こんにちは、たなかあきらです。
中世のイギリスはどんな状況だったのでしょうか?
イギリス(UK)を構成する国々、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれており、お互いが影響しあいながら独自の歴史を持っています。
・ローマ帝国の支配
・アングロ・サクソン人の侵略
・ノルマン人の侵略
によって影響を受けながら、大きく変化していく様子を時代の流れに沿って、分かりやすくお話いたします。
細かい話は極力しないようにしていますので、大まかな流れをつかんで頂ければありがたいです。(くわしくは参考記事を参照ください)
ローマ帝国支配時代
もともとグレートブリテン島やアイルランド島には先住民が住んでいましたが、紀元前数世紀頃に大陸からケルト系民族が侵略し移住を始めました。
紀元43年に、グレートブリテン島はローマ帝国に侵略され、北部を除く部分は支配下にありました。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドはまだ形勢さていませんでしたが、大まかに次の3つの領域に分かれていました。
・グレートブリテン島の北部:カレドニア(またはピクトランド)と呼ばれピクト人が住んでいました
・北部を除く部分:ブリタニアと呼ばれケルト系のブリトン人が住んでいました
・アイルランド:ヒルベニアと呼ばれケルト系のゲール人が住んでいました
ローマ帝国の支配はブリタニアが中心でスコットランド(アントニヌスの城壁より北)やアイルランド島にはローマ帝国の支配力は及びませんでした。
(ローマ帝国の支配は、現在のイングランド、スコットランド南部、ウェールズになります)
※ローマ支配下にあったブリタニア(赤色の部分)
410年にローマ軍が撤退し事実上のローマ帝国支配が終わると、5世紀半ばごろからヨーロッパ大陸より、アングロ・サクソン人が侵略を開始しました。
これによって、(アイルランド島を除く)ブリテン島の勢力範囲は大きく変わっていきました。
アングロ・サクソンの到来と勢力拡大
イングランド王国の成立
アングロ・サクソン人はゲルマン系の民族で、アングル人、サクソン人、ジュート人のことを指します。アングロ・サクソン人は、現在のドイツ北部にあるユトランド半島の付け根付近に住んでいました。
5世紀半ばに、ローマ帝国の支配がアングロ・サクソン人たちは北海を越えてグレートブリテン島に侵入し、アングロ・サクソン七王国を作ったのです。
5世紀半ば頃には、ケルト系のブリトン人が住む領域はグレートブリテン島の大半を締めていましたが、8世紀初めごろまでには、アングロ・サクソン人はケルト人を西と北に追いやり、ブリテン島の大部分を侵略しました。
西に追いやられた部分が後のウェールズとなり、北で独立を保った部分が後のスコットランドになります。
<改訂版> 中世ウェールズの歴史 ~ローマ支配からプリンス・オブ・ウェールズまで
「アングル人の土地」の意味からイングランドの名前がうまれ、9世紀にイングランド王国に統一されました。代表的なアングロ・サクソン人七王国は以下となります。
8世紀初めのアングロ・サクソン諸国 The Anglo-Saxon Kingdoms AD 700より
825年、ウェセックスのエグバート王がマーシアを撃破し勢力を伸ばし、マーシアは衰退しました。
更にエグバート王は、マーシアだけでなくコーンウォール地方にも勢力を伸ばし、テームズ川以南を支配しました。事実上初代のイングランド王とされます。
スコットランド王国の成立
中世初期の頃のスコットランドを簡単に描いてみると、3つの区域に分けられます。
・ピクトランド(Pictland:ピクト人)・・・北部一帯
・ブリタニア(地図中のAltClut、Gotoudin付近:ブリトン人)・・・南部一部
・ダル・リアダ(Dal Riada:スコット人)・・・西部一部
これらの国々は、イングランドを形成したアングロ・サクソン人の侵略を殆ど受けることがなく、独自の文化を形成しました。
・ブリテン島北部のピクトランドに住んでいたのはピクト人です。
・スコットランドの南部、ブリタニアの一部に住んでいたのがケルト系のブリトン人です。
ブリトン人は古代に大陸から移住したと言われおり、紀元前後から5世紀中頃までは、ピクトランドを除くグレートブリテン島の大部分に、ブリトン人は住んでいました。
・500年頃から出現したのがダル・リアダです。
グレートブリテン島から海を隔てたアイルランドに住んでいたスコット人(ゲール人)が、紀元500年ごろから海を渡って現在のスコットランド西海岸に侵略し勢力を伸ばしていき、ダル・リアダ王国を作りました。
843年ダル・リアダ王国のケネス一世が、ダル・リアダ王国と近隣国を統一して、スコットランド王国が成立しました。
※参考👉スコットランドの歴史 スコットランド王国成立の超概要
ウェールズ王国の建国
かつてはブリトン人がグレートブリテン島の大部分を支配していましたが、アングロ・サクソン人によるイングランドの出現で、領土は西の一部に追いやられてしまいました。(水色の部分)
※700年ごろのブリテン島。緑色のイングランドにほぼ占領されてしまった。
この西部のわずかな領土が、後のウェールズになります。
5世紀の中頃に、ブリトン人のキネダ・アプ・エダンが北ウェールズにグウィネズ国(現在のグウィネズ州)を建国し、ウェールズ王室を設立しました。
これが、現在のウェールズの原形と言われています。
その後、ウェールズはアングロ・サクソン七王国の国々の侵略によって、領土を狭めていきました。
アイルランドの状況
アイルランド島は、ローマ帝国の支配も受けず、アングロ・サクソン族の侵略の影響も受けませんでした。
このため、6世紀に聖パトリックが布教活動をしたカトリック教会がアイルランドに広がり、独自の修道院文化が発達しました。
聖パトリックが布教したカトリックは、アイルランドだけでなくヨーロッパ各国に広がりました。この活動の影響でアイルランド人がスコットランドに移り住みダル・リアダ王国を作ったきっかけになったと考えられます。
アイルランドでは、8世紀末までは平穏が続き、
ヴァイキングの襲来
イングランドのヴァイキング支配
8世紀終わり頃から、スカンディナヴィア半島やデンマーク付近からヴァイキングと呼ばれるノルマン人やデーン人たちが、西ヨーロッパ諸国に襲来し、略奪行為や侵略をうけるようになりました。
最も深刻な影響を受けたのが、イングランドでした。793年にイングランド北東部のリンディスファーン寺院が襲撃されたのを皮切りに、デーン人たちが何度も襲来して、領土も奪っていきました。
デーン人はイングランドの中央部にデーンローと呼ばれる領土を確保し、その広さはイングランドの約1/3程にまで拡大しました。
一時は、アルフレッド大王などの活躍によりヴァイキングの領土を奪回しましたが、その後は再びデーン人の勢力が増し、1013年のスヴェン王を初めにクヌート大王など、約27年ほど、デンマーク王がイングランド君主も兼ねて支配しました。
アイルランドとウェールズへヴァイキング襲来
スカンディナヴィア半島からのヴァイキングはアイルランドやウェールズに攻撃を加えました。
アイルランドには9~11世紀に襲来し、沿岸部を一時的に支配しましたが、イングランドとは異なり領域的な支配は行われず、アイルランドの交易を盛んにしました。
ウェールズにもアイルランドを拠点としたヴァイキングが度々攻撃を仕掛け沿岸部分は打撃を受けたりしましたが、領土を奪われたりすることはありませんでした。
参考👉ヴァイキングの歴史 ヴァイキングが強かった理由、語源や特徴、支配した国々
ノルマン人の侵略・征服
1066年、アングロ・
ノルマン人たちはイングランド征服にとどまらず、
そして、12世紀になるとノルマン人の侵攻が、
※参考👉 イングランドの征服王と呼ばれたウィリアム1世のカリスマ性の秘訣
ノルマン人たちはイングランドに領土を持つだけでなく、
12世紀のヘンリー2世の時代には、
ヘンリー2世はウェールズに侵略し領土を広げようとし、
※参考👉名作映画「冬のライオン」とヘンリー2世 イングランド王室の歴史背景
アイルランドへの支配
12世紀までに、
アイルランドの一国であるレンスター王ダーマック・
ダーマック王は王国を取り戻すためにノルマン人たちの協力を得て
そして、
こうして、
そしてヘンリー2世は、
1250年頃には、
しかしジョン王はフランス領土の多くを失い国内では悪政をつづけ
ウェールズの支配・征服
ウェールズでは、12世紀からイングランド軍の侵攻だけでなく、
スコットランドの支配
11世紀後半のスコットランド王マルカム3世はアングロサクソン
つづく
最後まで読んでくださり有難うございました。
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