー8世の支配

テューダー朝時代

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イングランドではヘンリー7世がテューダー朝をはじめ、息子のヘンリー8世の時代には、中央集権や絶対王政が強まっていました。

ヘンリー8世はカトリックのローマ教皇と対立し、プロテスタント(国教会)を設立するなど宗教改革を行ないました。
さらに、娘のエリザベス1世の時代にはスペインの無敵艦隊を破るなど、国際的な地位も向上させ、イングランド王国は黄金期を迎えました。

 

アイルランド支配

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イングランドはアイルランドの王権を保持していましたが名目だけで、アイルランド人伯爵が総督となり事実上アイルランドを治めていました。

1541年にヘンリー8世は、自身がアイルランド国王となることをアイルランド議会に承認させました。

ヘンリー8世はプロテスタントをアイルランドにも強要しました。しかし、アイルランドはカトリックが根強く、イングランド支配に対する抵抗もあり、反乱が続きました。
1603年にアルスター(現在の北アイルランド)はイングランドに敗北して植民地となり、カトリックのアイルランド人は追放されてしまいました。

その後、アルスターにはイングランドやスコットランドから移住が盛んにおこなわれ、宗教や生活様式が他とは異なりました。これが北アイルランド問題の起源となります。

 

ウェールズ併合

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イングランドの支配下にあったウェールズは、ヘンリー8世がウェールズ法諸法(1535-1542)を定めたことによりイングランドに併合されました。

ヘンリー8世はウェールズ直系の血筋で、官職にウェールズ人を多く起用したことから、ウェールズの人々に人気があったそうです。

 

テューダー朝が終わったスコットランド

 

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イングランド女王のエリザベス1世には子供がおらず、1603年にエリザベス1世が亡くなるとテューダー朝は終わり、イングランド王の後継者を血縁のあるものから選ぶことになりました。

当時のスコットランド王はジェームズ6世で、祖母メアリー・ステュアートはヘンリー8世の姉マーガレットの孫で、イングランド王の継承権を持っていました。

こうして、1603年にスコットランド王ジェームス6世はイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝を始めました。


※メアリー・ステュアートはスコットランド女王で、エリザベス1世の暗殺陰謀を疑われ処刑された

※ その後のイングランド王はステュアート朝の血縁であることが、条件となっています

 

ピューリタン革命、名誉革命

ピューリタン革命

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ステュアート朝のジェームズ1世と息子のチャールズ1世のとき、国王の権力を強めた独裁的な絶対王政を行いました。
プロテスタントのピューリタン(清教徒)は議会が支持し、国王はピューリタンを弾圧します。

1637年にピューリタンを支持するスコットランドで反乱が起き、イングランドでも1642年にピューリタンが革命を起こしました(ピューリタン革命、(清教徒革命))。
チャールズ1世は処刑され、プロテスタントのオリバー・クロムウェルが政治の中心人物となりました。


王不在の中で権力を握ったクロムウェルは、王党派とカトリックを討伐する口実で、1649年にアイルランドに軍を進め、大量虐殺と土地の没収を行い、アイルランドを征服し、植民地化しました。

アイルランドではクロムウェルへの恨みを残す形となり、その後独立運動が激しく展開される原因となりました。 
 
1660年にクロムウェルが亡くなると、チャールズ2世が即位し、「王政復古」します。
しかし、絶対王政とカトリックも復活し、再び国王と議会が対立しました。

 

名誉革命 


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チャールズ2世の息子、ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)の時にイングランド議会との対立はさらに深まりました。

議会はジェームズ2世の娘メアリーと夫のオランダ総督ウィレムを擁立し、1688年に名誉革命を起こしました。


ジェームズ2世はフランスに亡命し、メアリーはメアリー2世、ウィレムはウィリアム3世として共同でイングランド王となりました。

この名誉革命で、事実上スコットランドの独立は終焉し、1707年に合同法によってスコットランドはイングランドと合同して、グレートブリテン王国となりました。

 

しかし、アイルランドのカトリックはウィリアム3世を国王と認めず、ジェームズ2世を支援しました。ジェームズ2世はアイルランドで挙兵し、ウィリアム3世は軍を率いてアイルランドへ上陸し1690年にボイン川の戦いが起こりました。

ジェームス2世のアイルランドとフランスの連合軍は、ウィリアム3世の率いるイングランド軍に破れ、アイルランドのプロテスタント支配は強化されました。


その後・・・ 

 

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1800年に合同法を成立させ、1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとにグレートブリテン王国に併合されて、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国となりました。

1931年:アイルランド独立戦争が発生。アイルランド自由国を建国し連合王国から分離
1949年:イギリス連邦から脱退し、アイルランド共和国とする。
※プロテスタントが過半数を占める北アイルランド6州は現在もイギリス(United kingdom)の一部となっています。

 

中世の前半編👉分かりやすい中世のイギリスの歴史①(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)

 

最後まで読んでくださり有難うございました。

 

※参考記事 

イングランドの歴史 アングロ・サクソン七王国の概要

分かりやすいスコットランドの歴史概要

 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで~

分かりやすいアイルランドの歴史概要 

「イギリス」の正式名称と名前の由来、イングランド、スコットランド、ウェールズの違い

 

 

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