ローマ帝国に支配されてたウェールズ(ブリタニア)

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こんにちは、たなかあきらです。
前回は紀元前後から15世紀初めごろまでの、中世ウェールズの歴史についての全体の流れをお話いたしました。

たなかあきらは、中世のウェールズの歴史を7つに分割して歴史年表を作りました。その中で、今回はグレートブリテン島の大半がブリタニアと呼ばれ、ローマ帝国に支配されていた時代について、お話いたします。

ブリタニアがどのようにしてローマ帝国に征服されたのか?
ローマ帝国支配下で、ブリタニアはどのようになっていたのか?

が今回のポイントです。

ウェールズ中世の歴史年表概要  

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分かりやすいウェールズの歴史概要はこちら 

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※記事一覧 

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ローマ帝国がブリタニアにやってきた

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ブリタニアって、ローマ帝国に支配されていたんですってね。ブリタニアは力づくでローマ帝国に征服されてしまったのでしょうか?

  

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まず、ローマ帝国が攻めてくる前の、1世紀初めごろのブリタニアを見てみよう。ブリタニアケルトブリトン人の種族の国々に分かれて、それぞれの首長が統治していたんだ。

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British Map 54 BC-AD 43より

 

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この国々の中で、カトゥヴェラウニ族(Catuvellauni)の首長カラタクス(Caratacus)が最も強い勢力を持っていたんだ。カラタクスは、シェイクスピア作のシンベリン(ローマ名:クノベリウス)の息子なんだ。

 

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そのカラタクスが勢力を持つブリタニアに、ローマ帝国が攻め入ったという事ですか。その戦いのきっかけは何でしょうか。

 

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カトゥヴェラウニ族の隣には、アトレバテス族の国があって(Atrebates)、ローマ軍人のヴェリカ(Verica)が事実上支配していたんだ。カラタクスは勢力を広げようと、アトレバテスを征服したんだ。ヴェリカはブリタニアから追放され、ローマに逃げ帰ったんだよ。

 

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むむむ。やられたらやり返すのが歴史上では日常茶飯事。ということは、ヴェリカはローマで反撃をしようと当然考えますよね。

 

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ヴェリカはカラタクスから受けた屈辱を、ローマ皇帝クラウディウス(Claudius)に訴えたんだ。これがきっかけとなって、クラウディウスによるブリタニア侵攻が始まったんだ。起源43年にアウルス・プラウティウス(Aulus Plautius)を将軍とする、総勢4万人とも言われるローマ軍がブリタニアに攻め入ったんだよ。

 

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ここから本格的に、ブリタニアvsローマ帝国の戦いが始まるんですね。

 

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カラタクスは弟とゲリラ戦法で対抗したんだ。ミッドウェイ川の戦いでは、15万ともいわる兵数だったんだ。ところが、統率のとれたローマ軍にはかなわず弟は戦死し敗北したんだ。、南東の大部分を失ってしまい、事実上カトゥヴェラウニの領土は征服されてしまい、強力な要塞があったコルチェスターはローマの居住地と変わってしまうんだ。

 

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これで、カラタクスは終わりにならないんだ。5年後の48年に、カラタクスは現在のウェールズにあった、シルレス(Silures)とオードヴィセス(Ordovices)を率いて徹底抗戦を続けるんだ。当時のローマ長官はパブリウス・オストリウス・スカピュラで、カラタクスは再び敗北し、妻と娘は捕らえられ兄弟たちは、ローマ帝国に降伏したんだ。

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これで、カラタクスは終わりですね。

 

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ところが、カラタクスは辛うじて脱出し、ブリタニア北部のブリガンテス(Brigantes)に逃亡するんだ。そこには女王カルチマンドゥア(Caltimandua)がいて、カラタクスは助けてもらえると、期待したと思うんだ。ところが、カルチマンドゥアはカラタクスを捕らえ、ローマ軍に引き渡してしまったんだよ。

 

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これで、カラタクスとブリタニアは、ついに終わりですね。

 

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戦犯として捕らえられローマに送られたカラタクスは、ローマの勝利パレードの後に処刑される運命にあったんだ。その前に、幸運にもローマ元老院でスピーチをする機会を得たんだ。そのスピーチが素晴らしく、ローマ人たちの心を打ったため赦されて、ローマで生涯を終えるまで住んだんだよ。

 

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どんな素晴らしいスピーチだったんですか。

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敗れたが、ブリトン人としての高貴さと高いプライドを崩さず、ローマの栄光をたたえて、ローマとの友好を示すものだったんだ。

ローマ皇帝をうならせたブリタニア王のスピーチ

 

抵抗し続けたブリタニア

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カラタクスが捕らえられ、これでブリタニアローマ帝国に征服されてしまったのでしょうか。

 

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ローマ軍とはいえ、ブリタニアの完全制服は簡単にはできなかったんだ。カラタクスの後、ブリタニアはだんだんとローマ帝国の支配が広がっていくんだ。だけれども、ブリタニアの抵抗は引き続き根強く起こるんだ。

カルチマンドゥア女王のブリガンテスはローマ側についたことで内乱が起きたんだ。元夫ヴェヌティウスが反乱を起こし、元妻を打ち負かしてブリガンテスを奪回したんだ。

また、カラタクスのときに敗れたものの、ウェールズに位置するシルレスとオードヴィセスは、ローマの要塞を取り囲み攻撃したり、ローマ人を投獄して身代金を要求したり、周囲の国々と協力してローマ帝国に激しい抵抗をつづけるんだよ。

 

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もっとも激しい抵抗は、60-61年に起きたイケニ族(Iceni)の女王、ブーディカの反乱だ。ローマ帝国に国を奪われ娘たちも辱められたことに対してローマ帝国に復讐をし、多くのブリトン人の種族を味方につけ、23万にも及ぶ大反乱を起こしたんだ。ローマ軍は敗北するんだけど、司令官を変えて軍を立て直し奇襲戦略により勝利するんだ。

イギリス史上に残る女傑ブーディカ 最強の女王

 

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そんな大反乱ばかり起きて、ブリタニアとローマの争いに収拾はつくのでしょうか? 

 

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ブリタニアの抵抗は約40年ほど続いたんだけど、ローマ皇帝アグリコラの時代には、ウェールズ付近のシルレスやオードヴィセスも、北部のブリガンテスもローマ帝国服従するようになったんだ。そして、ローマ帝国は北へ北へと現在のスコットランドへと勢力を伸ばしていくんだ。

 

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激しいあったにもかかわらず、最終的にどうやってローマ帝国ブリタニア支配下に置いたんでしょうか。

 

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ローマ帝国が武力で抑え込んだのか、話し合いで折り合ったのか分からないけれど、両方あったのかもしれないな。でも、征服が始まって40年がたつと、ローマの文化もどんどんブリタニアに入っていき融合し始め、お互い歩み寄る部分があったんじゃないかなと思うね。ブリトン人の性格もよく表れているんじゃないかと思うよ。

 

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へえ~。ブリトン人って、とても執念深くて頑固に抵抗するイメージをもったんですが、その性質とどんな関係があるんでしょうか。

 

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確かに、ブリトン人は自分たちの生活やアイデンティティーが壊されると、強い愛国心を持つように団結して徹底的に対抗する性質があるようだよ。自分たちの存在が守られると、寛容な面もあるようだよ。ローマ帝国もそれを理解したんじゃないかな。

ローマ帝国からブリタニアを支配する長官や、ローマ軍を要塞に派遣したけれど、それぞれの小国はブリトン人の首長たちが自治する、という仕組みになったんだ。ローマの完全支配ではなく、ローマと融合しながら自分たちの生活や文化も守っていく、ということが出来たので、ある程度友好的な関係を築けたんじゃないかな、と思うな。お互い組むことで、利点もあったと思うし。

 

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なるほど。面白いですね。ローマ遺跡もたくさん残っていて、人々の生活の中に取り入れられていた様ですものね。(例えば、スコットランドハドリアヌスの城壁、バースのローマ風呂、ウェールズのカールレオン付近にある円形劇場、ウェールズのローマ道など)。

ところで、ブリタニアとローマが組むことの利点って、何があるのでしょうか。

  

ローマ支配下のブリタニア

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ローマ帝国にとってのブリタニアの存在は、勢力範囲を広げることにより、近隣諸国やローマ市民たちに、ローマの威厳を示すことにあったんだ。一方、ブリタニアにとってローマ帝国の存在意義もあるんだよ。

 

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ブリタニアローマ帝国に支配されることの利点ですか。

 

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そうだよ。当時のブリタニアの近隣諸国をぐるりと見ると、良く分かるんだ。ブリテン島の北部(ピクトランド、当時はカレドニア)当時はにはピクト族、西のアイルランド(当時はヒルベニア)にはスコット族、また海からはヴァイキングがいて、ブリタニアはこれらの外敵から絶えず攻撃を受けていたんだ。

 

こんな感じで。
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ブリトン人たち自身でブリタニアを外敵から守るよりも、強力なローマ軍をバックにした方が有利なんだ。要はブリタニアはローマ軍に守られていた、と言えると思うよ。つまり、ローマ帝国の高級軍人が司令官として任命されていて、この司令官のもとブリトン人の首長たちは領土の自治を行ったり、ピクト族やスコット族などの外敵から守る辺境警備をした、という時代だよ。外敵から守り勢力を増していけば、ローマ帝国としてもメリットがあるしね。

 

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なるほど。ローマ帝国ブリタニア諸国は持ちつ持たれつの部分があったんですね。

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話はスコットランドになるけど、ローマ帝国は、ピクト族の侵入を防ぎブリタニアの支配力を拡大するために、ハドリアヌスの長城とアントニヌスの城壁を作りローマ軍を駐在させ、ブリタニア諸国と共に戦ったんだよ。

※南がハドリアヌスの長城(ハドリアヌス帝の時代、122年~に建設)。北はアントニヌスの長城(アントニヌス帝の時代、142~144年に建設)。いずれもユネスコ世界遺産に登録。

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ハドリアヌスの長城

 

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質問があります。ローマ支配の時にブリタニアの人々は、自分たちの国を取り戻そうとしなかったのでか?

 

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おっ、良い質問だな。首長たちは、お互いけん制し合うことはあったものの、国を取り戻そうとローマに戦いを挑んだり、首長同士で自治権を争ったりはあまりしなかったようだ。むしろローマ軍に従い、北からのピクト族(スコットランド)や、西からのスコット族(アイルランド)の侵略に対してする辺境警備に従事して、国を守ったようだ。

ブリタニアでは領土を拡大する無理な攻めよりも、ローマという強大な力を味方にして自分たちを守る防御が主な戦いだと思うんだ。このため、外敵から攻められながらも、かなり長存続した小国も多かったと思うよ。基本的にはね。

 

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なるほど。ブリタニアの国つくりには学ぶ点がおおそうですね。

 

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基本的にはね。ブリトン人としての誇りと愛国心を強く持ち、ローマに歯向かった人物もいるけどね。

 

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えっ

 

傾くローマ帝国の支配力

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時代は4世紀初めに飛ぶよ。この頃になると、ローマ帝国自体の力も弱まって東西に分裂したり、ブリタニアの統治にも手が回らなくなってきて、その分ブリトン人の首長たちの力が強まってきた時代なんだ。ローマ帝国は自国の軍備が必要となり、ブリタニアの駐在兵を抑えなければならず、ブリトン人の首長に自治権を与える代わりに辺境警備をさせたんだ。

 

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なるほど。ブリタニアローマ帝国のお国事情にも大きく影響をされたのですね。

 

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そうだな。当時はコンスタンティヌスブリタニアを統治する長官であったが、306年に父コンスタンティウス1世が亡くなりると、コンスタンティヌス1世として西ローマ皇帝となったんだ。更に、コンスタンティン1世は312年に東西合わせたローマ皇帝となったんだ。

もはや、コンスタンティヌス1世ブリタニアを直接統治する暇はなく、さほど位の高くないローマ地方官がブリタニアを統治する長官に任命されたんだ。

 

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下級役人がブリタニアの長官ですか。ローマ帝国ブリタニアを侵攻しはじめた1世紀に、果敢にローマに対抗したカラタクスもそうですけど、ブリトン人はとても誇りが高いんですよね。下級役人が自分たちの統治者となれば、怒りませんか?

 

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怒るよな。伝説によると、4世紀初めのブリトン人の実力者で、現在の北部ウェールズ付近を自治していた首長に、エウダヴ・ヘンという人物がいたんだ(Eudaf Hen、オクダヴィウスOctaviusとも呼ばれる)。

ブリタニアが見下されたと怒ったエウダヴは、兵を挙げてブリタニアの長官を追い出したんだ。コンスタンティヌス1世は新たな長官に祖叔父トラヘルンを指名しエウダヴ討伐に赴くんだ。エウダヴはいったんはローマ軍に勝利するものの、敗れてノルウェーに逃れてしまうんだ。

 

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いくら誇りを傷つけられたとしても、ローマ帝国に戦争をしかけるとは、エウダヴも浅はかだったんじゃないかなあ。続きはどうなるの?

 

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ところが、エウダヴを支持するウェールズ付近の人々が再度兵を挙げ、仲間たちの協力でエウダヴは勢いを盛り返し、トラヘルン率いるローマ軍に勝利して長官の座を奪取してしまったんだ。

 

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よかったですね、と言いたいところですが、やばいんじゃないですか。ローマ軍が本気になって攻めてくるでしょう。

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そうなんだ。エウダヴはそれを恐れたんだよ。エウダヴはローマ帝国と和解する方法を考え、当時のローマ軍司令官カウント・テオドシウスの右腕、マグヌス・マクシムスを自分の娘と結婚させたんだ。

さらに、マグヌスを自分の後継に選んでブリタニア長官の座を譲り、両国の間に出来た溝を平和的に解決できたんだよ。

 

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これで、良かったですね、と言っていいんでしょうか。

 

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ウェールズを中心とするブリタニアとローマとの亀裂は収まり、マグヌスはウェールズ北部に拠点を置いて、しばらくは平和が訪れていたんだ。しかし、ローマ帝国は再び東西に分かれただけでなく、ローマ帝国自体も外敵から攻め込まれるようになり、ブリタニアも混沌としてくるんだよ。それを象徴するような事件も起こるんだ。

 

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4世紀後半、380年頃の西ローマ皇帝はグラティアヌス(グラティアン)だったんだが、ローマ軍人達への待遇を軽んじたため、大きな不評を買っていたんだ。不満をもつローマ軍人たちは、ウェールズにいるマグヌスの元へ終結するんだ。マグヌスは軍人たちの支持をバックに反乱を起こし、グラティアヌスを倒して西ローマ皇帝になったんだ。
これに対して、かつての上司カウント・テオドシウスの息子で東ローマ皇帝テオドシウス1世は、マグヌスを簒奪者として非難し両者に戦いが起きるんだ。結局、388年にマグヌスは捕らえられて処刑され、マグヌスの乱は終焉したんだ。

 

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ローマ帝国内でも内乱がおきちゃってるんですね。それに外敵が攻めてきたとすると・・・

 

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マグヌスの乱が終わり4世紀末になると、ローマ帝国自体がバンダル族やゴート族に激しく攻め込まれるようになるんだ。もはや、ブリタニアにローマ兵を置いておくことが困難となり、ローマ帝国の影響力がどんどん低下していくんだ。410年にはローマが西ゴート族に奪われるなどの危機的な事件がおきたんだ。

そしてついに、410年のホノリウス帝の時にローマ軍はブリタニアから撤退して、事実上ローマ帝国支配が終焉したんだ。

西ローマ帝国 – Wikipedia

 

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ローマ軍がブリタニアから撤退。どうなるんでしょう、ブリタニアは・・・

 

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それは、次回「ブリタニア時代」でお話ししましょう。 

 

おまけ)人と時代を見抜いた男

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ウェールズにはエウダヴ・ヘンにまつわる面白い伝説もあるんだよ。ローマ帝国との関係を修復するために、娘をマグヌス・マクシムスと結婚させて、後継者にしただろう。

 

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ええ。穏便に両国間の問題は解決しましたね。

 

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ところが、ウェールズ内では問題だったんだよ。内乱へと繋がってしまったんだ。

 

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エウダヴ・ヘンの娘を狙っていた人物がいたとか。

 

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エウダヴ・ヘンの座を狙っていた輩がいたんだ。エウダヴの甥にコナン・メリアドクという男がおり、密かに「将来はブリタニアを支配するぞ」と野望に燃え、子供が居ないエウダヴ・ヘンの後継を狙っていたんだ。

マグヌスに後継の座を譲られては、自分の野望計画が大幅に狂ってしまう。コナンは大いに腹を立て、後継者の座を奪い取ろうとマグヌスに戦いをしかけたんだ。

 

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そりゃ、怒るかもしれませんね。でも、戦うより話し合った方がいいんじゃないですか。領土を分け合うとか、何かもらうとか。

 

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コナンは相手が悪かったなア。マグヌスは百戦錬磨のローマ軍指揮官。コナンが敵う相手じゃなかったよ。可哀そうなコナンは、君が言った通り、戦わない方がよかったな。

 

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じゃあ、コナンは投獄か全て没収かですか。

 

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さすが、コナンは世渡りがうまいと見えるよ。マグヌスがとても強く自分が太刀打ちできる相手ではなく、また有能で前途有望な人物であると見抜いたんだろう。コナンは態度を大きく変えマグヌスと和解し、右腕として共に戦うことになったんだ。 

 

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すごい変わり身で、ゴマをすったわけですね。

 

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そのゴマからちゃんと実がなったんだよ。マグヌスは、西ローマ皇帝グラティアヌスを倒して、西ローマ皇帝になっただろう。その際も、コナンはマグヌスの下で戦い功績を挙げたんだ。

コナンは報酬として、ローマ帝国の一部で現在のブルターニュー地方の領土を譲り受け、ケルト系のブリトン人を大勢連れて移住したらしい(当時はブリタニーと呼ばれた)。コナンはブルターニュの建国者と言われているんだ。コナンの子孫はその後もブルターニュ地方の統治者を代々務め、このため今もブルターニュ地方には多くのケルト系民族が多く住んでいる、と伝説では言われているんだよ。

 

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コナンすごいですね。ブリタニアローマ帝国に支配されていただけあって、両国を行き交う様々な事実や、伝説があるんですね。

 

この部分(写真はウィキペディアより)

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 ※ローマ軍が撤退する前後のブリタニア長官はコンスタンティン三世やコンスタンス二世で、彼らはブルターニュ地方に移ったコナン・メリアドクの子孫とされる。コンスタンティン三世は後に西ローマ皇帝となり、アーサー王物語によりますと、コンスタンス二世はアーサー王の叔父、コンスタンティン三世はアーサー王の祖父とされています。

 

※関連記事

・カラタクスに関する記事 

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・反乱を起こしたブーディカ女王の記事www.rekishiwales.com

・マグヌス・マクシムスに関する記事
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・コナン・メリアドクに関する記事

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